一 ランツォーネ
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壁がある。五メートルはゆうに超えるであろう、それはそれは高い壁が。
ヒイロは、熱で茹った頭で呆然と目の前のそれを見上げた。横ではモモが同じように絶望した目で壁を見つめている。白いはずのまろい頬が、真っ赤に熟れていた。
「……ここが、ランツォーネでいいんだよな?」
「……そのはずだぞ……こんな高い壁知らないけど……」
ヒイロの問いかけに、小さな少女は力なく答えた。また沈黙が落ちる。すでに高いところにある太陽が、じりじりと肌を焼いた。暑い。それしか考えられない。
「壁しかない……入り口はないのかよぅ……」
モモのか細い声。ヒイロは首をゆっくり動かして辺りを見渡した。右手側、延々と続く白銀の壁の先。かなり遠くにはなるが黒色に染まった場所がある。きっとあれが門だろう。幻覚でなければ、だが。
「……あそこに、門らしきものならある。三十分はかかりそうだけど」
「まだ歩くのか!? もうむりだぞ! ヒイロ〜肩に乗せてくれ〜……」
遠くを指させば、モモが泣き言を言った。「歩く」なんてよく言う。いつも飛んでいるうえに、時折ヒイロの頭やら肩やらに乗って楽をしているのだ。ちょうど今そうしようとしているように。まあ彼女は異様に軽いからさして問題はないのだけれど。
「みず……ヒイロ、水がほしいぞ……出してくれよぉ」
「ないよ。さっきお前が飲んだのが最後。言ったよな、大切に飲めって」
腰に下げた水筒は、すでに空である。今朝小川で汲んできたのだが、案の定足りなかった。ため息をつく。水を飲みたいのはこちらも同じである。最後の一滴を飲み干されたのだから、ちょっぴり不満もある。言わないが。
「なあヒイロ、登れたりしないか? 木登り得意だろ」
「……まあ、登れなくはないよ。でも見張りがいたら捕まるかもしれないだろ。できれば友好にいきたいんだけど」
「……それはそうだな……」
ぽつりとつぶやいてモモは肩を落とした。そしてそのまま、ふらふらとヒイロの右肩に着地する。すっかりしょげてしまった彼女の頭を軽く撫でると「うう」と軽く唸った。自分もそうだが、もう限界が近い。
「仕方ない、歩くしかなさそうだな……」
自身を奮い立たせるためそう口に出したけれど、足は地に突き刺さった棒のように動かなかった。モモもぴくりともしない。
つばのある帽子でも買えばよかった。きっと彼女が日陰で涼むことができたかもしれない。そう明後日の方向に思考を飛ばしていると、背後から足音が聞こえてきた。
「っと、あれ、貴方たち何者!?」
高い声に振り向けば、遠くから駆けてきたのだろう少女が立っていた。年はヒイロと同じくらいだろうか。肩で息をするたび金色のポニーテールが揺れる。
「もしかして、街に侵入しようとしてる?」
ヒイロとモモを順繰りに見つめて、少女は眉を寄せた。腰に下げた剣に手をかける。ヒイロは慌てた。
「待て。待ってくれ。俺たちは怪しい者じゃない。道に迷っただけだ」
「そうだぞ! 壁を登ろうとか、してないんだからな!」
混乱のあまり余計なことを口走るモモの口を両手で塞ぐ。「ふが」と悲鳴が上がったが、構っていられなかった。大目に見てくれ、あとで美味しいものを食わせてやるから。そうささやけば、ジタバタとした抵抗が止まる。
「……本当に?」
その様子を訝しげに見つめていた少女が、再び問いかける。ヒイロはカクカクと頷いた。
「本当も本当。俺たち旅をしているんだ。この街には用があって来て、でも入り方がわからなくて、水も尽きて」
「ふーん?」
「とりあえず、悪いことしようなんて思ってないんだ。本当だ。信じてくれ」
じとりとした視線がヒイロたちを突き刺す。しかし、少女は少し考える素振りを見せて、そして剣の柄から手を離した。ふう、と小さく息を吐く。
「……わかった。信じるよ。確かに、一人と……一匹? じゃこの街で何かしようと思ってもできないだろうし、それに嘘をついているみたいにも見えないしね。急に疑ってごめんね」
「一人と一匹じゃないぞ二人だぞ」とまた余計な口を挟もうとしたモモを押さえ込みながらヒイロも謝る。
「いや、こちらこそ。疑われるようなことしてごめん」
「大丈夫だよ。初めて来てこの壁見たら、困っちゃうよね。私も最初の頃はそうだったよ」
ふふ、と軽く笑い声を上げてから、少女は姿勢を正して片手を胸に当てた。
「私はルナ・シェード。ルナって呼んで。ランツォーネ騎士団第六偵察隊所属の騎士だよ。よろしくね」
そう言ってにっこりと笑う。ピンと伸びた背筋、制服であろう濃紺の衣が凛々しい。これが騎士というものか、と初めて見たその姿にヒイロは心の中で感心した。
「俺はヒイロ。旅をしているんだ。こちらこそよろしく頼むよ」
「おれはモモだ! こいつの案内人! よろしくな!」
右手を差し出す。細い手首に反して、豆のある固い手のひらがヒイロの手を包んだ。よろしく、と改めてルナが言う。
「おれも! 握手しよ! ルナ!」
その様子を見ていたモモがふわりと飛んで、二人の手の上に小さな手を乗せた。その可愛らしい言動に、ヒイロとルナは顔を見合わせて同時に吹き出したのだった。
「ランツォーネの城下町には、門がいくつかあってね。貴方たちが遠くに見た黒い門は北東のアルベルべ門っていって、ほとんど開くことがないの。だからそっちに向かわなくて正解だったよ」
私もちょうど街へ戻るところだったし、案内するよ。その言葉に素直に甘えて連れ立って歩く道すがら、ルナはそう説明した。
「ちょっと西に行くと、小さいけれど商人用の門があるんだ。そこからだったらすぐに街に入れるから、そこに行こう」
手慣れた様子の案内に頷く。
「でも、なんでアルベルベ門は開かないんだ? 遠目で見ても結構立派な門だったと思ったんだけど」
「うーん、なんて言えばいいかな。あの門は監視用なんだよね。リュゲルビ大穴って聞いたことある?」
初めて聞く言葉にヒイロは首を傾げる。しかし、モモは聞いたことがあるようだった。
「知ってるぞ。五百年くらい前に、突如として現れた大穴だろ。そういえば、ランツォーネの東にあるんだったっけ」
「うん。その大穴が最近広がってきているって噂があって。それに黒厄も大穴から広がっているらしくて監視しているんだ」
「黒厄?」とモモが目を丸くする。
「初めて聞いた。なんかの病気か? 夜前病なら知ってるけど」
夜前病。ヒイロも前に聞いたことがある。ルヴェールを出てからいくつか立ち寄った村で、稀に見た病だった。食欲不振、運動能力の低下に始まり、少しずつ少しずつ生命活動が停止していくのがその主な症状だ。睡眠時間ばかりが長くなり、やがて永久に目覚めなくなる。七つの星夜を目前に控えた時期に患者が急増するというその病は、ヒイロが七夜を起こしさえすれば快方へと向かうらしい。そう教えてくれたモモは病の原因も知っているふうだったが、それだけは口を割らなかった。教えたところで意味はないし、本来は人間たちが自力で解明すべきで、自分が教えるのはルール違反のようなものだから、というのがその理由だ。
モモの問いに、ルナは深刻そうに首を振った。
「ううん、黒厄は夜前病とは違うよ。そもそも病気じゃない。黒の厄災って書いて『黒厄』って言うの。全身真っ黒で、なんの理性もない凶暴な怪物が、各地に現れて、村を襲っているんだ。襲われた村は家も畑も黒の泥に覆われちゃって、住んでいた人も遺体が見つからずに行方不明だって聞いたよ。壁の外側、それも大穴を中心に被害が多いんだ。だから穴から来てるんじゃないかって言われてる。北東の方にある村は、端にある方からもう結構な数、黒い泥に呑まれちゃってる」
「なんだそりゃ」
モモが素っ頓狂な声を上げた。ヒイロも初耳だ。
「そんな怪物が大穴から出てくるなんて、聞いたことない。おれの知ってる限り、大穴って大きくて底が見えないくらいに深いけど、それでもただの穴だったと思ったんだけど」
「そうなの? もうここ数十年も前からずっと、黒厄の被害はあるらしいだし、ランツォーネでは結構有名な話なんだけどな。でも貴方たちはランツォーネの外から来たんだし、知らないのが普通なのかな」
「まあ、俺たち結構な田舎から来たから。そのせいかもしれない」
そっか。ルナは納得したように頷いた。
「それで、その黒厄ってやつ、何か対策はあるのか?」
モモがおずおずと尋ねる。ルナは静かに首を振った。
「ううん。まだ明確な対策は見つかってないんだ。倒すこともできないし、何を求めて私たちを襲ってくるのかもわからない。魔術師様たちも研究してくださっているけれど、まだほとんど何もわかってない。ただ、強い魔力を恐れるってことだけはわかったから、それでなんとか凌いでるみたいだよ」
「……そうなのか」
三人の足取りが心持ち重くなる。
「あっ、でも心配しないで。壁の中には入ってこないから。街にいる限り、黒厄に襲われることはないよ」
暗くなったヒイロたちの顔を見て、ルナはパッと表情を明るくして慌てて言った。そっか、とモモが言い、一度会話が途切れる。ヒイロはすかさず口を挟んだ。
「なあ、そのリュゲルビ大穴って何なんだ。俺、初めて聞いたんだけど」
「あ、ごめん、まだ教えてなかったよな」
先に答えたのはモモだった。
「リュゲルビ大穴っていうのは、ランツォーネとリュベナルクのちょうど中間、荒野が広がる中にぽっかり空いた大きな穴のことだ。かなり深くて、底の見えない真っ暗闇。五百年前くらいに突然できたって噂だ」
「一体どうして、どうやって大穴ができたのか、今もわからないままなんだよ」
モモとルナが口々に説明する。しかし大きい穴と言われても実際に見たことがないヒイロには、あまりイメージが湧かなかった。
「大きいってどれくらいだ? 家一つ入るとか?」
想像してみて首を傾げる。家一つ。ヒイロが知っている家は、故郷やこれまでに訪れた村にある小さな小さなものばかりだが、それを覆えるとしてもかなりの大きさの穴になる。
しかし、ヒイロの予想を裏切り、彼の言葉を聞いた二人は顔を見合わせてぷっと吹き出した。
「そんなものじゃないぞ。おまえが想像している数千倍は大きい」
「ランツォーネ城の街、すべてを飲み込めるくらいの大きさって言われてるよ。私も見たことはないんだけどね」
「そんなに大きいのか……。でも、それなら突然現れるのはおかしくないか。誰かが短期間で穴を掘った、なんてわけないし」
「だから不思議なんだよねぇ」とルナは笑った。
「魔術師様とか学者先生とか、調査している人はいっぱいいるから、もしかしたら何かわかったこともあるのかもしれないけど。ごめん私、学がないからよくわからないや」
ごめんね、とルナは形のいい眉を下げて、へラリと笑った。
「そうだ、リュベナルクに行く時に寄ってみようぜ。黒厄ってやつが危ないって言っても魔力を恐れるんだったら、おれたち身を守れるし」
いいことを思いついたとばかりに、モモが満面の笑みでそう提案した。しかしルナが眉を顰める。
「あなたたち、リュベナルクにも行くの?」
深刻そうな顔で囁く。
「あそこ、行くのあまりおすすめしないよ。かなり危ないって聞くから」
「そうなのか」
「うん、なんか戦争の準備をしているらしいんだ。今はどの国もリュベナルクの様子を伺ってる」
だから本当に行かない方がいいよ、とルナは念を押した。
「ああ、気をつけるよ」
しかし、どんなに危ないと言われても、まさか行かないわけにはいかない。なんていったって十六年待ってやっと始められた使命なのだ。ただ、変に心配させるのも申し訳ないのでヒイロは曖昧に返事をした。
「あ! 見ろよ、そろそろ門に着きそうだぞ!」
モモが声を上げる。小さな手が指さす先、いくつかの荷馬車が壁の中へ入っていくのが見えた。気づけばもう城門のそばまで来ていたようだ。視線の先で、守衛の一人がこちらに気付き敬礼する。隣で敬礼し返したルナを見て、ヒイロも軽く一礼した。ルナに案内されるまま、検問の列に並ぶ。
「入城の手続きが必要なんだ。すぐ終わるから緊張しないで。私もいるし」
あ、そうだ、とルナが声を上げる。
「そうだ、私の報告が終わったあとでよかったらなんだけど、一緒にご飯を食べない? もうお昼過ぎてるし、その調子だと何も食べていないんでしょ。さっき不審者と間違えちゃったお詫びも兼ねてご馳走するよ、どう?」
「ご飯!」
提案に真っ先に反応したのはモモだった。
「食べたい! おれもう、お腹ぺこぺこなんだ。朝からなーんにも食べてないんだ」
「こらモモ、ちょっとは遠慮しろ」
ここぞとばかりに空腹をアピールするモモを諌める。モモは頬を膨らませて不服そうだ。その二人の様子に、ルナは軽く笑った。
「あはは、いいよ。私がご馳走したいの。せっかくランツォーネに来てくれたんだし」
「……本当にいいのか? あれは、変なところを歩いていた俺たちも悪かったからお互い様だろ。それにこいつはよく食べる」
「大丈夫だよ。お給金も出たばっかりだし、気にしないで」
ぽんぽん、とルナは腰に下げていた袋を叩いた。列が進む。次の方どうぞ、と声をかけられる。
私たちの番だね。そう言ってルナは近づいてきた騎士に声をかけた。一言二言、言葉を交わす。ルナの言葉に頷いた騎士はヒイロに向き直った。
「こんにちは、ようこそ旅人さん方。これから幾つか質問しますが、リラックスしてお答えください」
名前、出身地、旅の目的に滞在期間。簡単に質問される。
「俺はヒイロ・フェルリック。こっちはモモ、俺の相棒。クイナ地方にある村から来た。修行の旅に旅をしていて、ここには休養と物資の調達のために来たんだ。滞在期間は、二、三週間を予定している」
事前にモモと決めていた設定をスラスラと説明する。これまで立ち寄った集落でも何度かお世話になった作り話だ。
「なるほど。ヒイロさんは人間のようですが、モモさんは?」
「おれは獣人だぞ。ロスト・フェアリーだ。聞いたことあるだろ?」
二十代半ばの男の追加の質問の意味がわからず首を傾げたヒイロを、モモがすかさずフォローする。獣人? ロスト・フェアリー? 何なのだろう、あとで聞かなければ。
内心で首を捻り続けるヒイロとは裏腹に、男は納得したようだった。
「ああ、クイナにいるっていう」
「そうだぞ。見るのは初めてか?」
「初めてですよ。クイナの妖精様が他国にいらっしゃることはほとんどないですから。……よし、質問は終了です。街ではこのバッジをつけてお過ごしくださいね。もうすぐ風始祭もあることですし、良い滞在を」
ヒイロたちの回答をさらさらと紙に記入して、守衛は机の引き出しから青色のバッジを二つ取り出した。ヒイロの小指の爪のほどの大きさの小さなそれは、陽の光を浴びててらてらと光っている。
「わかりました。ありがとうございます」
突然差し出されたバッジに戸惑う二人の代わりに、ルナが受け取り礼を言う。ヒイロも慌てて頭を下げた。
「じゃあヒイロ、このバッジを見えるところにつけてくれる? モモちゃんには私がつけてあげるね」
「あ、ああ。わかった」
そう言って、ヒイロは渡されたバッジを胸元につけた。ルナはモモのクリーム色の衣に青色のバッジをつける。
「ルナもバッジをつけているんだな。赤いやつだけど」
「あ、うん、そうだね」
ルナはそう言って、上着を引っ張った。ヒイロのものと同じデザインの赤いバッジがきらりと輝く。
「私がつけているのは、ランツォーネ城の外から来た国民の印だよ。青がランツォーネ国外から来た人、赤が国民だけどこの街の壁の外――壁外から来た人、そして緑色が壁の中、つまり壁内から来た人。一目で見分けられるように街ではわかりやすいところにつけていないといけないんだ」
「へえ。じゃあルナは、この街の生まれじゃないってことか?」
モモが躊躇いもなく尋ねる。
「うん、ここから一、二時間くらいかな。北東にあるスエラっていう村の出身なんだ。騎士団に入った時に村を出ているから、もう一人暮らしだけど」
「そうなんだな! 寂しくないのか?」
「割と慣れるものだよ。もうここでの暮らしも長いし」
「へぇ〜、おれはヒイロがいなかったら、絶対寂しくなっちゃうぞ。ルナは強いんだな!」
感心したモモの言葉に、ルナはなぜか困ったふうに笑った。
その様子にヒイロは少しだけ首を傾げる。しかしすぐにルナは明るい笑顔に戻ってしまった。何も気づかなかったらしいモモが再び口を開く。
「それにしても、思っていた以上にすんなり入れるんだな」
ルナに案内された西門は、多くの騎士や商人、旅人に溢れていて活気がある。ヒイロたちにも明るく挨拶をしてくれる彼らの対応は、高い高い城壁や遠くに見た黒い門とは真逆とも言えるものだった。
「ランツォーネ城は基本的に、国外からの訪問者は歓迎する街なんだよ。今は少し東の方面がきな臭いから、ちょっと警戒しているだけ。本来はこれが普通なんだ」
ルナは、タタタと数歩先へ駆け出して振り返った。困惑して突っ立っている二人に向き合い、にっこりと笑う。
「風の止まぬ街、ランツォーネにようこそ二人の旅人さん。私たちランツォーネの民は、あなた方を歓迎します」
そして恭しく礼をする。呆気に取られて見ていた二人も、慌ててぺこりと会釈した。そんな様子を見て、ルナがまた小さな笑いをこぼして言う。
「この先が、中央の通りだよ。そこで待ち合わせしよう」
そう言って元気よく偵察の報告へと駆けていく。その姿を見送ったあと、ヒイロとモモは壁の中へと足を踏み入れた。