第138話 Who are me
五十澤は茫然としていた。瞼の裏で見たのは、ノアの視界。
糸雲と永遠の時を過ごして、永遠に終わらない戦いに興じる姿、そして天理が奥深く闇の中に消えていく光景。
空は快晴で青々と澄んでいた。肺は冷えて、呼吸をするたびに白い息が漏れる。まだ暑さを感じてもいいはずの季節のはずだっただが、その程度ではもう驚くに値しなかった。街の下に亡者の川があるのだから、それに比べたらどれだけの異常気象も、今ならば許容できる気がしたのだ。
遠くからサイレンの音が聞こえる。警察、救急、消防と人命救助をする者たちが無数に現れる。静寂を破る足音。知らない人の声が響き渡る。
五十澤を見つけた救急隊員が駆け寄る。五十澤は身体が痛く起き上がる事が出来ない。肌寒さを感じながら、澄み切った空を見つめるだけだった。
「大丈夫ですか!」と声をかけられて、返事をしようものなら枯れていて、濁った音が漏れた。疲れているのだと今この時理解出来た。担架に乗せられて病院に搬送されたのもすぐの事だった。意識が保てずに瞼が重くなる。眠気に襲われてその欲望に従って目を閉ざした。
嘆きの川の夢を見ることはなかった。あれが、最初で最後の視界共有だったのだろう。ノアが慈悲深くも見せた自分たちの末路。戻ることが出来たが戻らなかった。五十澤に、その人生を預けたのだと知る。
次に目を覚ましたのは、消毒の臭いで満ちた病室だった。廊下を歩いていた看護師がしていた世間話の中に「昏睡状態の人たちが一斉に目を覚ました」と話を聞いた。
備え付けのテレビにも「昏睡状態の人たちが~」「行方不明だった人たちが~」と似たニュースで世間を騒がせていた。病院内はてんやわんやで慌ただしい。一切の兆候もなく目を覚まして、今まで影も形もなかった事件が次から次へと解決したり迷宮入りしたりと混沌としていた。
五十澤が持っていたひび割れた小瓶は、どこにもなかった。最後の時まで肌身離さず持っていたはずの大切な人。尊敬する先輩の魂が具現化したソレは忽然と姿を消した。
――――
三つの谷高校の旧校舎。
元吸血鬼部の部室で谷嵜先生とカモノ校長そして、現と学が今後について話していた。
学校は、三つの谷の地殻変動で、大事を取って休校。そして地殻変動当日に体育教諭が逝去したことで葬式の準備が行われていた。
「ホボ全テノ人ニ通行料ガ戻ッテキタト報告を受ケテイルヨ」
「大まかなことは解決した。だが嘆きの川の存在を多くの組織が認知したことで川を悪用する奴らが出て来るだろう」
「ならば、その仕事は我々が引き受けましょう。ゾーンが消滅してしまった今、特にこれと言って仕事があるわけでもない。求職活動も吝かではないですが、目先に将来的に有利になるようなことがあるなら是非」
「……」
「んな険しい顔すんなって、谷嵜。俺たちも通行料が発生しないってんなら余所の連中と親しくもする」
「ええ、通行料があったことで交流が制限されていましたが、今は生憎とそう言うこともない。必要とあらばこちらで回収した情報を開示しても良い」
「おいおい、弟。それじゃあ俺たちゃ疑わしいみたいじゃねえか。お礼だってことをちゃんと言えよ」
現はゲラゲラと哄笑しながら言う。
「そうですね。三つの谷高校と谷嵜先生には、弟がとてもお世話になりました」
言葉を言い終えると現と学が頭を下げる。暁が通行料として親兄弟。そして自分自身までも消えたことで人々の記憶からなにもかも白紙となった。路頭に迷うことなくスクスクと成長したのは、谷嵜先生が見つけて、カモノ校長が旧校舎に住まわせてくれたことに他ならない。
「気ニスルコトナイサ! ボクタチハ教育者トシテ未来アル子供ヲ保護シタダケダカラネ!」
「そう言ってくれるとこっちも助かるぜ」
「父がこの三年ほど掛かった学費や生活費は当然、お支払すると言っていました。この件に関しましては、後日また別件ということお願いします」
一番下の弟が立ち上がる事が出来たのは、この学校あってこそ、谷嵜先生が運良くも暁を見つける事が出来たからだ。外部との接触を拒絶するハウスに助けを求めても意味がない。そう言ったことも反省点に入れなければ、今後の活動においても問題視されることだろう。
「今後の事に話を移りましょう。我々暁家の個人間の話と日本、および世界の今後は同一視できません。こちらとそちらでは別件です」
「構ワナイヨ」
「ありがとうございます。それでは、通行料がほぼ戻ってきたといいますが、戻ってきていないのはどう言った分類でしょうか?」
「ココニイル。谷嵜先生ノ通行料ダヨ」
「……」
「参考までに訊いても?」
「親友と妻。あとは、他の連中の代わりに譲ったものだろうな」
谷嵜先生の通行料が戻ってきていない。親友。慈愛のノアが戻ってきていない。その代わり、巡って現れた学生の五十澤乃蒼だけが留まっている。
「あの小僧は何も知らないのか?」
「知っているだろうな。思い出しているが、それは記録を視た程度で実体験の想い出じゃない」
「奥様は?」
「俺がゾーンに触れたきっかけとなった。慈愛のノアと会った日でもある。吸魂鬼と関わった以上、その分の代償はデカく着いたんだろ」
「おいおい、淡泊だな。もっと泣いたりしていいんだぜ?」
「泣くという気持ちも無くなったのでしょう。心中お察ししますよ」
「どうも」
人間であり吸血鬼。そんな中途半端な存在をなったことに「これが俺が仕出かしたことへの罰なんだろ」と淡々と答えた。妻が消えたことも、親友が戻らないことも、不思議と驚きはなかった。そして、今まで削ってきた感情も消えて損したこともない。
「花咲零クンハドウナッタノカナ? 五十澤クント綿毛クンガ回収シタッテ言ウ花咲零クンノ魂ハ、君タチニ保護サレタッテキイタケド?」
ひび割れた小瓶と化した魂は入院していた五十澤から回収した。今はハウスの管理下に置かれていた。嘆きの川から戻ってきた魂としてハウスにとっては重要資料として保管されることだろう。
「はい。今現在は、強い思念媒体として仮形態を維持して留まっているようですね。ですが、意識を閉ざしているようでこちらが刺激を与えても反応を見せません」
「乱暴ナコトハシナイデホシイナ」
「誓って、花咲零さんを乱暴に暴こうなんてことはしません。ただ許しが欲しい」
「許し?」
「はい。こういった事象は、ハウスだけでは解明しきれない。なので、そう言うのに詳しい機関に花咲零さんを預けたい」
「信頼デキルノカイ?」
「そう思っています」
「論外だな。信頼できないような所にアイツを向かわせるくらいなら、そのままの方がいい。そのまま兄弟のもとに送れ」
「ですが、それだと意思の疎通も出来ないまま、きっと未来永劫心を閉ざして、世界の終わりを迎えることになります」
「実績ハナイノカイ?」
「僕たちが調べたうえで、ひと月ほど前に浜波市の海に浮かぶ学園人工島が沈みました。その件を善良的に関与しているくらいでしょうか。確かその人工島には、谷嵜さんの息子さんもいたはず。そして、今は貴方と共に暮らしている。貴方の方が詳しいのではないでしょうか?」
「島が沈んで、勉強する場所がないからとうちを使ってるだけだ。家庭環境が複雑な後輩を連れてな」
浜波市に浮かぶ人工島の事故は有名な話であり、事故ではなく意図的に科学者たちが未成年を被験者にしていた。凶悪事件。いまもまだ人工島に行って帰って来ていない子もいると言われている。その事件を解明したのが、事件解決に一枚噛んでいた浜波研究所に預けることを提案していた。多くの研究所を有しているらしいが、詳しいことはわかっていない。
けれど、やっていることは合法だと谷嵜先生の息子は言っていた気がすると記憶の奥底で消えかけていた言葉を思い出した。
「ハウスもその同盟に入る予定です。向こうはゾーンや吸魂鬼の件に興味を抱いていますからね」
「……まるで取引材料だな」
「その意図はないんだがな。不快に思うならやめておくぜ」
「申シ訳ナイネ。花咲クンノ件ハ、ボクタチニトッテモ凄クデリケートナ問題ナンダ。少シ時間ヲクレナイカナ? コチラモ混乱シテイルカラネ」
「勿論です。こちらとしても時間が欲しい」
そう言って話し合いは終わりを告げた。カモノ校長は現と学の二人を連れて学校の校門まで案内をするために旧校舎を出ていった。