五 赤い目の少年
いつものサンドウィッチ屋さんというのは、ランツォーネに来た翌日に手伝った縁で懇意にしている店である。大通りから一つ外れた、小さい通り。最近賑わい出したというその商店街は活気があり、これからもっと栄えていくだろうことを予感させた。その真ん中ほどにあるその店は具沢山なのにお安いと評判で、今こそ穴場だがそのうち人気店になることは間違いなかった。
「やあ、お二人さんこんばんは。今日も仕事帰りかい?」
辿り着いた店の主人である男がひょい、と顔を出す。
「はい。今日は農園の見回りに、子どもたちのお守り、猫探しにその他諸々。大忙しでした」
「もうくたくただぞ。おっさん、おいしいやつ作ってくれよな」
店に着くまでの間にある程度復活したモモが若干生意気に口を開く。それに気を悪くすることもなく、男は軽く少女の頭を小突いて陽気に笑った。
「ははは、でもお前、全部ヒイロに任せてふわふわ飛んでいただけなんじゃないか? そんなヤツには俺のサンドウィッチはやれないなあ?」
「おれだって仕事したぞ! 猫を見つけたのも、子どもに追い回されたのもおれだ!」
大袈裟に両手を広げた店主に、モモが勢いよく反論する。はいはい、わかったわかったと再び笑ってモモの頭をひと撫でした彼は「それで今日は何にするんだ?」と話題転換した。モモは勝ったと言わんばかりに満足げだ。この勝負、おじさんの勝ちだな、とヒイロは密かに思った。
チキンサンドとたまごサンド、それに具沢山のトマトスープにフルーツサンド。いつもより少し豪華な夕食を注文する。ちょっと待ってろ、出来立てを作ってやるから。そう言って奥へと下がった店主を見送り、店頭で看板を眺めながらのんびりと待つ。すると、斜め前にある屋台からガシャンという大きな音と、次いで怒鳴り声が聞こえた。
「お前、そんな態度取ってんじゃねえよ! 人間じゃねえくせに、人間様に舐めた口聞きやがって!」
思わず声のする方向を振り向く。ドカ、とまた大きな音がして、屋台から小柄な人影が飛び出して地面に落ちた。あっと思う間もなく、その少年を蹴り飛ばしたらしき大柄な男が大股で追うように店から出てくる。
「ここにはお前ら闘人族に出す食い物はねえんだよ。さっさと失せやがれ!」
そのまま右手を大きく振りかぶって少年の頭を殴る。一度起き上がりかけていたその子どもは、男の太い腕の勢いそのままにぺしゃりと地に伏した。満足したらしい男は、チッと大きく舌打ちをして店の中に姿を消した。
ヒイロとモモの間にほんの少し沈黙が落ちた。周囲も時が止まったように静寂に包まれていたが、すぐに何事もなかったかのように先の喧騒を取り戻す。一拍遅れて弾かれたように互いの顔を見合わせた二人は、そのまま倒れ込んでいる少年に駆け寄った。
「なあ、おまえ、だいじょうぶか? いったいどうしたんだよ?」
ヒイロは顔を伏せていた男の子のそばに跪いて、彼が起き上がるのを手伝った。モモは心配そうに二人の上をぐるぐると旋回している。
「あ、ああ……うぅ」
苦しそうな声。少年の身体をよく見ると、壁に打ちつけたらしき背中と殴られた顔が特に痛むようだった。
「……傷むのか?」
モモが再び尋ねる。少年は何も答えずに呻き声を漏らすだけだった。その様子を見ていたヒイロは胸元に下げていたレムを取り出す。
「なあ、魔術で治してやることはできないのか?」
「そうか! 治癒魔術だな! まかせろ、ナビしてやる!」
ぴゃっと飛びついてきたモモに「ああ、頼む」と頷いて石を握り込んだ。
「いいか、レムに魔力を集中させて、そして、怪我している部分に流し込むんだ」
「わかった、やってみる」
レムを握った拳ごと、少年に近づける。力を込める。手が熱を持つ。
「いい感じだ。そのまま、その熱を怪我してるところに流すんだ」
頷く。怪我が治りますように。痛みが彼の元からなくなりますように。彼の苦しみが一つ残らず取り除かれますように。些細ではあるけれど、祈りとともに魔力を少年に流していく。
握りしめた手の隙間から淡い光がこぼれ始める。それと同じ薄い光が子供の背中と頬を包んだ。しばらくして光が収まると、頬の腫れが少しばかり引いているのがわかった。少しだけ安心する。
「大丈夫か? 少しよくなっていたらいいんだけど」
瞼をゆっくりと上げた少年はあたりを見回した。血のように赤い瞳がヒイロとモモを顔を数秒ずつ映し出す。彼はヒイロの問いにこくりと頷き「ありがとう」と小さく礼を言った。そしてふらふらと立ち上がる。色の褪せた薄いシャツに鮮烈な黒のワッペンが張り付いているのが、いやに印象に残った。
「あ、ちょっと待て」
「おい、だいじょうぶか、まだじっとしてたほうがいいんじゃないか?」
慌てた声で引き止めるヒイロたちをよそに、少年は軽く一礼をして走り去ろうとする。あ、と手を伸ばそうとした時、後方から聞き慣れた声が聞こえた。
「おーい、二人とも。サンドウィッチできたぞ、取りに来い!」
注文していた品ができたようだった。突然かけられた声に思わず振り向き、またすぐに思い出して少年の方を見たけれど、すでに彼はどこかへ逃げたあとだった。二人は顔を見合わせる。店のおじさんが悪いわけではないけれど、タイミングが悪すぎた。どちらからともなく、はあとため息をついて店主のもとへ戻る。
「二人とも、店先で待っているんだと思ったら、向こうにいたのか。そういえば少し騒がしかったか。何かあったのか?」
いつもと変わらない明るい顔で出迎えた男は、商品を手渡しながら尋ねた。
「ああ、はい。ちょっと騒ぎがあって」
「向こうの食堂のおっさんが闘人族の男の子を追い出していたんだ」
ヒイロの言葉にモモが付け加える。
「ああ、闘人の子なあ……」
髭を蓄えた顎をポリポリと掻きながら、店主は意味ありげにつぶやいた。ヒイロはそれを聞いて首を傾げる。闘人族と先の男もモモも言っていたが、ヒイロはその言葉をあまり聞いたことがなかった。
「あの、闘人族って一体何なんですか? 見た感じ人間のようでしたけど」
目の前の男は珍しいものを見たとでもいうように目を瞬かせた。次いで少し考えたあと、何かに納得したように何度か頷く。大柄な彼は腰を屈めると声を潜めた。
「闘人族はな、ここから南にあるアルンツィネ地方に多く住んでる、人間じゃない種族のことだ。姿形は人間によく似ているけど、中身は全く違う。あいつらは凶暴な本性を持っていて、俺たち人間を襲うんだ。あの真っ赤な瞳を見たか? 凶暴化するとあの赤い目がこれまた赤い涙を流すんだ。恐ろしいだろう」
お前さんたちは結構な田舎から出てきたって前に言ってたもんな、知らないのも無理はないよ。男は笑って言った。
「……もし凶暴化してしまったら、元に戻れるんですか?」
「さあな。聞いたことはないな。暴走しちまったやつは大体騎士に連れて行かれて殺処分だ。凶暴な獣と一緒だよ」
店主はさも当然というように言った。まるで、子どもに明日の天気を答えるかのように、表情を変えることなく。
「だからあまり近づかない方がいいぜ。黒いワッペンがあいつらのマークだ。最近奴隷としていくらかこの街にもやってきたが、みんな快く思っていないんだ」
「……でも、殴られてました」
視線を落としたまま、ぼそりと呟く。
「何があったのかはわからないけど。でもあんなに小さい子を大の大人が、殴って、蹴って――」
「お前さんは優しいんだな。それに、あいつらのこともよく知らないから、きっとそう思うんだろう」
男は、聞き分けの悪い我が子を宥めるように、ヒイロの頭に手を乗せた。
「でも、闘人は本当に恐ろしいんだ。あいつらが住んでるアルンツィネでは多くの人たちが闘人に殺されてるって聞いてる。実際この街でもそういう事件が増えてきてるしな。あいつらは俺たちを襲う、悪い奴なんだよ。小さい子どもでもな」
先ほどの少年を思い出す。薄い身体に細い手足の子ども。たった十歳ほどの。
「かわいそうって心優しいお前さんは、はじめのうち思うかもしれないが、でも、ここは人間の国なんだ。よその、人間ですらない奴らに荒らされちゃたまらん。あんな恐ろしい見目の、おぞましい奴らに」
「……」
あくまで軽い店主の口調に、ヒイロは閉口した。少年のあの赤い瞳を見て自分はきれいだと思ったのだが、ほかの人が彼を見て抱く感情はそうではないらしかった。ふと、ルヴェールを出る時の村長の言葉を思い出す。外には美しいものがたくさんあると、彼は言っていた。けれど、先ほど見た少年と店主のやりとりと周りの人々の反応を、ヒイロは美しいとはあまり思えなかった。
「……なあ、せっかくおっさんが出来たてを作ってくれたんだし、早く食べに帰ろうぜ!」
うつむいて黙りこくってしまったヒイロを見かねてか、モモが明るく声を張り上げる。
「おれ、楽しみだな! おっさんのところのフルーツサンドは初めてだろ? いつもはヒイロがケチって買わないもんな」
「なんだと」
思わず反論の声を上げる。モモの小さい頭を小突きながら、内心助かったと思った。店主の男にはこの一週間とても良くしてもらっているし感謝しているけれど、あの少年を恐ろしいという言葉にはどうしても賛同することができなかった。
「はは、お前は食いしん坊だもんなあ。ヒイロが財布の紐閉めてないと、どれくらいお金がかかるのかわかったもんじゃないだろう」
男が快活に笑う。ヒイロが黙り込んだことには特に気を悪くしていないようだった。
「そうなんですよ、こいつ際限なく食べるから。いっつもカツカツですよ」
「おまえらぁ、おれをからかって楽しいのかよぅ!」
ぷりぷりと怒り始めたモモの頭をひと撫でして、ヒイロは店主から手渡された紙袋をよいしょと抱えた。
「出来たてだからな、早く食べろよ!」
こいつはオマケだと空いた手に握らされたのは、きれいな橙色をしたオレンジだった。途端にモモの目がキラキラ輝く。
「ありがとう、おじさん」
「おっさん、ありがとな!」
二人揃ってお礼を言えば、店主は「おう」と明るく笑って手を上げた。それに手を振り返しながら、ヒイロたちは自分たちの家へと夕暮れの街を歩き始めた。