三 外れの森
次の日の朝、ヒイロとモモはランツォーネ城の北側にある森へ来ていた。壁外にあるその森はかなりこじんまりとしていて、十五分もあれば横断できてしまいそうだ。街から三十分ほどの少し離れたところにある森は、しかしヒイロたちの他に人影もなく、しんと静まり返っていた。
「昔は、もうちょっと人がいたんだけどなあ」
以前は手が入っていたのだろう小さな森は、わずかに荒れていた。地面に倒れていた看板の上、積もった枯葉を払いながらモモが言った。
「そうなのか、でも何をしに?」
「大体がお参り、巡礼だな」
モモはヒイロを見上げた。
「ランツォーネのコアは、この森の奥にあったんだ。いろんな人間が巡礼にやってきてたし、国も大切に保護していたぞ。ここに限らず、コアは昔から星の写身として奉られていた。いわば聖地みたいなものなんだ」
「へえ」と相槌を打って、ヒイロはモモが綺麗にした看板を近くの木に立てかける。ところどころ朽ちかけているが、矢印と地名が書いてある。その一つをヒイロは読み上げた。
「夜岩の巨木……」
ヒイロの呟きに、モモが頷く。
「ああ。この森で一番大きな木、その幹に取り込まれるようにして存在するのがランツォーネのコアだ。いや、正しく言えば、元からあったコアに、木が絡みつくようにしたの方が正しいかな。独特な雰囲気も相まって、観光地としても人気だったみたいだぞ」
こっちだったと思うぞ、とモモのいう先導に従い進んでいく。ずいぶん放置されているようで、道とそうでない場所の区別もしにくくなっている。モモの話を聞くに、これまではちゃんと手入れされていたのだろうに、一体何があったのだろう。
「ここが、その木の場所なんだ、けど……」
先を進んでいたモモの言葉が途切れる。注意深く地面を見ながら歩いていたヒイロは顔を上げた。
確かに、木があった。他と比べてずっと大きな、それこそ巨木という名に相応しい木が。しかし、コアがない。根っこの部分にヒイロ一人が入っても余りある大きな穴がぽっかりと空いている。そして何より、枯れているのだ。
「……ない。コアが、ないぞ……」
モモが呟く。
「昔は、この穴の部分にコアがあったんだ。だけど無くなっている。……たぶん、誰かが取り出したんだ」
「木が枯れてるのは前からか?」
「いや、前の時はちゃんと木も生きていたぞ。どうして、こんな……」
ヒイロは木に近付いて、幹に手を当てた。ぼろりと表面が剥がれ落ちる。腐っているようだった。
隣で同じように木に手をやったモモが唸る。
「たぶん、コアがなくなってから数十年は経ってるみたいだ。枯れたのはその後だと思う。守る代わりにコアのエネルギーを得ているようなやつだったから、持たなかったんだろう」
まだ倒れていないのが奇跡だぞ。そう言ってモモは幹を撫でた。
「お疲れ様。コアを守ってくれてありがとうな」
「……でも、きっとランツォーネにとって大切な木だったんだよな。どうしてこんな枯れるような真似したんだ?」
「それは……」
その時だった。がさり、と背後で音がする。二人はバッと振り向いた。
「う、あぁ……」
そこにいたのは、黒い影だった。形は人に似ている。鮮烈な黒色の輪郭が、ジジジと歪んでは直ってを繰り返した。
「人、じゃない……?」
小さく呟いて、ヒイロは腰から下げた剣に手をかけた。影が一歩こちらへ歩み寄る。顔であろう部分がこちらを見た。目が合った。それが目なのかはわからなかったが、確実に何かが合った。
「ああああああああ!!!」
「ひゃあああ!?」
影の絶叫。追ってモモが悲鳴を上げる。しがみついてくるモモを抱きかかえながら、ヒイロは襲いかかってくる影に向かって剣を振るう。しかし、肉を斬ろうとした瞬間、影はジ、とまた摩擦音を上げてその姿を揺らがせた。振り下ろされた刃が予想に反して何の抵抗もなくすり抜ける。
「え!?」
二人同時に驚愕する。ヒイロは即座に飛び退いた。距離を取る。
「今、斬ったよな!?」
「そ、そのはずだぞ!? どうなってんだ!?」
混乱するヒイロたちをよそに、影は再びこちらに飛びかかった。
「どうしよう、逃げるしかないのか!?」
「斬れないんだったらそうなるだろ!」
叫ぶように言葉を交わしながら、森を走り抜ける。ヒイロの肩越しに後ろを確認するモモが半泣きで叫んだ。
「お、追いかけてくるぞ!」
「とりあえず森を抜ける! どうするかはそのあと考える!」
来たとき十分もかからず中心部に辿り着いたその森は、駆ければすぐに出口へと辿り着いた。視界が開ける。そう遠くない先に、街を囲う城壁が見える。
「くそ」
そう悪態をついて、ヒイロは足を止め追ってきた影と向かい合った。
「ここで食い止める。こいつを街に入れるわけにはいかないからな」
「でも! どうやってだよ!?」
モモが叫ぶ。ヒイロは逃げる間に思いついた考えを口に出した。
「昨日、ルナが言ってた。『黒厄』っていうのが壁外に出没してるって」
「確か、全身が真っ黒で、なんの理性もなく突然凶暴化する怪物……、まさか!」
「ああ、こいつがそうなんじゃないか」
黒々とした体躯はゆらゆらと揺らいでいる。頭蓋は真っ黒に塗りつぶされ、表情は見えなかった。それでも、確実に影はこちらを認識していた。あるのかもわからない両目でヒイロたちを認識して、輪郭の定かでない両の手をまるで縋るようにこちらに伸ばしていた。
「『黒厄』だっていうのなら、こいつは魔力を避ける。森に追い返せるはずだ」
そう言って、ヒイロは首から下げていたレムを握った。わずかに手が震える。頰が引き攣る。魔術はモモに教わっているけれど、実戦で、しかもこんな切羽詰まった状況で使うのは初めてだった。その様子を見て、逆に平静を取り戻したのか、怯えて肩にしがみついていたはずのモモが耳元で囁く。
「落ち着け、おまえなら大丈夫だ。深呼吸して、おれの言うことを聞いて」
意識をして息を吸う。ゆっくり時間をかけて吐き出す。大丈夫。聞こえている。モモの息遣い。影の漏らす声。
「おまえの身体を巡っている魔力。おまえのまわり、この星を巡っている魔力。すべてに神経を研ぎ澄ませて。手の中のレムはおまえの一部だ。そして、星の魔力と繋がっている。おまえはレムを通して、おまえの願いを叶えられる。大丈夫、おまえならうまくやれる」
やわらかな少女の声が、ヒイロの心に深く深く落ちていく。恐怖に乱れていた呼吸が落ち着いていく。
「レムに魔力を集めることをイメージするんだ。そう、息を吸って、吐いて、吸って……」
右手に握るレムが熱を帯び始める。視線の先で影がほんの少しだけたじろいだ。
「いいぞ、その調子だ。手を開いてごらん」
力の入っていた右手を少しずつ開く。眩い光が指の間から漏れ出す。ばち、と一つ何かが弾ける音がする。
「大丈夫。安心して。うまくいってる。そのまま手を開いて」
音にわずかに怯んだヒイロを、モモは優しく励ました。その言葉に背中を押される。思い切って手を開く。
星があった。空で輝く星のように眩い光を放つ夜色の石が、手の中でばちばちばちと大きな音を立てて爆ぜていた。
影が揺らぐ。苦しげに手で顔を覆い、途切れ途切れの悲鳴を零し、後ずさる。
「去れ。ここはおまえの来るべき場所じゃない」
モモが影に語りかける。ぐう、と黒い影は息を漏らした。
「行くんだ。おれたちはおまえに救いを与えられない。おれたちに着いてきても、おまえは救われない」
伝わっている確証はなかった。影は言葉にならない悲鳴を上げるだけだった。けれども確かに、自身の姿と相反する魔力の光を浴びて、影はずり、ずり、と足を引き摺るように後退していく。影が通った道が、黒い泥のようなものとなって地面に残される。
やがて、影が完全に森の中に姿を消したころ、ヒイロとモモは同時に息を吐いた。
「……ふう、なんとかなった……」
「ああ。ヒイロ、実戦は初めてだったよな。すごく上手だったぞ」
「……いや、モモのおかげだ。俺だけだったら、パニックになってたと思う」
「そうかぁ? おまえは頭回るから、なんだかんだなんとかなってたんじゃないか? でも、まあ、まだまだ向上の余地はありそうだな。これからの訓練が楽しみだぜ」
うげ、とヒイロは顔を顰めた。先ほどの実戦こそ優しかったものの、モモの訓練は見かけによらずかなりのスパルタである。これまでよりも厳しい練習が待っているのかと思うと少し気が滅入った。
「とりあえず、一旦宿に帰ろう。午後はポスターを貼りに行くんだろ?」
「ああ、そのつもりだ。なあ、モモ、あの影について何かわからなかったか?」
「……いや、何も」
モモが首を振った。モモは魔力の解析が得意なのだと以前本人が言っていた。世の中のほとんどのものには魔力が通っているから、モモが解析できないものは無いに等しかった。そのはずだったが。
「視てもよくわからなかった。触ってみれば何かわかったのかもしれないけど。でも剣をすり抜けただろ。おれだって触れるかわからない」
ああ、でも。モモが思い返すように言葉を止めた。
「人間だったな。あれは間違いなく、人間が成ったものだ」
「え……?」
ヒイロはモモの顔を見た。冗談を言っているようには見えない。
「人間、って……」
「そのままの意味だ。視える範囲での構造は外も内も同じだった。どういう原理かわからないけど、元々人間だったものが意思疎通のできない影となった。そう考えるべきだ」
「じゃあ、ランツォーネの壁外で出没している『黒厄』っていうのは――」
「おそらく、人間だろうな。人間以外の形をしているものがあるのなら、それにも元があるはずだ」
「なんで……」
そう言って、ヒイロは口に手を当てた。影のことを深く考えようとすると、なぜか胸の奥から不快感が込み上げてくる。首を横に振るモモもわずかに顔色が悪い。
「……早く、街へ帰ろう。またあいつが戻ってくるかもしれない」
ヒイロの提案にうん、とモモが頷いた。早朝に宿を出たからまだ日はそう高くない。言葉少なに、ヒイロたちは白く高い壁へと歩き出した。