鈴木結衣
『自殺志願者募る
日時 五月十六日 十九時
集合場所 鴉山駅前ロータリー
方法 練炭自殺
補足 車、睡眠誘導剤、アルコール、練炭、目張りテープ等は、こちらでご用意致しします。
他、詳細は返信メールにて
死神より』
今度こそ気持ちが変わらないようにと、財布の中には行きの分の電車賃しか入れてこなかった。中学校の屋上、駅、川。今まで何度も死のうと思ったけど、直前で踏みとどまった。けど、それも今日で終わり。自分では死に切れないから人の手を借りる。一週間前に『死神』と名乗る人からSNSに届いたメッセージは、神様から救いの手が差し伸べられたように思えた。
いつものように誰も話す相手のいない学校へ行って、授業が終わってからすぐに乗った電車は、窓の外の建物がどんどん少なくなっていくのに比例して、乗客の数も減っていった。今はもう同じ車両にわたしを含めて三人しかいない。一人はわたしのお母さんと同じくらいの年齢の女の人。前髪が目にかかるくらい伸びてて、膝の上に置いた傷だらけの指をじっと見つめている。茶色のカーディガンを着ていて、とっても地味だ。もう一人は、サラサラの黒髪がおかっぱ頭みたいな、黒縁のメガネをかけた痩せたスーツ姿のサラリーマン。この人も顔が青白くて、見るからに元気がない。二人ともマスク越しにしか顔は見えないけど、生きるのに疲れ切っているみたい。もしかしたら、『志願者』なのかもしれないな、と思った。
車窓の外は真っ暗で、時々、民家の灯がぽつぽつと通り過ぎる。窓に映る制服姿の自分も、他の二人みたいに頼りなくちっぽけに見える。マスクを着けていても、自分の顔を見るのは嫌だ。鏡を見る度にいつも思う。もし、癖っ毛じゃなくて真っすぐできれいなサラサラ髪だったら。一重じゃなくてくっきり二重の大きな目だったら。もっと背が高くて太りやすい体質じゃなければ。きっともっと、SNSに載せる写真は映えて、同級生から好かれていたかもしれない。少なくとも、勝手に撮られた写真を変に加工されて、ネット上で晒し者にされるいじめには遭ってなかったと思う。そのコンプレックスだって、家にお金があれば縮毛矯正をしたり、高価なメイク道具で解消することができた。だけど、新型コロナウィルスが流行ってから、お母さんの夜の仕事が減ったお陰で、食べるのだってままならなくなったから、そんな贅沢できるわけない。
『親ガチャに失敗したんだよ、お前』
クラスメイトからの容赦ない言葉に反論するどころか、心の中でその通りだと思ってしまった。お母さんとお父さん、ちゃんと二人揃ってる家に生まれていれば、何の苦労もせずに生活できるはず。どうして、こんなに貧乏な家に生まれてしまったのか、何度も神様を恨んだ。
だけど、卑屈に生きていくのも今日で終わり。苦しまずに死んで、来世では絶対に幸せになる。次は親ガチャを成功させて、金持ちの家に生まれて、見た目にも恵まれて……。わたしがこんなことを考えて死んでいったと知ったら、お母さんはどう思うだろう? わたしが死んだら泣くのかな? ダメだ、いつもそう考えて結局、死ぬのを躊躇してきたんだった。今日こそ思いを遂げる。どうせ帰りのお金はないんだ。ほんの少しの勇気。死ぬためにもう一歩踏み出す勇気を持てば、わたしは楽になれる。
電車がトンネルに入って抜けると、窓の外の暗闇が一段と濃くなった。しばらくして、わたしはそれが鴉山の影だと気づいた。車内のアナウンスが、終点の鴉山駅にもう間もなく到着することを告げている。それを聞いた途端、電流が走ったように女の人の身体が震えて顔を上げた。やっぱりあの人も、これから自殺をしようとしてる人だ。わたしは直感した。わたしも同じように、アナウンスを聞いた瞬間に全身が震えてしまったから。
もう後戻りはできない。恐怖と安堵とよろこびと情けない気持ち。色々な感情がいっぺんに込み上げてきて涙が溢れる。どうにか止めようとするけど、気持ちをコントロールすることができない。視界が歪んで涙が零れ落ちてマスクの中に入り込む。鼻水が出そうになってすすっていると、メガネをかけたサラリーマンが立ち上がった。コロナに罹ってると勘違いされて、他の車両に移れと注意されるのかもしれない。反論してトラブルになるのは嫌だ。それで殴られて殺された人もいるってニュースで聞いた。わたしはそんな死に方はしたくない。注意されたらおとなしく隣の車両に移ろう。そう思いながら、わたしは身構えた。
「あの」男の人はジャケットのポケットに手を入れながら、困ったように声をかけてきた。
「ご、ごめんなさい」
わたしは頭を下げながら謝ったけど、マスクの中で声がこもって、男の人にはちゃんと聞こえなかったと思う。目の端で男の人がポケットから何かを取り出すのが見えた。
「よかったら、これ使って。まだ一回も使ってないから」
男の人が差し出したのはポケットティッシュだった。わたしが泣いているのに気づいて、わざわざ持ってきてくれたんだ。それなのに、わたしは変な誤解をした。疑ったことを恥じながら、反射的にティッシュを受け取った。いつもだったら、知らない人からの親切も遠慮して素直に受け取れなかったと思う。だけど、今は男の人の優しさがうれしかった。
「ありがとうございます」
顔を上げると、男の人の目元が少しだけ笑っているように見えた。
「全部使っちゃっていいから」
男の人はそう言うと、自分の席のほうへ戻って行った。猫背で老人みたいな後ろ姿だ。ティッシュは返さなくていい。それを使うことはもうないから。この人も自殺志願者。きっと、優しすぎる性格のせいで苦労ばかりしてきたんだと思う。多分、わたしくらいの年齢の時から今までずっと。
以前、学校でいじめに遭って辛い、死にたいとSNSに書き込んだ時、『辛いのは今だけ。大人になればきっと、いいことがたくさんある』『もっと広い世界を見れば、今の悩みなんてちっぽけだってわかるさ』なんて、無責任な励ましのメッセージがたくさん寄せられた。いじめのターゲットになる人はきっと、死ぬまで同じ人生を送り続けるんだ。わたしも、このまま生きていたって、あの男の人と同じ年齢になっても死にたいと思い続けているんだと思う。それだったら、これからもずっと苦しみ続けなきゃいけないなら、思い切って今、死んでしまうのはアリだと思う。
電車の速度が緩やかになって、外が明るくなってきた。烏山駅構内に侵入すると、駅員以外は誰もいないホームに停止した。それまでガタゴトと響いていた走行音が聞こえなくなった途端、急に寂しい気持ちが込み上げてきた。車内アナウンスが、終点の鴉山駅に到着したことを告げる。わたしにはそれが、人生の最終地点に到着したことを案内しているように思えて、背筋がゾクッとした。そのタイミングで、ドアが一斉に勢いよく開いたものだから、思わずビクンと身体が震えた。
最初に男の人が、次に女の人が席を立つ。それに続いてわたしも外に出ると、昼間は半袖のワイシャツ一枚で過ごせるくらい暖かかったのに、今はブレザーを着てないと肌寒いくらい気温が下がっていた。
他の車両から出て来る人の数も少なくて、誰の話し声も聞こえてこない。電車のエンジン音と構内アナウンスが、人気のない駅前にまで響いている。駅の周りに民家はない。外灯の光が頼りなげに見えるだけで、あとは信じられないくらい真っ暗な世界が広がっている。
わたしはブレザーのポケットの中からスマートフォンを取り出した。
『鴉山駅前 十九時集合。目印に白いハンカチを手に持っておくこと』
それが、自殺の意思があると返事をした直後、『死神』から送られてきたメッセージだった。指示された通りに白いハンカチを持参したけれど、改札を抜けたところで急に不安になってきた。誰かの悪質なイタズラだったらどうしよう? どうして今までそのことを疑わなかったのか、自分の警戒心の無さに呆れた。いや違う。それだけ死にたいという気持ちが強いということだ。
だけど、イタズラメールに騙されてノコノコとこんな何もない田舎の駅まで来た間抜けな姿を隠し撮りされて、ネットで拡散されたら? それ以上に恐ろしいのは、犯罪に巻き込まれることだ。男の人に無理やり連れ去られたら、助けを呼べる人はここには誰もいない。わたしは、ブレザーのポケットに白いハンカチを入れたままにして、様子を見ることにした。
電灯が一つチカチカと消えかかった、無人の駅舎を抜けて外に出ると、白いハンカチを手にした人たちの姿が目に入った。さっき同じ車両にいた二人だ。それから、金髪に派手な化粧をした、真っ赤なニットワンピースを着た二十代半ばくらいの女の人が、少し離れた場所でマスクを顎に下げて煙草を吸ってる。その人と同い年くらいの男の人が近づいて、煙草を一本貰った。韓流アイドルみたいに黒髪を真ん中で分けて、白いパーカーとデニムには、絵の具を投げつけたみたいにカラフルな模様が付いてる。その男の人はマスクを着けてなくて、女の人に笑いながら何か話しかけてる。この人たちはきっと、自殺志願者じゃない。いじめる側の人間に見えるから。
駅舎の入り口で立ち尽くしていると、背後に気配を感じた。
「お嬢さん、ちょっと失礼」
しゃがれた小さな声。わたしの横を、白髪頭で少し背中の曲がった痩せたお爺さんが通り抜けた。手には白いハンカチ。そのすぐ後に、サイドを刈り上げた短髪の、少しお腹の出た四十代くらいのスーツ姿のサラリーマンが続いた。その人も白いハンカチを持っていて、自殺志願者たちはお互いに何となく距離を取りながら、同じ場所に集まった。
予想してたのとは違う。こんなに大人がいるとは思わなかった。テレビのニュースでも言ってたのに。コロナのせいで若い女の人の自殺が増えたって。だから、自分と同い年くらいの子も何人かはいるのかと予想していた。それなのに多分、十代はわたし一人だけだ。向こうにいる何人かが、わたしも自殺志願者なのかと探るようにちらちら見てくる。その視線に晒されるのが怖くて、一旦駅舎の中に戻ろうと振り向いたら、目の前が急に真っ暗になって何かにぶつかり、わたしは尻もちをついた。
「悪い、大丈夫?」
頭の上から分厚くて大きな手が伸びてくる。指はマメだらけで、まだ五月なのに肌が黒く日焼けしてる。見上げると、坊主頭の目つきの鋭い学ラン姿の男の子が、無表情でわたしを見下ろしていた。野球でもやってるのか、肩幅が広くて背も百八十センチ以上はありそう。少し大人びた顔からも高校生だとわかる。わたしは彼の大きな身体にぶつかって倒れてしまったらしい。
「あ、はい、すいませんでした」
見つめられるのが恥ずかしくて、わたしは目を逸らして、手を借りずに立ち上がった。そのまま駅舎の中に入ろうとすると、
「おい」と乱暴に呼び止められた。「落とし物」
振り返ると、男の子は白いハンカチを手にしていた。わたしはブレザーのポケットを手で探り、自分のハンカチがないことに気づいた。
「ありがとうございます」
自殺志願者たちに見られてしまったのが恥ずかしくて、慌てて受け取ろうとすると、男の子はハンカチをわたしの手からサッと遠ざけた。どうしてそんなことをするのかと彼の顔を見ると、
「ここまで来て決心が鈍ったのか?」男の子はマスクを顎にずらして、わたしを軽蔑するような目で見下ろしながら言った。「死のうと思ってここに来たんだろ」
「どうして――」
それを? とわたしが口にする前に、男の子は学ランのポケットから白いハンカチを取り出した。
「死神、だろ?」
恥じるような顔をしてわたしから目を逸らす。日に焼けた顔に白い歯。健康的な見た目と自殺志願者というイメージが合わなくて、冗談を言っているのかと思った。彼こそがイタズラをした張本人で、まんまと引っ掛かったわたしをからかっているのかとさえ疑った。だけど、
「ここで引き返して、この先、何かいいことあるのかよ?」
男の子の目つきと口調は真剣そのもので、わたしと同じ自殺志願者なんだとわかった。
「ないって顔してる」男の子は悲しそうに言うと、マスクを口元に戻して、わたしの手にハンカチを握らせた。「残念だけど、俺もそう思う。神様なんていないし、誰も救いの手なんて差し伸べちゃくれない」
まるでわたしの気持ちを代弁してくれているようで、一気に親近感が湧いた。それから、
「行こうぜ」
彼は他の自殺志願者たちが集まる背後を親指で指すと、わたしの返事を待たずにクルッと向きを変えて、無言でそっちに歩き出した。その背中には、わたしが絶対についてくると確信するような雰囲気があった。実際、彼の言葉に後押しされて、わたしはもう帰る気は起こらず、自然と後に続いて歩き出していた。わたしが隣に並ぶと、
「ダイスケ」前を向いたまま彼はぶっきらぼうに言った。「お前は?」
一瞬、何のことかわからなかったけど、名前だと気づいて、
「結衣」わたしは慌てて言った。「鈴木結衣、です」
「苗字は必要ないだろ」まるでわたしがくだらない冗談でも言ったみたいに、ダイスケくんは薄っすら笑った。「どうせすぐに死ぬわけだし」
だったら、名前を言い合う必要もなかったのに。バカにされたようで悲しくなって横顔を見ると、
「俺はエンドウ」ダイスケくんは振り向いて、胸ポケットから生徒手帳を出して、証明写真が貼ってあるページを開いて見せてくれた。「遠藤大輔。多分、これが最後の自己紹介になるんだろうな」
今よりもさらに頬のこけた顔写真。甲子園常連の高校名。やっぱり野球部なんだ、大輔くんは。もしかしたら、有名な選手なのかもしれない。……だったら尚更、どうしてこんな所にいるんだろう? 口に出しかけて、わたしは咄嗟にやめた。それを訊くのは失礼だし、もし大輔くんが答えたら、わたしもここへ来た理由、死にたいワケを話さなきゃいけなくなる。
「おい、あれじゃないか、迎え」
カラフルな模様の服を着た男の人が声を上げた。その視線の先を追うと、白いワゴン車が一台、ロータリーに入ってくるところだった。よく建設現場の人たちが乗ってる車。後部座席の窓は全部真っ黒で中が見えないようになってる。わたし以外の人たちもその車に目を向けて、顔を見合わせ、何となくお互いの距離を縮め始めた。
「まだ若いのに、君たちも?」
白髪頭のお爺さんが、わたしと大輔くんを見て、憐れむように言った。わたしたちの年齢で死のうと思うなんておかしいことなのかもしれない。他の人も興味を示して見てきたから、わたしは恥ずかしくなって顔を伏せた。
「年齢とかって関係ありますか?」
大輔くんの声が思いがけず鋭かったから、わたしは驚いて顔を上げた。お爺さんや周りにいる人たちも目を丸くして大輔くんを見る。
「死にたくなるくらい嫌なことって、別に誰にでも起こるんじゃないですか?」
大輔くんが言い放った言葉で、その場が静まり返った。
「そ、そうだね、余計なことを言った。すまない。許しておくれ」
お爺さんが素直に頭を下げたことで、大輔くんは自分の言葉がきつ過ぎたと思ったのか、
「あ、いえ、僕のほうこそ、生意気な口を利いてすいませんでした」
きれいに背筋を伸ばしたまま頭を四十五度下げて謝った。野球のユニフォーム姿が想像できるようなスポーツマンらしい爽やかな態度が、この場には似合わない。どうして大輔くんは死にたがってるのか、わたしはやっぱり気になった。大輔くんだけじゃない。お爺さんや、他の人たちがここへ来た理由も知りたくなった。
「何だあれ?」
大輔くんに集まっていた皆の視線が、カラフルな模様の服を着た男の人のほうへ移った。
「何かの冗談?」
金髪の女の人が煙草を足元に捨てて、ロングブーツの裏で火を踏み消しながら小さく笑い声を上げた。だけど、おかしいからじゃなくて、怖いのを無理に隠すような笑い方だった。この二人も自殺志願者なんだ。意外に思いながら、わたしは女の人の視線の先を追った。気づくと、白いワゴン車はすぐ近くまで来ていて、運転席に座る人の姿を見た瞬間、わたしは全身に鳥肌が立つのを感じた。
皆もそれに気づいてざわつき始める。女の人が言った通り、何かの冗談であって欲しかった。だけど、そうだとすると、やっぱりわたしたちはイタズラに引っ掛かったことになる。
白いワゴン車の運転手は、ニワトリの立体的なお面を被っていた。白い毛に合わせて、真っ白な服を着ている。同乗者はいないみたいだった。
「からかってんのかよ」カラフルな模様の服を着た人が笑い声を上げた。だけど、ワゴン車を見つめる目は鋭くて怖い。「だったら、許さねえ」
その言葉に反応したみたいに、大輔くんがロータリー側に一歩踏み出した。握りしめた両手が震えてる。顔を見上げると、怒りを押し殺すように奥歯を噛みしめていた。わたしは腹が立つよりも、どこかからカメラで隠し撮りされているのが怖くなって、マスクの上の部分を目のすぐ下まで上げて、できるだけ顔が隠れるようにした。でも、制服のせいでどこの中学か特定されてしまうかもしれない。どうして制服を着てきたんだろう? 今さらだけど後悔した。
皆の注目を集めながらこちらに近づいてきた白いワゴン車は、わたしたちから五メートルくらい離れた場所に停まった。
「停まりました、ね」短髪のサラリーマンが呟いて、皆の顔を見回す。「あれが死神なのかな?」
誰も返事をせず、ワゴン車のエンジンが切られたことで、辺りは急に静まり返った。駅舎の中の電灯にカナブンがぶつかる音が、変に大きく聞こえてくる。
運転席からニワトリ男? がゆっくり降りて、静かにドアを閉めた。身長は大輔くんと同じくらい。だけど白いツナギ服が、お相撲さんが着られるくらいだぼついたサイズだから、実際の身体つきよりもだいぶ大きく見える。白い手袋をはめて白い靴を履いていて、どの部分の肌も見えない。たぶん男の人だと思うけど、日本人かどうかもわからないから、わたしは怖くなって大輔くんの後ろに隠れた。大きな背中が頼もしい。その陰からそっと前を覗くと、ニワトリ男がゆっくりこっちに歩いてきて、一番前にいる痩せたサラリーマン、電車の中でわたしと同じ車両にいた男の人から二メートルくらい離れた場所で立ち止まった。両手を腿の横に添えて、指をピンと真っ直ぐに伸ばしているから、巨大なニワトリが直立不動しているように見える。
「あんた、誰――」
カラフルな模様の服を着た男の人が口を開いた途端、ニワトリ男が右手を勢いよく上げて遮った。
「皆様、本日は遠い所、お集まり頂き、誠にありがとうございます」
ニワトリのお面から聞こえてくる声は、テレビのインタビューで身元を隠したい人がするみたいに、物凄く低い声に機械で変換されていた。普通の人では出せない、地面から湧き上がってお腹に響くような重低音のせいで、わたしはさらに恐怖心が増した。大輔くんの学ランを掴むと、
「大丈夫だ」大輔くんは前を向いたまま囁いた。「俺が守ってやる」口だけじゃなくて本当に守ってくれる。わたしは胸が温かくなるのを感じた。ニワトリ男に対する恐怖も和らいだ。
「ふざけてんのか、あんた?」カラフルな模様の服を着た男の人が声を出すけど、震えて怯えているみたいに聞こえた。それとは対照的に、
「ふざけてなどいません。わたくしは至って真面目に任務を遂行するため、皆様をお迎えに上がりました」ニワトリ男は男のほうを向いて、落ち着いた様子で答えた。
「あんたが死神なの?」
金髪の女の人は苛立った声で言うと、新しい煙草に火を点けて、大きく吸って吐いた。白い煙が夜空に立ちのぼって消える。
「いいえ」ニワトリ男は金髪の女の人のほうを向いて、頭をゆっくり横に振った。「わたくしは死神の使い。死神に代わって皆様に死をご提供するため、お迎えに上がった次第でございます」
その答えを聞いて、わたしたちはお互いの顔を見合わせた。今ここに見知らぬ誰かが来たら、わたしたちのことをどう思うだろう? もしかしたら警察に通報されるかもしれない。だけど、そんな心配をする必要はなかった。電車は一時間に一本しか到着しなくて、わたしたち以外に誰かが来る気配はまったくない。どうして、死神はこんな何もない場所にわたしたちを呼んだのだろう? 練炭自殺をするなら、別にこんな田舎に来なくてもいいはずなのに。
「さあ、順番にお乗りになってください」
ニワトリ男はマイペースだった。わたしたちが戸惑うのも気づかない様子で、後部座席のドアを開けて手招きする。わたしたちはまた、お互いの顔を見合った。
「どうなさいましたか?」ニワトリ男は手を下ろして、わたしたちを見回す。「死にたいからわざわざここまで来られたんじゃないのですか?」
その通りだし、その決意は変わらない。だけど、こんな奇妙な迎えが来ると想像してなかったから、どうすればいいのかわからなかった。わたしだけじゃない。誰も足を踏み出そうとせず、ニワトリ男を見つめている。
「はあ」ニワトリ男は大袈裟にため息を吐いて肩を落とす。「皆様に関しては、強い死の覚悟があると判断して、お声をかけさせて頂いたのですが。どうやら、こちらに見る目がなかったようですね。気が変わってしまったという方は、どうぞ遠慮なくお帰りになられてください。ただし、わたくしどものことについては絶対に誰にも漏らさぬよう、どうぞよろしくお願い致します」右手を心臓の辺りに添えて、頭を直角に下げる。その丁寧すぎる態度が逆に、わたしたちをバカにしているように感じられた。そのままの姿勢を数秒間保つと、ニワトリ男はゆっくり頭を上げた。
「あ、あの」弱々しい声を出したのは、わたしと同じ車両にいた女の人だった。
「はい、何でしょう?」ニワトリ男は直立して女の人を見る。
「本当ですか?」女の人の声は微かな風にも掻き消されてしまいそうなほど小さい。「本当に楽に死なせてくれるんですか?」
わたしもそれが知りたかった。痛みも苦しみもなく死にたい。今の望みはそれしかなかった。他の皆も同じ気持ちらしく、黙ってニワトリ男の返事を待ってる。
「もちろんです。保証いたします。皆様には一切の苦痛を与えることなく、黄泉の国へとご案内いたします」また右手を胸に添えて頭を直角に下げる。ニワトリ男が真剣なのかふざけてるのか、どっちなのかわからない。
「大輔くん、どうする?」他の人に聞こえないようにわたしは囁いた。「大丈夫だと思う?」
声が小さすぎたせいで聞こえなかったのか、大輔くんの返事はない。もう一度訊こうとしたら、
「俺、乗るよ」大輔くんの背中が一歩分、遠ざかった。「帰りの電車賃ないし、自分の部屋に遺書を置いてきちゃったから。もう引くに引けない。引く気もないし」意思の強い口調。大輔くんもわたしと同じで、片道切符分のお金しか持ってこなかったんだ。急に強い絆で結ばれているような気がしてきた。だから、
「結衣はどうする?」大輔くんが振り返って訊いてくると、わたしはすぐに頷いた。「わたしも乗る」
「では、遠藤様と鈴木様、お乗りになられてください」
ニワトリ男が後部座席を片手で示すと、大輔くんは迷いなく足を踏み出し、わたしもその後に続いた。
「必ずや快適な死をご提供させて頂きます」
近くに寄ると、ニワトリ男はわたしたちにだけ聞こえる声で言った。――必ず、絶対、確実。そうやって強調する言葉を使う人を、わたしは信用できない。そういう言葉を使う人に限って無責任だ。
『絶対にもう浮気はしない』
『明日からお酒をやめて、必ず働く』
『確実に儲かる楽な方法があるんだ』
小学生の時、お父さんがそう言うのをよく耳にした。お母さんはそのすべてを信じて裏切られてボロボロになった。
気づくと、わたしは大輔くんの学ランの背中を引っ張っていた。
「何だ?」ワゴン車の中に入ろうと片足を上げた大輔くんが、怪訝そうな顔をして振り向く。「やめるならいいぞ。俺は一人でも行く」足を地面に下ろして、わたしと向き合った。
「ここまで来て、引き返すのですか?」ニワトリ男が口を挟む。
そうだ、わたしはもう引き返せないんだ。ニワトリ男ではなくて大輔くんを信じよう。わたしは頭を振った。
「一緒に行く」
「うん」本当は不安だったのかもしれない。大輔くんは微笑むと、もう一度片足を上げた。後部座席は三列シートになっていて薄暗い。他に誰の姿もなく、特に変わった様子はなかった。ただ少しだけ、線香のような香りがするような気がした。その匂いを嗅いだことで、これから死ぬんだとわたしは実感した。だけど、もう怖さは感じなかった。あともう少しで楽になれる。苦しまずに済む。それが、今のわたしには何よりも重要なことだった。
大輔くんは一番後ろの四人掛けの座席に座った。わたしはその隣に腰を下ろして、運転席のほうを見た。フロントガラス越しに他の人たちの姿が見える。
「わたしたちだけかな?」一緒に死ぬのはわたしと大輔くんだけ。それだとちょっぴり寂しいと思った。見知らぬ人たちだけど、二人よりも大勢で一緒に死ぬほうが怖くない。一人で死ぬのが怖くないなら、わたしはとっくに自殺してた。あの人たちもわたしと同類だから、『死神』からのメッセージに反応したはず。何人かの人は、わたしたちに異変がないか、心配そうな顔でこっちを見ている。
「さあ、どうだろうな」大輔くんは興味なさそうに首を傾げるけど、他の人たちのほうを見ていた。
「お若い二人が決断なされました。大人の皆様はどうなさいますか?」ニワトリ男が煽るように言う。「時間もないので、そろそろ出発してしまいますが。ちなみに、一度辞退なされた場合、もう二度と同じお誘いは致しませんのであしからず。飛び降り、飛び込み、首吊り。ご自分で選択なさって、自力であの世へ旅立ってくださいませ」
最後は突き放すような言い方だった。それに、失敗したら苦しみや痛みを伴う自殺方法をわざと口にしたようにも思えた。それが効果的だったのかはわからないけど、わたしと同じ電車の車両に座ってた二人が、ほとんど同時にワゴン車に乗ってきて、わたしの隣に座った。二人とも、わたしと目が合うと小さく頭を下げた。わたしも会釈を返しながら、仲間が増えたことをうれしく思った。もう一人じゃない。同じ悩みを抱えて、一緒に死んでくれる人が三人もいる。これまでずっと孤独な日々に耐えてきたことが、報われたような気がした。
「イノウエ様とナカムラ様もご決断なされました」ニワトリ男の声が少し弾んだように思えた。「苦しまずに楽にあの世へ逝けることを保証致しますが、他の方々はどうなさいますか?」
『苦しまずに』というのは、自殺を考える人にとって、一番魅力的な言葉だとわたしは思う。
「おや、オクガワ様」ニワトリ男がわざとらしく驚いた声を上げる。「どうぞそのままお進みくださいませ」
その声に後押しされるように車の中に入ってきたのは、白髪頭のおじいさんだった。「よろしくお願いします」と、わたしたちに丁寧に頭を下げて、わたしたちの前の座席に座る。
「おや、サトウ様もご一緒なさいますか。ありがとうございます」
ニワトリ男の声に続いて姿を見せたのは短髪のサラリーマンで、「どうも」と小さい声で挨拶しながら、オクガワさんの隣の席に座った。残るはカラフルな模様の服を着た男の人と金髪の女の人だけど、わたしの座席からは姿が見えなかった。
「ああいう連中に限って、いざとなると逃げ腰になるんだよな」
大輔くんが呟いた言葉に、わたしは心の中で密かに頷いた。学校で率先してわたしをイジメてくる子たちは、髪の毛を派手に染めて、化粧もバッチリ。制服を着崩して、教師から注意されても関係ないって態度で目立ってる。だけど一度、その中の一人がパパ活をしてるのが発覚して補導された途端、他の子たちは知らん顔で仲間外れにした。自分たちも同じことをしてるのに。その子のことを多分、口封じで脅したんだと思う。何週間かしたらいつの間にか学校からいなくなってた。それなのに、残った子たちは何事もなかったように、今も一緒に遊んでる。
わたしは、自分の部屋の机の上に置いてきた遺書の中に、その子たち全員の名前を書いた。わたしをイジメた、自殺に追いやった犯人だと名指しして。逃げようとしても逃げられないように、証拠も記しておいた。遺書が発見されて、そこに自分たちの名前があることを警察から言われた時、あの子たちはどんな顔をするだろう? きっと泣いて否定すると思う。何かの間違いだって。わたしが嫌がらせをしたんだって主張する子もいると思う。だけど、言い逃れできないとわかったら、今度は罪のなすりつけ合いがきっと始まる。あの子が首謀者で、わたしは命令に従っただけ。逆らうと今度は自分がターゲットにされるのが怖くて仕方なくやった。
考えるだけで腹が立つ。だからわたしは他の手も打った。イジメの実態と彼女たちの名前を事細かに書いたメールを、明日の夕方、テレビ局の報道センターや新聞、雑誌の編集部に一斉に予約送信するようにセットしてきた。たとえ警察が捜査に踏み切らなくても、あの子たちはマスコミに追われて苦しむことになる。わたしが散々、彼女たちから味わわされた以上の精神的なストレスを受けることになる。そうなった時、本当の意味でわたしの復讐が始まる。後悔してももう遅い。全員の顔写真をSNS上に予約投稿する手も打っておいた。自殺した後、ネット上に出回るのがわたしの写真だけだなんてフェアじゃないから。
きっと皆、わたしに同情してくれるはず。勝手に死んでしまうのは心が痛むけど、たった一人の娘を亡くした不幸に、お母さんに対しては労わりの声が集まると思う。もしかしたら、今よりいい仕事を与えてくれる親切な人が現れるかもしれない。そう、わたしが死ぬことで何もかもが良くなる。きっとそうだ。そうに決まってる。
「ハギワラ様とカワサキ様、どうなさいますか?」ニワトリ男が催促する。「もうあまり時間がございません。辞退なされますか?」
残りの二人は乗ってこないと思ったし、そうして欲しかった。あんな陽キャとは一緒に死にたくない。自殺したい理由だって、きっと軽いに決まってる。もう行こう。わたしはニワトリ男を急かしたかった。こんなところを警察にでも見られて疑いをかけられたら、計画が流れてしまうかもしれない。そうなったら最悪だ。わたしは補導されて、自殺しようとしたことがすぐに噂で広まる。同じことを繰り返さないように、学校の先生やお母さんの監視は厳しくなるだろうし、一時的にイジメは中断されても、様子を見て今度は今までよりきつい嫌がらせが始まるかもしれない。もういいから出発しよう。お願い。
「わかったよ」男の人の投げやりな声が聞こえてきた。ニワトリ男に反抗するような口調で、このまま帰るんだとわたしは期待した。だけど、「乗ればいいんだろ、乗れば。その代わり、妙なことはするんじゃねえぞ」予想とは反対に、カラフルな模様の服を着た男の人は、不貞腐れた顔をして、乱暴な足取りで車に乗ってきた。わたしたちと目を合わせないようにして後部座席の一番前のシートに座る。
「ハギワラ様、悪いようには致しません。お約束します」ニワトリ男は男の人を宥めるように言うと、最後の一人、金髪の女の人のほうを振り向いた。「さあ、あとはカワサキ様だけですが、せっかくここまで足を運んだのですから、ご一緒しましょう」まるで遊びにでも誘うような軽い言い方だった。それでも、
「そこまで言うなら」金髪の女の人は、しつこく口説かれたから仕方なく、みたいにため息を吐いて、「わかった、わたしも乗るよ」不機嫌そうな顔をして乗り込んできた。ハギワラの隣に座ると、わたしたちを振り返って、「ホント、辛気くさい」臭い物でも嗅いだように顔を顰める。それに同調して、ハギワラも後ろをちらっと見てから、
「これから死ぬってのに、何でマスクしてんの?」バカにしたように呟いて頭を傾げた。
「それもそうだよね」カワサキが手を叩いて笑いながら、顎に引っ掛けたマスクを取ってポケットの中にしまう。だから、こういう人たちは嫌なんだ、とわたしは暗い気持ちになる。こんな人たちと一緒に死にたくない。もしもあの世があるなら、向こうでも一緒に行動しなきゃいけないかもしれないから。
「では、予定通り、皆様揃っての旅立ちとなりますね。安心しました」ニワトリ男は後部座席のドアを優しく閉めると、車の前を回って運転席に乗り込んだ。すぐにエンジンを掛けるのかと思ったけど、「出発する前に、皆様にお願いがあります」シートベルトも締めずに、こちらを振り向いた。薄暗い中で見ると、ニワトリのお面はさらに不気味に見える。
「お願い?」不満の声を出したのはハギワラだった。「メンドくせえな」と舌打ちする。
「申し訳ありません」申し訳なさそうに言いながら、ニワトリ男は頭を下げてすぐに戻した。「まずはシートベルトの着用を」
全員が言われた通りにすると、
「これから皆様をお連れする場所については、死神から絶対秘密にするよう言われてまして。ご負担をお掛けしてしまいますが、これを被って頂けないでしょうか」助手席に手を伸ばして取り上げたのは、自分が被っているのと同じニワトリのお面だった。
「冗談でしょ」カワサキの乾いた笑い声が車内に響く。「どうせこれから死ぬんだから、秘密もクソもないだろ」
それは、わたしも同じ意見だった。死人に口なし。どんな秘密を知ったとしても、わたしたちにはもう関係ないし、他の人に漏れる心配もない、はず。
「死神は心配性でして。万が一のことを考えてのことです。どうかご容赦ください」ニワトリ男は丁重に頼みながらも、一歩も引く気はないみたいだった。「被って頂けないなら、ここで降りて頂くことになります」
「それはちょっとズルくないかな」短髪のサラリーマンのサトウさんが、笑い声を出しながら口を挟んだ。「そういう条件があるなら、車に乗る前に言うべきだと僕は思うけど」
車内に同調するざわめきが広がった。だけど、ニワトリ男はちっとも動揺する様子を見せない。
「俺は被りますよ」大輔くんの一言で車内が静まり返った。「被ればいいんですよね? 他に何をすればいいんです?」投げやりではなく、はっきりした口調から、自殺への覚悟が固まっているのがわかった。
「言いなりかよ」ハギワラが舌打ちしながら振り返る。
「文句ありますか?」大輔くんが鋭く睨みつけると、ハギワラは怯えた顔をして視線を逸らした。
「では、遠藤様にこれを回してください」ニワトリ男はお面をカワサキに渡すと、「どうしてもこれを被りたくない方、挙手をお願い致します。言うまでもなく、その方はここで降りて頂くことになりますが」皆を見回した。
ニワトリのお面がカワサキからサトウさん、大輔くんの手に渡った。柔らかいゴム製のお面で、少しゴムの臭いがする。大輔くんが躊躇わずにそれを被ると、それを見ていたオクガワさんが「わたしも頂戴できますか」と、ニワトリ男に手を挙げた。わたしもそれに続いて挙手をすると、他の皆も黙って手を挙げた。
「皆様、ご協力頂きありがとうございます」ちっとも有難くなさそうに言うと、ニワトリ男は皆の分のお面を配り始めた。全員に行き渡ると、「では皆様、それを被ったら、わたくしが許可を出すまで、絶対に外さないでください」そう言ってから前を向き、エンジンを掛けた。車がブルブルと震え始めて、いよいよ死ぬ時が近づいてきたことを実感したわたしは、緊張しながらお面を被った。どこにも穴はなくて、目の前が真っ暗になる。ゴム臭さに少し吐き気がした。
「全員、お被りになられましたね。では出発致します」
ニワトリ男の合図と同時に車がゆっくり動き出す。ゴムが厚いせいで、周りの音もよく聞こえない。あと少しの我慢と自分を勇気づけたけど、実際にはどれくらい移動するのかわからない。どうして死神が、今から目指す場所を秘密にするのかもわからない。
わたしたちの方向感覚を無くすためか、車はしばらくグルグルと円を描くように走っているような気がした。ロータリーの中を何周もしたのかもしれない。それから直線で走って左に曲がってからは、なだらかな斜面を上がって行った。背中がシートに押しつけられる。誰も声を出さない。ほとんど静寂に近くて、それが不安を掻き立てる。何か音が欲しい。少しでもリラックスできるような音楽を流して欲しい。
わたしの心の声が届いたわけではないと思うけど、急に車内にクラシック音楽が流れ始めた。これなら知ってる。確か、『美しき青きドナウ』って曲。小学校の給食の時間に校内放送で流れてた。ゆったりした曲調で少しだけ緊張が解ける。曲が終わって次は何が流れるのかと思ったら、また同じ曲だった。その次も、その次も。他に何もやることがなくて、視界が真っ暗闇の中、のんびりした曲が何回も繰り返されると、脳が麻痺して警戒心がなくなり眠くなってくる。ウトウトしかけながら、寝るな寝ちゃダメだと自分に言い聞かせた。そうしながら、曲が何回続くか数えておけば、一回の演奏時間と掛け算で駅からの移動距離がわかったかもしれないのに、と後悔した。
でも、そんなことわかっても意味がないことをすぐに思い出す。これから死ぬんだから、場所がどこであろうとわたしには関係ない。関係があるとしたら、これから何か犯罪に巻き込まれて生き延びた場合だ。警察に訊かれて、駅からの移動距離がわかれば捜査が進むかもしれないけど、そんなことは考えたくない。騙されて死ねずに生き続けるなんて地獄でしかない。
不安を感じたことで少し目が覚めてきた。人は死ぬ前に人生が走馬灯のように蘇るっていうけど、練炭自殺の場合はそんな時間もない。今が人生を振り返る最後のチャンスなのかもしれない。わたしは『美しき青きドナウ』を聞きながら、物心がついたのはいつだったかと考える。それがこの世で最初の記憶かどうかはわからないけど、真っ先に思い浮かんだのは、今よりも少しだけマシな造りのアパートに住んでた時の思い出。お母さんとお父さんに挟まれてわたしは寝ている。目が覚めると、枕元にラッピングされた箱が置いてあった。サンタクロースからのプレゼントだ。寝ぼけ眼をこすりながら、わたしはお母さんと一緒にそれを隣の部屋へ持って行って、ヒーターの前で包装紙を剥がす。中から着せ替え人形が入った箱が出てきた。ずっと欲しい欲しいとねだっていた、金髪で青い目をした外国の女の子の人形。うれしくて仕方なかった。どこへ行くにも持ち歩いて大切にしていた。でも今、あの人形は家にない。いつの間にか無くなってしまった。きっと、お母さんとお父さんが離婚して、今のアパートに引っ越す時にゴミと一緒に捨ててしまったんだ。今さらになって後悔した。あの人形には、幸せだった頃の思い出が詰まっていたのに。あるいは、それが辛いからわたしは意図的に捨てたのかもしれない。どっちだろう?
そんなことを考えていると、『美しき青きドナウ』と混ざって、啜り泣きの声が聞こえてくるようになった。わたしと同じように感傷的な気分に浸ってる人がいるんだ。その泣き声を聞いているうちに、わたしも泣きたくなってきた。目に涙がじんわりと溜まる。
「皆様、お待たせしました」突然、『美しき青きドナウ』が聞こえなくなったかと思うと、ニワトリ男の声が響いた。「もう間もなく、到着いたします」
車が左折すると、斜面を走る感覚がなくなった。その代わりに、砂利道を走る振動が伝わってきた。どこか横道に入ったみたい。どこに連れて来られたんだろう? また緊張感が戻ってきた。皆も不安なのか、マスク越しにざわざわとした声が聞こえてくる。思い切って大輔くんの手を握ると、力強く握り返してくれたから安心した。大輔くんがいてくれてよかったと、心の底から思った。
「はい、到着致しました」ニワトリ男は車を停めて、エンジンを切った。振動と走行音が無くなった代わりに、車の外から鳥や虫が鳴く声が聞こえてきた。かなり山奥に連れてこられたのかもしれない。
「もうマスクを取っていいのか?」声がくぐもっているから確かではないけど、訊いたのは多分、ハギワラだ。強がってるけど、誰よりも不安だから一番に声を出したんだと思う。
「どうぞ、マスクをお取りになって頂いても結構でございます。ご協力、感謝致します」
ニワトリ男の許可が出ると、皆一斉にマスクを取った。暗闇と息苦しさからの解放。車の中は室内灯が点けられていて白く照らされている。そのせいで、外の暗闇が余計に深く感じられた。大輔くん越しに右側の窓の外を見ても、たくさんの木に囲まれているのはシルエットでわかるけど、どういう場所なのかまったく手掛かりが掴めない。
「大丈夫か?」大輔くんに訊かれて、手を握っていることを思い出したわたしは、急に恥ずかしくなった。
「あ、うん、大丈夫」俯いて答えながら手を離す。
「俺たちの他にも、自殺志願者がいるのかな?」
大輔くんは、左側の窓のほうへ顎をしゃくりながら、怪訝そうな顔をした。他の人もそっちを見ている。わたしも倣うと、すぐ隣に同じタイプの白いワゴン車が停まってることに気づいた。
「皆様にお願いがあります」車内のざわめきを、ニワトリ男の声が掻き消した。「今から隣の車両に移って頂きます」
「どうして?」と真っ先に不満の声を漏らしたのはハギワラだった。「移動する理由は? 他にも仲間がいるのかよ」強がってる口調が不安の裏返しだとわかる。だけど、ハギワラだけじゃなくて皆、これから何が起こるのか予想ができなくて、ニワトリ男に視線を向けた。
「練炭自殺をするには色々と準備がいるのです」
「目張りとか?」すかさずサトウさんが反応して、ニワトリ男は頷いた。
「そうです。煙が外に流れ出ないように、すべての窓枠にテープを張って、隙間を埋める必要があります」
「その準備が、隣の車は整ってるってことですね」大輔くんが落ち着き払った声で言う。「その通りでございます」聞き分けのいい子どもを褒めるように返事をすると、ニワトリ男は車の外に降りた。
どうする? とお互いを窺うように皆が見つめ合う中、
「行こう」大輔くんは中腰になって、わたしの肩を優しく叩いた。
「うん」大輔くんと一緒なら怖くない。わたしは素直に頷いて腰を上げた。その様子を振り返って見ていたハギワラが、
「ガキはこれだからな」と苦笑いを浮かべて肩を竦める。「疑うってことを知らない。バカ正直に従うだけの脳みそしかねえ」同意を求められて顔を向けられたカワサキが、わたしを睨みながら頷いた。その鋭い目つきが怖くてわたしが怯むと、
「気にするな。行こう」大輔くんが背中に手を添えて励ましてくれた。大きくて分厚い手の感触に勇気づけられて、わたしはカワサキの視線なんて気にせずに横を通り過ぎて外に出た。すぐ手が届く距離にもう一台のワゴン車が停まってる。わたしたちが乗ってきた車と同じように、後部座席側の窓は全部真っ黒で中が見えないようになっている。
周りを見回しても外灯の光は何もない。わたしたちが乗ってきた車の室内灯の光だけが、寂しく周囲を照らしてる。足元もはっきりしない暗さに怖くなって、大輔くんの手に手を触れると、すぐに握り返してくれた。
「今回も鈴木様と遠藤様がトップバッターですか。お二人の決断力と勇気は素晴らしい」先に降りていたニワトリ男が、二台目の車の前に立って軽く拍手した。「さあ、どうぞそのまま恐れることなく、向こうへ回って車の中に乗り込んでください」と指差しながら自分もそちらへ移動する。
大輔くんが手を繋いだまま先に立って車の後ろをグルッと回る。左側にある後部座席のドアのほうへ行くと、ニワトリ男はドアを開けて待ってた。
「どうぞ、お入りください」高級ホテルのスタッフみたいに、丁寧な仕草で右手を車のほうへ向けて誘導する。
車の中には誰もいなかった。すべての窓とドアの隙間にガムテープがびっしり貼られてる。これだけ丁寧に貼る必要があるなら、ニワトリ男の言った通り、準備にはかなり時間がかかると思う。手際がいいな、とわたしは思った。もしかしたら、もう何回も自殺志願者に救いの手を差し伸べているのかもしれない。だけど、どうしてだろう? 今更だけど疑問に思う。同じ車を二台用意して、これだけの人数の人と連絡を取って、練炭自殺する準備も事前にしっかり整えてある。お金と時間がかかってるはずなのに、わたしは何も見返りを求められてない。タダより高い物はない。何か絶対に裏があるに違いない。
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
大輔くんも同じことを考えていたのか、車の中に乗り込まずにニワトリ男の答えを待った。他の人たちもぞろぞろやって来て、ナカムラさんとイノウエさんがわたしの後ろで立ち止まった。
「死神の完全な趣味でございます」ニワトリ男はそう言うと、車の中に乗り込んで運転席側に身を乗り出して、「よっこらせ」と何かを手にしてまた外に戻ってきた。両手に真っ黒な円筒の物を持っている。練炭だ。ネットで検索して調べた。けど、実物を見るのは初めてだった。これがわたしたちをあの世へ連れて行ってくれる。楽に死なせてくれると思うと、とても有難いものに思えた。
「趣味って?」口を開いたのは大輔くんだった。「僕らみたいな自殺志願者を集めて手を貸すことを、楽しんでやってるってことですか? その死神って人は」今まではニワトリ男の言うことを一番素直に聞いていたけど、少し怒ったような声になった。
「いえいえ、楽しむだなんて語弊があります」ニワトリ男は練炭を地面に置くと、慌てて両手を振る。「あまり込み入った話をするわけにはいかないのですが、死神は安楽死を推進する考えを持ってまして。ご存じの通り、我が国の法律では積極的な安楽死は認められておりません。しかし、精神的あるいは肉体的に多大なる苦痛を我慢して生存し続けることほど惨酷なことはないのではないでしょうか。まさに生き地獄。死神は、苦難に満ちたこの世から皆様を救い出したいがために、この活動を行っているのです」
「素性はわからないですけど」サトウさんが口を挟む。「経済的に余裕のある方の高尚なボランティアといったところですかね」
「まあ、そういったところですね」ニワトリ男が頷くと、
「金持ちの道楽か」揶揄するようにハギワラが言った。ニワトリ男は聞こえなかったのか、わざと無視したのかわからないけど、「よっこらせ」と練炭コンロを抱えて、「さあ、もたもたしてる暇はありません。順番にお入りになられてください」と、目の前の大輔くんを促した。
「あの、一つだけお願いがあります」大輔くんは奥歯をぎゅっと噛みしめて、ニワトリ男を見つめる。
「何でしょう?」
「野球部の連中に伝えておいてくれないですか。今までありがとう、ごめんなって。無事に死ねたらお願いします」
「それは、お引き受けできません」大輔くんが涙声で頼んだのに、ニワトリ男は即答で断った。「メールでお伝えしたはずです。家族、友人への別れの挨拶は各自で行って頂くようにと。我々ができるのは、皆様をあの世へ安らかに導くことだけでございますから」
確かにメールにはそう書いてあった。だからって、これから死ぬだなんて誰かに言えるわけがない。わたしにはそもそも、そんなことを告げる人がいないし、そういう存在がいたとしても死ぬことを打ち明けたら、絶対に止められるに決まってる。
「そうでしたね、すみません」大輔くんは軽く頭を下げて、「行こう」とわたしに言ってから先に車の中に入った。わたしもその後に続くと、他の人たちも入ってきて、ここへ来た時の車とまったく同じ席順で座った。
「皆様、着席なされましたね。ああ、シートベルトの着用は結構でございますからね」何が面白いのか、ニワトリ男は自分で言ったことに笑いながら、練炭コンロを後部座席の真ん中、サトウさんの足元近くに置いた。
「チッ、何が面白いんだよ」舌打ちして小さい声で毒づくハギワラに、「マジ、バカにしてない?」カワサキが同調する。やっぱり、この二人と一緒に死ぬのは嫌だ。でも、ここまできたらもう文句は言えない。
「さて皆様、いよいよ、この世とおさらばする時が近づいてきましたよ」ニワトリ男は、妙に芝居がかった口調になってきた。まるで、わたしたちが死ぬのを楽しむようで、さすがにわたしも不快になった。
「ちょっと待て」ハギワラがまた話の腰を折る。「なあ、やっぱホントは、あんたが死神なんだろ? 白状しろよ」
「いえいえ、それは誤解でございます。先程もお伝えした通り、わたくしは死神の使いでしかありませんので、あしからず」ニワトリ男はあっさり受け流すように言うと、ポケットから何かを取り出した。「今から睡眠薬をお配り致します。個人差がありますが、大体服用後から十五分程で深い眠りに就くことができます。つまり、この薬を飲んでから眠るまでが、この世での最後の時間となりますね。では、どうぞ。カプセルを噛んでからグッと一息に飲み干してくださいませ」
小さな透明な袋に一錠ずつ小分けされた青い色のカプセル。ニワトリ男は、それを全員に配った。
「さあ、一息に飲み干してください。練炭の煙を吸って苦しまないためにも、これは必ず飲むこと。失礼ですが、口の中をチェックさせて頂きますよ。カワサキ様、口を開けてもらえますか? そうです、あーんと大きく開けてください」
小さな子どもに向かって言うような口調に、カワサキは顔を顰めたけど、言われた通りに口を開けてニワトリ男に見せた。口の中が青く染まってる。ちゃんと飲んだか確認するため、カプセルには着色料が入ってるらしい。先にカプセルを飲んだ大輔くんを見ると、唇まで青く染まってた。
「飲まないのか」大輔くんに催促されて、わたしもカプセルを口の中に入れて奥歯で噛んだ。プチッという感触と一緒に、甘い液体がドロリと出てくる。それを飲み込むとちょうど、ニワトリ男にチェックされる番が回ってきた。
「はい、ちゃんと飲み干して頂けましたね。ご協力ありがとうございます」全員の口の中を確認し終えたニワトリ男は、また運転席のほうへ身を乗り出して、何かを手にして戻った。「では、お手数ですがカワサキ様、わたくしが外に出てドアを閉めましたら、これを貼って隙間を塞いで頂けますか」差し出したのはガムテープだった。
「何でわたしが? ダルい」カワサキは顔を歪めて舌打ち。ガムテープを受け取ろうとしない。
「じゃあ、僕がやりますよ」カワサキの後ろに座るサトウさんが苦笑いしながらガムテープを受け取った。
「これはこれは。どうもありがとうございます。助かります」ニワトリ男は大袈裟に頭を下げると、ポケットからマッチ箱を取り出して、「では、サトウ様が眠りに就く前に、さっさと点火してしまいましょう」マッチの火を素早く点けて、それを練炭コンロの中に入れた。火はコンロの中ですぐに燃え上がって、コンロの上の部分から炎がちらちらと姿を見せた。
「これで準備は万端に整いました」ニワトリ男は満足そうに言うと、「では、わたくしは皆様があの世へ旅立つ様子を、車の外から拝見させて頂きたいと思います」車の外に出た。そのままドアを閉めるのかと見ていると、「あ、それと一つ、大事なことを言い忘れていました」皆のほうを振り返りながら、ポケットの中に手を突っ込む。
「チッ」ハギワラが露骨に大きな舌打ちをする。「まだ何かあんのかよ。グダグダとうるせーな」
「これで最後ですから我慢してください」ニワトリ男は微かに笑い声を混ぜてハギワラを宥める。ポケットから出した手に握りしめられた物を見て、皆の呼吸が一瞬、止まったように静かになった。耳に聞こえるのは練炭コンロの中の火が燃える音だけ。
ニワトリ男が手に持っているのは拳銃だった。黒い銃身が炎を反射して赤く染まっているように見える。
「ハッハハ」ハギワラが無理に笑い声を出したけど、恐怖で震えていた。「冗談だろ。まさか本物じゃないよな?」
「いえ、もちろん本物でございますよ。試し撃ちしてみせましょうか?」ニワトリ男が銃口を車内に向けると、皆が一斉に悲鳴を上げて頭を下げた。わたしも咄嗟に大輔くんの胸に抱きつく。
「大丈夫だ」と、大輔くんはわたしの背中を優しく撫でてくれた。その大きな手に安心して顔を上げると、
「ご無礼をお許しください」ニワトリ男は、わたしたちをバカにしたように、わざと深く頭を下げて、ゆっくり顔を上げた。「途中で恐ろしくなって車を降りる人がいないとは限りません。そうなれば、他の皆様も死にそびれてしまうことになるのです。裏切り者が出ないよう、わたくしがここできっちり見守らせて頂きます」
「へっ、俺はそんなチキンじゃねえよ。ここでおとなしく死んでやる」ハギワラが震える声で精一杯強がると、「そうそう。うちらは死にたくてここに来てるんだからさ、余計なお世話」カワサキが加勢した。
「わたくしもそう思います。ハギワラ様とカワサキ様は途中で逃げ出すような臆病で卑怯で無責任な人間ではない」ニワトリ男のオーバーな言い方に二人は苦い物でも食べたみたいな顔をするだけで何も言い返さない。「他の皆様のことも、素晴らしい人格者だと思っております。わたくしがここで見守らせて頂くのは、ただの保険でございますから、お気を悪くさせてしまったなら謝ります。申し訳ありません」
もう一度、深く頭を下げたニワトリ男の輪郭がぼやけて見えた。「あれ?」と瞼をこすると、「睡眠薬が効き始めた。俺もだ」大輔くんは口をもごもごさせて言った。隣を見ると、大輔くんは今にも瞼を閉じそうになってる。前にいるオクガワさんはもう寝てた。
「あっと、危ない」顔を上げたニワトリ男は、慌ててドアの取っ手に手をかけた。「サトウ様が寝てしまわないうちに閉めてしまいますね。では、よい旅を。皆様、今世ではお疲れ様でした」ドアを勢いよく閉めたけど、もう誰も驚かなかった。身体からどんどん力が奪われていくのを感じる。わたしは大輔くんから離れて背もたれに背中を預けた。瞼が重たい。目を閉じる間際、サトウさんが身体をふらつかせながら、ドアの隙間にガムテープを貼る姿と、ニワトリ男が車から一歩離れて、右手で拳銃を持ったまま直立する姿が見えた。それから、練炭コンロの火が燃え上がって、あちこちに火の粉が飛び散るのが目に眩しく映った。オレンジ色が閉じた瞼の裏にも透けて見える。火がどこかに燃え移って、練炭の煙で死ぬ前に焼け死んでしまうんじゃないかと不安になった。だけど、それならそれで構わないとすぐに考え直した。わたしには、きれいな身体で死にたいだなんて願望はない。ただ、苦しまずに死ねればいいだけ。それに、このまま焼け死ねば、火葬の手間だって省ける。
お母さんの姿が瞼の裏に浮かんだ。今日、学校へ行く前、珍しく起き出して、「行ってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれた時の。何で今日に限って見送ってくれたんだろう? いつもは夜の仕事で疲れ切って、起きてくることなんて滅多にないのに。……まあいいや、そんなこと。
「さようなら」わたしは呟いた。「お母さん、今までありがとう」