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井上彩子

 十年前に六歳上の旦那と結婚してから、わたしにとって夜はずっと地獄だった。厳密にいえば、旦那が仕事から帰ってきてからが、精神的にも肉体的にも耐え難い時間の始まりだった。旦那がリモートワークしていた期間は、二十四時間ずっと緊張の糸を張って過ごしていた。

 旦那とは、派遣社員として働いていた銀行で知り合った。相手は出世街道を順調に進む、高給取りの正社員。直属の上司で、柔らかな物腰で指導してくれた。勤務開始から二ヶ月が過ぎた頃、向こうから飲みに誘ってきた。玉の輿を狙って派遣労働を選んだわたしにとっては、願ったり叶ったりの展開だった。

 二人きりになると、彼は職場よりもさらに優しかった。半年間の同棲生活でも、その態度は変わらなかった。夜景のきれいな高級レストランの窓際の席でのプロポーズ。自分が映画やドラマのヒロインになった気分になれた。幸せの絶頂。そう、そこがわたしの人生のピークだった。

 旦那は本性を上手く隠してた。けど、新婚旅行でヨーロッパ周遊をした時から、何かとわたしの言動にケチをつけるモラハラな態度、束縛男の顔を見せるようになった。明るい未来を期待していたところに、薄い影が差したような気分になった。

 それから暗雲が立ち込めて、真っ暗な生活になるまでに、そう時間は掛からなかった。結婚と同時に離職して家庭に収まるよう命じられたのは、最初からわたしもそのつもりだったから気にならなかった。けど旦那は、食事、掃除、洗濯、わたしがやることなすことすべてに口を出した。自分が求める食事の質、レパートリー、埃がどこにも見当たらないようにすること、洗濯物の畳み方。神経質すぎるほど事細かに指導してきた。望みのレベルに達しないと、「人の給料で楽しやがって。ふざけんなよ」と声を荒げて罵ってくるようになった。それでも満足がいかないと、次第に暴力を振るうようになった。実家や友人に助けを求めないようにと、毎日のようにスマートフォンをチェックされ、GPSを付けられて行動を監視された。

 暴力といっても、最初のほうは軽く小突く程度だった。本当の地獄が始まったのは、新型コロナウィルスが猛威を振るい、リモートワークするようになってから。未知のウィルスへの恐怖、これから先、世の中がどうなっていくのかわからない不安。旦那のストレスは、すべてわたしへの暴力で発散されるようになった。世間体を気にして身体ばかりを痛めつけていたのが、自分で買い物をする時間ができたことで、わたしの外出は一切許さず、痣ができるくらい顔面を殴ってくるようになった。死にたい。何度そう思ったことだろう? でも、それを実行する気力さえ奪われた。

 やがてリモートワーク期間が過ぎると、行内では大規模な人員削減の話が出るようになった。人一倍、臆病者の旦那は、リストラ候補にリストアップされるのではないかと怯え、その不安を解消するために、それまで以上にわたしを殴った。素手だけじゃなく、鞭や竹刀まで使うようになった。

 変わった点はもう一つあった。金曜日に家に帰って来ず、翌朝になって帰ってくる、ということが度々起こるようになった。その週末は暴力も無くなり、穏やかに過ごせる点はよかったけれど、旦那に何が起こったのか気になった。どうにか外出するチャンスを見つけた時、わたしは思い切って探偵に相談した。どうせ浮気だろう。そう予想した通りの結果だった。ただし、相手の女は新興宗教の信者であることもわかった。「どうやら旦那さんは騙されているようですね」大手探偵事務所の調査員は、苦笑いをしながら報告した。「若くきれいな女性を使って、裕福な男性に近づき信者になるよう勧誘する。旦那さんはその手に引っ掛かってしまっているようです」

 旦那はすでに入会してしまったのかと訊くと、調査員は「はい」と答えた。そしてどうやら、旦那は浮気ではなく本気になり、わたしとの離婚を考えているらしい、ということも知った。それを聞いて、わたしは目の前が真っ暗になった。そして、旦那の裏切りを知ってショックを受けたことに驚いた。あんなにも人権無視、酷い扱いを受けていたのに、旦那を愛していたことを知って、わたしは愕然とした。それまでどんな暴力にも耐えてきたけど、何かの糸がぷっつりと切れたように、生きる気力を無くした。その日から、旦那の前で事あるごとに「死にたい」と漏らすようになった。「どうせ口だけだろ」旦那は嘲笑ったけど、その目には「死んでくれたら清々するのに」という感情が表れているような気がした。

 そして、恐れていた時がやってきた。数日間、旦那が妙に優しくしてきたことで、おかしい、と警戒はしていた。案の定、旦那はわたしを居間に呼び寄せ、向かい合って座らせると、単刀直入に離婚したいと切り出してきた。探偵に調査結果を報告されてから、約一ヶ月が経つ頃だった。それでもわたしは、まだ心の準備ができてなかった。浮気は何かの間違い。離婚したいだなんて考えるはずがない。現実逃避して、そんなことを期待していた。

 それが、すべて打ち消された。傷つけられながらもしがみついてきた現実が音を立てて崩壊した。わたしはこの先、何を信じて、何に縋って生きていけばいいんだろう? 学歴も職歴もない。旦那が提示した慰謝料は微々たるもので、文句があるなら裁判に応じると言う。旦那の学生時代の友人には、優秀な弁護士が何人もいる。そのことを知っているわたしは、裁判を起こす気にもなれなかった。

「死にたい」

 わたしはただ一言、そう呟くのが精一杯だった。そしてそのまま寝室に駆け込み、鍵を閉めて籠城した。旦那に今までされた仕打ちを事細かに書いて、飢え死にするのを待とう。そう決心してパソコンに向かった。最初はドアを乱暴に叩いて、旦那は出て来るように脅してきたけど、すぐに愛想を尽かしてどこかへ行ってしまった。

 結婚以来、初めてと思えるくらい、静かで孤独な時間が流れた。旦那から受けた、精神的、肉体的な攻撃を振り返っていくうちに、自殺するのが自分の中で正当化されていくのを感じた。こんなに辛い目に遭ってきたのなら、倫理的に批判されるよりも、同情されるに違いない。誰もが、わたしと同じ立場だったら同じ道を選ぶと。ここまでよく頑張ったから、死ぬのは間違ってないと。そう言ってくれると思った。

 そんな時だった。死神からのメッセージが届いたのは。籠城生活二日目。このまま一人で死ぬのも悪くないけど、わたしと同じように死を求める人たちと一緒に旅立つのも悪くない。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。

 ドレッサーの中に隠しておいた一万円を手にして、夜中、こっそり窓から抜け出した。そのままビジネスホテルに入って、最後の晩餐にミートスパゲティを食べた。旦那が大のトマト嫌いのせいで、ミートスパゲティを食べるのは独身の時以来だった。食べながら、色々なことを思い出して泣けてきた。テレビを点ければ、知らないタレントばかりが出てる。外の世界から完全に隔離される生活を送っていたから、まるで浦島太郎になった気分だった。

 その翌日は実家に帰って、久しぶりに両親に会った。「別人みたいに顔が変わった」二人はわたしの顔を見てショックを受けた。結婚生活は上手くいっているのかと心配そうに訊いてきたけど、「大丈夫」と答えた。もちろん、死ぬつもりだなんて口が裂けても言えない。ただ、両親には気づかれないように、特別な意味を持って、「ありがとう」とたくさん言って、「さようなら」と別れを告げた。

 そうして、わたしは夜になって鴉山へ向かい、同じ自殺志願者の人たちと合流して、今こうして不思議な世界にいる。ここでは強者も弱者もいない。他人を攻撃したり、マウントを取ろうとする人は、首輪から流れる電気で制裁を加えられるから。どこの誰が、何の目的でこんなことをしたのかわからないけど、わたしにとってここは楽園に思える。暴力に支配されないということが、どれほど素晴らしいことなのか実感した。

 だから、皆で外の世界への出口を見つけに行って、この世界が楕円状だとわかった時、萩原や川崎は絶望的な様子を見せたけど、わたしはそれほどショックを受けなかった。居住するためのカプセルも、食料も水もある。何も恐れることなく生きていける。

 砂漠の果てからカプセルに戻ってきてしばらくすると、太陽がないのに辺りが段々と暗くなってきて、やがて夜が訪れた。

 今、わたしはカプセル内のベッドの上に一人横たわっている。空には月がないから外は真っ暗。それでも恐怖心はまったく感じない。旦那の暴力に怯えなくていいのだから、これほど安全な場所はない。ビジネスホテルでも、いつ旦那が場所を特定して乗り込んでくるんじゃないかと不安で仕方なかった。だから、今夜は本当に久しぶりに安眠ができる。他に望むことは何もない。ここがどこであろうと構わない。もう二度と元の世界には戻りたくない。たとえ一人きりになろうと、この楽園で生き続けたい。心の底からそう思いながら、わたしは目を閉じた。


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