第142話 Who are me
C組に行くともう見慣れた顔ぶれが揃っていた。教室内の男子が一人の生徒を取り囲んでいた。人込みの中心には入院していた羽人がいる。
夏休みからずっと病院のベッドで寝て過ごしていた。起きたら夏休みが終わっていたと釈然としていなかった。身体のどこも異常がないのに、寝ていた。
再検査の結果も異状はないとすぐに退院が許されて、登校してきた。
「羽人ぉ~! 心配したんだぜ~!」
「タイインデキテヨカッタ」
「可愛い看護師さんとお近づきになれちゃったりする~?」
「不謹慎だぞ、真嶋」
口々に言う。羽人が無事でよかったと、安堵の表情は絶え間なく続いている。
『心配かけてごめん。ただいま』
「おかえり……おかえりっ、羽人君」
懐かしい電子音に、帰って来てくれたと実感すると五十澤の目に涙が浮かび、ぶわりと溢れた。「わっ! ナナ!?」と剣道が慌てふためく。助けられなかった後悔の日々。吸魂鬼を恨んでしまった気持ち、誰かを傷つけても助けたいと思えた人。
この人生で初めて友だちになってくれた羽人が戻って来てくれたことが嬉しくて溜まらなかった。
『ただいま、ナナ』
そう言って微笑む羽人に五十澤は心の底に固まっていたものが崩れ消えた。許された気がした。もう誰かと争うなんてことはないだろう。けれど、もしも万が一にも次があったら、今度こそ気を抜いたりしないと戒めた。
「ほんま、良かったわ。ロクさんが無事に戻って来られて」
後ろの席で大楽と話をしていた蛇ヶ原が五十澤に言う。大楽も「ほんとほんと~」と相変わらず間延びした物言いをして、どこか安心感がある。
休校の間にゾーン関係で色々とあったようで連絡は届かなかった。少し心配していたが、杞憂に終えたようで一安心だ。
「二人とも、モグラにまだいるの?」
「いや、胡蝶から言われとるんよ。一通りの確認作業終えたら、自分らも引き上げるらしいんですわ」
「ゾーンがないから、俺たちお仕事出来ないんだよね~。人探しとかも廃業させられちゃうって感じで、ほぼ俺向きじゃないしー」
探偵ではないが、モグラと言う組織はゾーン内の問題を人知れず解決していた組織であり活動拠点である筥宮では知る人ぞ知るような職場だったらしい。しかしゾーンが消えた今、存在理由は失われた。
「あれ、でもなんか協力するようなことを言われていたよね?」
病院で黒服の人たちが現れてゾーンに関わった人たちは任意で継続活動が出来ると提案されていた。勿論、今までの活動を記録として提供することを条件にしていた。
そして、もしも提案を了解した暁には、サポートは手厚いとも聞いている。
「あー、アカンアカン。よーわからんとこは行かれへん」
「これ以上面倒なのヤダー」
「自分らは、これから普通の高校生しますわ」
「通行料も戻ってきたし、問題ないよね~」
「そう言えば、大楽君の通行料って?」
「んー? ヒミツ」
指を口元に運び内緒のポーズをする大楽に五十澤は、不機嫌な顔をすることなく「そっか」と納得した。言いたくないこともあるだろう。気になったが言わないのなら、それで納得する。蛇ヶ原の方も母親が数年ぶりに戻ってきたようで、信じられないと父親が涙していたと語ってくれた。
その後、谷嵜先生が来て、ホームルームが開始する。
いつものように出席を取らずに、独弧燐が急遽学校を退学したことが告げられた。他にもいくつかの連絡事項を告げた後、教室を去っていく。相変わらず、学校では普通の教師として過ごしている。ただ顔を怪我したのか、口やら目元が腫れているのを「せんせー! 彼女にボコられた感じ?」と真嶋が茶化したが、その結果、放課後の教室掃除が真嶋一人でやる事になった。
言わなければいいのにと皆一様に心のうちに思っていた。絶対に違うと思っているのになぜあえて言うのか。
「ほんとバカすぎ~」
「そ、れ、な」
それほど日は経っていないはずなのに、教室内の雰囲気が随分と遠い昔のように思えて、五十澤は懐かしい気持ちになる。
そうして、その日の授業は何の不満もないままに終えた。休憩時間に旧校舎に向かい茜と話をする。自販機でジュースを買い与えると嬉しそうに「ありがとう!」と言って満面の笑みを浮かべてくれる。それが嬉しくて、兄となった嬉しさは計り知れないものだ。
前世、慈愛のノアだった頃も兄妹はいたが、それぞれ独立した精神を持ち、世話をするなんて必要はなかった。
兄妹と言うよりはバニティのように友人知人、顔見知り程度だった。感情を向け合うことが出来るのは人間の特権だ。互いにいがみ合うばかりでそりが合わない。
午後の授業も滞りなく進行して、放課後。五十澤は部室に向かうために本校舎を歩いていると見知った人の後ろ姿を見かけた。
「新形さん!」
生徒会室へと向かう途中なのか、こちらを振り返る新形は、五十澤を見て不思議な表情をした後「あー!」と思い出したように近づいてきた。
「君、助けてくれた子だよね!」
「え、あ……」
(そうだ。今は、本当の新形さんなんだ)
五十澤はうっかりしていた。彼の中で新形は花咲としての認識だったため、他人行儀の素振りに五十澤は戸惑いを覚える。
そして、同時に新形を取り戻した安堵と、花咲がどこへ行ってしまったのかという不安が胸をいっぱいにする。
「憶えてるんですね。ほとんどの人は曖昧だって聞いてたんですが」
「私、霊感が強いんだ。昔からそう言う怖いものとかよく見ちゃってさ。それで谷嵜先生とかに助けてもらっちゃってんだよね~」
その話し方や仕草が花咲が模していたものと似ていた。その違いは微々たるもので、気を抜いてしまうと花咲と話をしている気分になる。
本当に花咲が新形を演じるのが上手だったのだ。親友をよく見ていなければ出来ない程だ。
「そうそう、谷嵜先生みてない?」
「え、えっと教員室でしょうか?」
「行ったんだけどね。いなかったんだ~」
花咲も谷嵜先生を探していたが、新形も谷嵜先生を探していた。
「……あの」
「ん?」
五十澤は意を決して尋ねた。
「身体がとられた時のことってはっきり覚えていますか? 嘆きの川にいた時とか、他のこととか……」
新形は、通行料となっていたが異例だったと考えていた。肉体はこの世に存在を続けて、魂だけが嘆きの川を浮遊していた。そして、魂はこの世に残してしまった花咲の存在が異例をさらに異例で重ねたような特殊だと認識していた。
「うーん、正直ほとんど憶えてないよ。ただ元の生活に戻った時に、私の立場がほぼ変わってなかったんだ。それで私は見聞きしてないのに、デジャヴが強くて驚いちゃった」
成績、交友関係、身の振り方。なにもかも慌てふためく中、「どうしたの?」と尋ねられて適当な言い訳をすると「なぁんだ」と言い訳が成立していた。花咲が新形を騙って過ごした日々は無駄ではなかったのだ。
花咲は新形が戻ってきたときの為にノートに交友関係を記してくれていた。どう言う人で、どういう性格で、どういう接し方をしていたのか。新形が苦にならないように試験の対策ノートのように懇切丁寧に書き綴られていた。
「ほぼって言うのは?」
「私の悩みを全部解決してくれてた」
例えば、鬱陶しいストーカー。両親との学力でのいざこざ。学校生活での身の振り方。成績も上位をキープして、ストーカーが気づけばいなくなっていて、優れた高校に入学する事が出来た。そして、追いかけていた。正確には追いかけているふりをしていた男の人の近くにいる。
「本当は、ありがとうとか、ごめんなさいとか言わないといけないんだけど、今の零は、話する事も出来なくて、どこかの施設にいるだって……。零のお兄さんが探し回ってるみたい」
「どこにいるか知らないんですか?」
「うん、聞かされてない。ほら、私は一応はただの被害者で民間人だからさ。そう言うことは君の方が詳しいんじゃないかな? それでも知らされていないって言うなら、もう私たちの手には届かないところに行っちゃったんだね」
それでもいつか、高校を卒業しても、戻ってこないなら律歌と共に探すのも吝かではないと新形は笑みを浮かべた。
「今回は、ありがとうね。……えっと、そう言えば、名前は?」
「乃蒼です。五十澤乃蒼」
「乃蒼。助けてくれてありがとう。零を連れて帰って来ようとしてくれてありがとう」
「それ、どこで」
「谷嵜先生から聞いた。君が頑張ってくれたこととか吸血鬼部のことも聞いてるよ。零に友だちがいっぱいできたことも嬉しい」
いろいろ聞いている。聞いているし、身体が覚えているのだ。
完全に憶えていないことが、これほどまでに悔しくて悲しいとは思わなかった。
放課後は谷嵜先生を探して、吸血鬼部に足を運ぶ。そして、他愛無い話をして、調査をする。数年の間、宿主が変わっていると身体も不慣れになるものだ。
「暫く病院でリハビリだなぁ。ずっと零に任せっきりだったから、身体が重たくてね」
身体が安定するまでリハビリが必要になる。新形は背伸びをする。
これから病院であると言われて引き留めてしまったことを謝罪すると「話せてよかったよ」と笑みを浮かべていた。
「またね、乃蒼」
「はい」
ひらひらと手を振って下校していく新形の背を見届けて、五十澤は旧校舎に向かう。
道中、綿毛と合流して共に歩く。
ハウスへの信頼心を取り戻した綿毛は、どちらも悪ではないと疑心の種が払拭されたことを教えられた。その後、ハウス、サブハウスは外部組織と連携を取る事になったことを告げられる。
「ゾーン、吸魂鬼とはまた違った脅威勢力があって、その情報を提供する代わりに吸魂鬼の情報を提供することになったの」
「忙しくなるの?」
「私は全然」
綿毛は存在をどうこうする通行料ではない為、決まりを破ったその瞬間に罰は受けていた。咎められることはない。寧ろ通行料奪還に一役買ったことで罰も無くなり、綿毛家は、黎明家の傘下だったが今回の働きで黎明家よりも上位の暁家の傘下になることになった。もっとも暁家も、掟破りをしているため、変動があってもいいはずだが、暁家が消えたということを知っているのは、ごく僅かであるため、ハウス全体では、お咎めが無い。
そんな話を聞きながら旧校舎に足を運ぶ。昇降口で暁が待っていた。
「遅いですよ。貴方たちで最後です」
「ごめんなさい」
「すいません」
三人で部室に向かうと吸血鬼部に身を置いていた部員や幽霊部員が集まっていた。
そこにはいるはずの部長の姿が無い。元の状態になった。世界が修正されたのだ。
不規則に動いていたものは、規則的に動き出した。奪われたものは素知らぬふりをして戻ってきた。
「今まで苦労かけたな」
谷嵜先生はいつものソファに腰かけていう。
今までの労いの言葉をかけてくれるが、五十澤はそれよりも気になったことが口にした。
「先生、部長は……どうなったんですか?」
「暁家が部長の魂を所有している。技術が進歩すれば、いずれ君たちの前に現れてくれるよ」
「はい。俺と兄さんたちが責任をもって部長を連れてきます。何年経とうとまた皆さんの前に連れてきます」
「長~! カムバック!」
(やっぱり僕じゃあ花咲さんを連れ戻すなんてできなかった)
五十澤は俯いた。その様子に谷嵜先生は言う。
「五十澤。君が花咲を地底から連れ戻したから、花咲零を誰も忘れることはなかった。五十澤、浅草。君たちのお陰だ。ありがとね」
谷嵜先生はゾーンと空想のことを告げる。
気づいている者は気づいているだろう。もう空想は発動しない、ゾーンへのゲートも開放不可能。ゾーンを支配していた吸魂鬼が消失したことで、ゾーンの均衡は崩れてしまい侵入も出来ない。完全にゾーンは消滅した。
吸魂鬼狩りが使用していたサイトにも数多くの情報が未だ行き交っている。通行料が突然現れたことに困惑する者たちが後を絶たない。それの収拾をハウスや野良の吸魂鬼狩りはするのだろう。
未成年はこのまま何事もなく表の生活に戻ることが許される。もうこんな血生臭い戦いに巻き込まない為に望まない者たちは早々に帰宅する。
刺激を求めた若者たちが、満足するほどの刺激を与えたのだ。もう腹も満ちている。充分だというほどに危険を冒して、恐怖を体験した。失いたくないものが何なのかも知った。自分の身の程を知ったのだ。失わずに済むのなら、何も知らないままでいるべきだ。
「事が終えても、君たちが築いた友情は本物であり、この先も繋がり続けていると信じてるよ。今日を以て吸血鬼部は活動終了を宣言する。お疲れ様」
後処理が大変で、状況を整理するのに時間はかかる。けれど、今日をもって吸血鬼部としての活動はない。ゾーン内に迷い込んでしまう人がいないのだ。幽霊部員はもう増えない。
もしも何か問題があれば、谷嵜先生が話を聞いてくれるだろう。暁と浅草も専門家として相談に乗ってくれるはずだ。
五十澤は、吸血鬼部の人たちが部室を出ていくのを一瞥して、谷嵜先生と二人になるタイミングを見計らった。
「帰らないのか? お前の妹が別教室で待ってるんだろ?」
「先生は、まだ吸血鬼なんですか?」
「吸血鬼じゃない。俺はただの感情が欠如した人間だよ」
部室に持ち込んだ物を段ボールに詰める谷嵜先生。その中には花咲が持ってきた物もある。花咲の物だとして実家に送る事は出来ないだろう。ならば、静かに保管されるか、捨てられるだけだ。「それどうするんですか」と尋ねれば「持ち主のところに持っていく」と淡々に言われる。つまり、花咲が保護されている暁の家だろう。
それを聞いて少しだけ安心した。
吸血鬼ではない。血を求めることもなく、眠気もない。
ゾーンが消えたその日に谷嵜先生は、人間になった――なんて都合がいいことは起こらなかった。何も変わらず谷嵜先生だけが通行料も、人間性も失ったままだった。
「僕が……いえ、慈愛のノアが先生を吸血鬼にした。吸魂鬼を通行料にすると軸がおかしくなるんですね」
「そうだな。けど、君が責任を感じることはない。君はあくまでもアイツの巡りであり、本人じゃない」
「でも、僕だから……この名前も、僕は思いつかない。誰がつけたんですか?」
「……佐藤だ」
佐藤先生がノアにつけた名前。吸魂鬼に名前はない。呼び名がないと不便だろうと、五十澤乃蒼という名前を付けた。
「あの佐藤先生は」
「空想の暴走を最後に消息不明。どこかで生きていれば騒ぎ立てるだろ。死んでいれば、あの世で会える。そう言う奴だ」
親友を失って悲しむ気持ちも無くなってしまった。淡々と言えば、律歌のように殴られるかもしれないが、白々しい演技などしたくなかった谷嵜先生は、本心を告げる。
嘆きの川にも佐藤先生はいなかった。見つけられなかっただけかもしれないが、もしも嘆きの川に佐藤先生が居たのなら、ノアと共に谷嵜先生が迎えに来るのを待っているかもしれない。
今も戦い続けているだろうノアと糸雲を考えると、嘆きの川に佐藤先生が居たら手を焼いているだろう。
「これからどうするんですか?」
「君たちが卒業するまでは、この学校の教師をするよ。その後は、何も予定はない」
教師をしていなければ、吸魂鬼として仕事をしていた。けれどその仕事も無くなってしまった。暫くは家で息子とその友人の面倒を見るだけだと抑揚のない声色で言う。
「あの! 僕の妹は……どう言う」
「君と同じ。ただの人間だよ。人畜無害、ただ君に会いたくて運よく巡った。実の妹で、巡る際に関係者の記憶改変は行われてる。それこそ世界五分前仮説に匹敵する行為だな」
五十澤の両親が事故死しているというありもしない記憶と同じように、事情を知らない者たちにとって、茜は本当の意味で兄妹の認識だ。
その身がこの世に馴染むまでは世界は好き放題に改変されるのだろう。今は不安定な状態だが、三日もすると安定して五十澤乃蒼の妹となる。
「組織とかに狙われることは?」
「ないとは言い切れないが、ただの人間となった今は、重要資料にもならないと言われるだろうな。もっともこれは良識ある組織に限られる。良識のない組織だと、吸魂鬼だとか吸血鬼だとかって理由で捕まえて人体実験、末路は解剖分解だろうな」
「そんな」
「落ち着け。だからこそ、そうならないように俺が良識ある組織に情報提供して、危険性を極限までに下げる。君たちの事は、数人しか知られていないから、なにも心配いらないよ。万一に君やその妹が狙われたとしても俺や組織が秘密裏に護衛する。何も問題ない。一般的普通を過ごせる」
「! でもそれじゃあ、先生は。先生だって狙われる対象ですよね?」
「俺は他の連中と違って、単独行動に長けてる。問題ないよ。それに俺には花咲を起こす仕事がまだ残ってる」
吸血鬼である谷嵜先生は、世間から狙われるだろう。けれど、元から優れた生存能力を持っている谷嵜先生は、単独で行動しても簡単には死なない。
花咲を再びこの世に呼び起こす。その方法は暁家やハウスが調べるだろう。けれど、それにも限界がある。ハウスが無理なら不可能なんてことはない。ハウスが知らないことを調べる事で、何か手掛かりがあると谷嵜先生は考えていた。その事を告げると五十澤は口を開いた。
「先生、無理を承知で言います。僕も連れて行ってください」
「は?」
五十澤は意を決して言う。
自分も花咲を助ける方法を探す旅に連れて行ってと無理を言う。
「僕はかつては吸魂鬼でした。その力はもうないかもしれません。でも! だからこそ、証明できる。僕はゾーンを支配する脅威の吸魂鬼の一人だったんです。その個体が無力化されている事実を知れば、並大抵の吸魂鬼の巡り個体は脅威にはならない。良識ある組織だけじゃない。良識ない人たちにもガツンと言ってやります! だから、連れて行ってください」
「ダメだ」
「どうして!」
「まだ学生だろ」
吸魂鬼が巡り人間になる。見分ける方法は、本人が言わない限り分からない。となれば、言わなければ分からないし、仮に知られても『巡った吸魂鬼にはもう危険性はない』と五十澤が声を大にして言う。
終わりのない堂々巡りを終止符とばかりに谷嵜先生が口を開くが、それでも五十澤は折れる事をしない。
「なら、卒業したら連れて行ってください。僕たちがまだ学生の間は教師をしているんですよね?」
「勝手なこと言うな。良識ないって言ってるだろ」
「僕も良識とかないですから!」
「何言ってんだ」
「声を大にして言います。僕は、人間ではなかった。吸魂鬼って言う怪物だったっていろんなところに言いふらして、ネットにも書き込みます。それがダメなことだとちゃんと教えて、僕を見張っててください」
「脅すな」
「脅してません。提案です。それに谷嵜先生がいなくても以前からある組織なら問題ないでしょう? ゾーンが消えて、僕たちの役目なんてほぼない。確かに巡った吸魂鬼が悪さをしてしまうかもしれないけど、それはゾーンとは関係ない」
「ついていきます。どこへでも、僕も花咲さんを助けたいですから」と五十澤は、はっきりと答えた。
谷嵜先生が言っているのはそう言うことだ。再び嘆きの川に触れてしまうかもしれない。花咲を呼び覚ます方法をこれから探しに行く。その為に多くの経験をする。どれだけ遅くなっても取り戻したいものがある。
「はぁ……」
ガシガシと髪を掻いて、うんざりした顔をする。一度言ったら聞かない五十澤に谷嵜先生はどうしたものかと考えるが、こんなところで押し問答は時間の無駄だと判断した。
「お前が卒業するか、中退するまでは、何もしないでいてやるよ。ただその後は、自己責任の領域だ。俺はお前のペースに合わせない。在学中にも身体を鍛えておけよ」
「! はいっ」
五十澤は谷嵜先生が折れてくれたのだと気づき強く頷いた。
今の五十澤には、特別な力はない。吸魂鬼の力は、ノアが持っていってしまった。
抜け殻同然の五十澤が出来る事なんて何もないが、それでも花咲を助け出したいという気持ちだけは本物だった。正直、律歌を敵に回してしまうのではと内心恐々としているが、それでも花咲を再び現実に連れて来ることが出来たら何もかもうまくいく。
ある者は、日常生活を取り戻すためにリハビリをする。身体が岩のように重くままならない。そうなる前に、どれだけの運動をしていたのか。知りたくとも知る機会が無い。
ある者は、行方不明になった妹を探すために旅をした。日本だけではなく海外にまで足を運んだ。情報を頼りに多くの組織を巡る。方法はなんだって良い。どれだけ罪を重ねても、妹を取り戻すためなら手段など選んでいられなかった。
ある者は、敬愛する先輩に再び会うために奮闘した。多くを学び、身を鍛える。ついて行こうと決めた背中に置いていかれぬようにと躍起になった。
ある者は、自身を慕ってくれた教え子を目覚めさせるため、そして友との約束を果たすために裏世界に身を投じた。どれだけ怨みを向けられても全てを享受する。
ある者は、親兄弟自分自身を取り戻して、失っていた日々を堪能した。家の手伝いを卒なくこなして学問も衰えることなく得られる知識と恩恵を享受する。
ある者は、夢と希望を取り戻して喜色満面だ。応援してくれる人を思い出して、将来目指すものを思い出した。世界が輝いていたことを思い出す。
通行料が返された。五感が戻る者、生き甲斐を見出して、無くしたことを思い出したもの。帰ってきたものだけではない。帰ってこないことを思い出す者もいる。
必ずしも通行料が戻る事を良しと思うこともない。嘆きを思い出す者もいる。
そして、嘆きの川はまたどこかで出現して、またどこかで消える。
五十澤は、無くなる事のない嘆きを少しでも減らすため――なんて大義を掲げるつもりはない。五十澤はただ助けてくれた先輩を今度は自分が助けたいのだと意気込む。
「そう言えば、先生は花咲さんのことどう思っていたんですか? あれだけアタックしてくれた人、まさか気持ちが揺らがないとかないですよね?」
五十澤は、谷嵜先生に尋ねる。
花咲の熱烈な告白の毎日で何も感じられない谷嵜先生は、何を思っていたのか。
「さぁね」
抜け殻のような谷嵜先生でも、芽生える何かは確かにあった。花咲のお陰で人間でいられて、吸血鬼として、壊れることもなかった。
可愛い生徒で恩人で――……。
「そう言うお前は、結局なにが通行料だったんだ?」
部室を出て前を歩く谷嵜先生が不思議そうに尋ねる。ポケットに手を入れて少し丸められた背中。高校教師には見えないその容姿は慣れてしまえば気にならない。
「僕の通行料は――」
―Who are me:完―