第141話 Who are me
嘆きの川の一件が終えて、一週間が経過した。
病院を退院して休校の日々を過ごしていた五十澤の前に現れたのは、意外なことに燈火だった。嬉々として五十澤に告げたのは、「柳が、水泳する!」とビックニュースだった。通行料を取り戻した浅草が水泳への興味を取り戻したのだ。けれど二年のブランクは埋められない。筋力低下はすぐには埋められない。
エースではなくなってしまったが、それでも水泳を続けていたら、近い将来また選手として選ばれるはずだと燈火は我がことのように報告してくれた。
かつての輝きを取り戻すために水泳教室に通い直しているようで、その日は燈火も見学席で見ているのだという。不格好な泳ぎでも泣いて喜んだ。
それだけで五十澤は実感したのだ。通行料を取り戻したのだ。
全て終わったのだと実感した。
休校が終わり、学校に通学すると通学路で、これまた意外な人物に遭遇した。
「元気かのう?」
「! 独弧さん」
同級生のような、そうじゃない雰囲気を持つ独弧が五十澤を待ち伏せていた。
九尾の狐だと自称していたが真偽は定かではない。
「あの、あの時はありがとうございました」
「? なんのことじゃ」
「なんのって……嘆きの川で僕が夢に囚われているときに助けてくれましたよね?」
「助けてなんぞおらん。おぬしが勝手に目を覚ましただけじゃ」
言うと風が吹いた。髪が乱れて目にかかりそうになり押さえて顔をあげるとそこには妖艶な女性がいた。派手な着物を着こなして、右手に煙管を持つその姿は全てを魅了してしまうほどに美しかった。
それが独弧であると気づくにはすぐだ。化けるのをやめて本来の姿を見せた。全てを捧げたくなるほど恐ろしい美しさを目の当たりにする。五十澤が吸魂鬼の残滓でなければ、命が絶えているだろう。
「なんだってよい。わしは、おぬしに別れを言いに来たのじゃ」
「別れ? どこかに行くの?」
「わしを追いかけてきた坊やどもがそろそろこの街に勘付きそうじゃから」
「……?」
言っている意味が理解できずに五十澤は首を傾げるが、独弧はそれ以上語る事をしなかった。ただ学校を辞めるのだと一言告げた。
「おぉ! そうじゃ。わしに会ったこと、わしと関わったことは他言できぬようにした。くれぐれも口を裂くなんてつまらんことはしてくれるなよ?」
「それは……あの、独弧さんの正体は言うなってこと?」
独弧燐は九尾の狐。まさかそんな妖怪のような生き物が三つの谷高校にいたなんてと驚きはするが、校長がカモノハシの時点で驚くのは通り過ぎている。
独弧の事は言わないと約束すると「良い子じゃ」と褒められる。
「あのさ、谷嵜先生のことを知ってたの?」
「知っておったぞ。吸血鬼崩れであることも気づいておったわ」
「どう思った?」
「どう? また可笑しなことを訊くものじゃ」
「だって、妖怪なら」
「どうも思うとらんが、そうじゃのう……しいて言えば、傲慢が過ぎた。人間は人間でしかない。わしらがどう足掻こうと純粋な人間になれんようにのう」
「……邪魔をしなかったのは、興味がないから?」
「そうじゃな。おお、そうじゃ忘れるところじゃった。ほら、受け取れ」
そう言って煙管を吸った後、ふぅっと吐いた。その煙は五十澤の前に来ると大きさを増した。手を出すと煙が徐々に晴れてそこからは、少女が出現する。
それが誰なのか、すぐに分かった。
「茜!?」
完全に煙が晴れるとズシリと重さを宿して五十澤の腕に収まる。
五十澤茜。嘆きの川で見た。偽りの妹がそこにいた。
「ど、どうしてここに……だってこの子は」
「貴様が生み出した、幻覚か? 真にそうであるならば、ここにはおらんじゃろう」
「……じゃあ、僕には本当に妹がいた?」
「言ったじゃろ。それが偶然にも妹という形だったというだけじゃと」
「??」
ますます分からないと言えば「物分かりの悪い小僧じゃのう」と呆れていた。
「おぬしらが吸魂鬼と呼んでおった者どもの残滓。おぬしがいま、人間であるように、その童もまた巡り巡ったということじゃよ」
吸魂鬼が消滅して概念が残る。死後の世界があるか分からないが、それでも巡り巡って五十澤に会いに来た。会いたくて、話したくて、また遊ぶために来た。
独弧から与えられるヒントで茜が何者なのか、やっと理解した五十澤は、腕の中にいる茜を強く抱きしめた。
「よかった。また、会えて……良かった」
言うと茜は抱きしめられた苦しさに目を覚ました。
そして、五十澤だと認識すると「やっと会えた!」と抱きしめ返した。
五十澤茜は、巡った吸魂鬼。五十澤が初めて友だちになろうとした吸魂鬼の残滓。アカツメクサの吸魂鬼だ。
「わしの役目は終わりじゃ、それじゃのう小僧」
満足げな笑みを浮かべて独弧は、不意に余所を見てすぐに五十澤に近づいた。
「わしはもうお暇するが、小僧。せいぜい未練なく残りの余生を過ごすとよい。もう厄介ごとに巻き込まれんようにのう」
そう言って五十澤の横を通り抜ける。茜は「ありがとう! お姉さん!」と元気に言う。
その声を聞き届けて甘い花の香りと煙の匂いを漂わせてまやかしのように消えた。本当に不思議な人だったと五十澤は独弧が何をしに、三つの谷高校に来たのか分からずにいた。
その直後、無数の足音が聞こえた。
「あー、そこの……邪魔するんすけど~」
路地ではなく頭上から聞こえてきた。外壁に立つ金髪の青年が抱き合う二人に目を逸らしながら尋ねる。
「ここらにド派手な着物の女、視なかったすか?」
「えっと、見てないと思う」
「あー、嘘つくのやめてくれね? 俺、嘘はすぐに見破れるんすよ」
「む、むこー! 向こうに行きました! ちらっとしか見てないから、わかんないけど、すごく綺麗な赤い着物の人を見ました!」
独弧は別の方向を指さして言えば、青年は舌打ちをして「あのババァ」と悪態をつくと青年の頭上にだけ雨が降った。ザバァとバケツをひっくり返したような雨がピンポイントで降り、青年を満足に濡らすとパタリと静けさを取り戻した。
「憐様!?」
「ッ……何してるんすか!! まだ近くにいる。すぐに見つけるんすよ!!」
遅れてやってきた黒服たちが濡れている青年を見て言葉を失っているとワナワナと震えて大声で叫ぶと黒服たちは慌てた様子で「ハッ!」と軍隊のように敬礼をした後、来た道を引き返していく。
濡れた髪をかき上げて鋭い眼光を宿して、外壁を飛び跳ねて離れていく。その勢いに圧倒されていた、五十澤と茜は静けさを取り戻した後に顔を見合わせて笑った。
その後、五十澤は学校に茜を連れて行こうと決めた。けれど授業中は教室に入れられない為、旧校舎に足を運ぶと今後は、意外ではない人がいた。
「隠君。どうして、まだ用務員の服着てるの?」
見慣れた用務員姿の暁が旧校舎の昇降口を掃除していた。落ち葉を掃いて、土や泥を追い払っていた。
「あの、もしかしてまだ、隠君の通行料が?」
「いいえ、通行料は戻ってきましたよ。両親も兄さんたちも無事です。そして、俺自身もみんなから思い出してもらえました」
一から築いた関係もそのままに、暁を何事もなかったように接してくる者たち。余りにも滑稽だが、それでも取り戻したのだと安堵していた。
「それじゃあどうして」
「今年で最後ですからね。仕事は最後までやらせてもらっています」
一時的なものだとしても、その仕事は暁を繋ぎ止めていた大切なものだ。今更、通行料を取り戻したから辞めるなんて無責任なことはできない。最後までやらせてくださいと頭を下げたのだ。
もっとも暁を知る者たちが今の暁を見たら驚愕するだろう。どうして用務員なんてしているのか。清掃員なんてしているのか。学校の雑用をしているのかと口々に噂になってしまう。だがそれは、暁自身が罰を犯したことの贖罪なのだと受け入れている。
「それで? その子はなんですか? 貴方はまた問題を連れてきたんじゃないでしょうね?」
怪訝な顔をして暁は尋ねると「ち、違うよ!」と手を振って慌てて口を開いた。
そして、その日やっと五十澤は言いたかったことを口にする。
「あの、僕と同じ。吸魂鬼だったけど巡って人間になった。僕の妹」
「……」
「五十澤茜です!」
「……」
「えっと、隠君?」
「はぁあ……」
暁は深いため息を吐いた。
「吸魂鬼の脅威はないと兄さんたちからも言われています。ですが、こうもコロコロと現れて……規則は!? 決まりはどうなったんですか!? 元吸魂鬼は抹殺対象なのかどうかを教えてくださいよ!」
「わわっ! 落ち着いてよ!」
暁は癇癪を起こしたようで五十澤の両肩を掴んで振りまわす。
「も、もし元吸魂鬼が抹殺対象なら隠君、僕を殺すって事だよ!?」
「うっ……そ、それも、やむを得ないというか、範囲ないです」
「範囲!? 外してよ!」
規則の鬼だった暁にとってこの前代未聞は脳内許容を遥かに超えていた。
「いえ、待ってください。そもそも、かつて吸魂鬼であったジョン君を空想で判定した際に吸魂鬼と出ていた。つまり俺の空想に間違いはなかった」
部長に体調不良だと言われて、間違いだと言われてきたことをまだ根に持っていたようで暁は自身が間違っていないのだと分かれば、意気揚々とし始めるが、五十澤は不意に「約束、遂げたよ」と脈絡もなく告げた。
「前に言ってたよね? 隠君に物申したかったら吸魂鬼を一人を懐柔しろって、懐柔じゃないけど、友だちで、妹を連れてきたよ。多分、規定の範囲内」
和解する前に暁が八つ当たりに言った言葉を覚えていたようで五十澤はいたずらっ子のような表情で言えば、暁は「そんな前のことを」と恥ずかし気に呟いた。
「はいはい。俺の負けですよ。好きにしてくださって結構です」
「いいの?」
「はい。今の俺には吸魂鬼をどうこうする力はない。封じ込めたくても空想は使えないんですからね。約束は約束です。負けを認めます」
事が落ち着いた後、暁は空想を発動しようと思ったがゲートを開くことも出来なかった。五十澤もまた空想が発動できずに、千里眼も白昼夢も視ることが出来なかった。傍らにいる茜も同じように使えないだろう。過程はどうあれ、今はれっきとした人間である。そんな都合がいいことと誰かに言われそうだ。それこそ、目の前にいる暁には「あり得ない」と文句の一つも浴びせられそうだが、本人は両手を上げて降参の意を見せていた。
「ここに来たということは、彼女は旧校舎へ預けたい。そう言うことですよね?」
「うん」
「良いですよ。一応放課後に元吸血鬼部の部員集まる予定です。勿論、貴方も来てくださいね」
茜を旧校舎の部室において、休み時間に見に来ようと約束をする。
茜はなにもかもが物珍しそうに見ている。ノートを数枚渡して、時計の読み方を教えた後「行ってくるね」と言って別れる。
「いってらっしゃい、おにいちゃん」
部室を出ると部屋の外で暁が待っていた。五十澤は深いため息を吐いて天を仰いだ。
「兄妹って良いね」
「……はあ、授業に行きますよ」
何を言っているんだと呆れている暁は、五十澤と共に本校舎に向かう。