第131話 Who are me
「人間とは実に扱いやすいと思わないか? 少しでも揺らいでしまえば、立っていられない」
影に襲われた三人は「ごめんなさい」「赦して」「俺、じゃない」とうわ言のように呟いている。背中を丸めて現実を受け入れられないと、暁は頭を抱えて、綿毛は耳を塞いで、大楽は目を塞いでいた。
「暁、綿毛」
谷嵜先生が二人を呼ぶが返事がない。律歌も大楽に近づくが視界を遮断していた。
「困ったけど、さすが暁家の子だ。どれだけ精神が狂っていても空想がキャンセルされないなんて」
渓谷に張られた結界がいまだ残っている。空想を張った人物が意図して消していないということだ。無理やり砕かれていなければ、暁の意思で空想の有無が決まる。
「暁家だからじゃない。隠だから出来る事だ。あの単細胞の長男がこんな細かいこと出来るわけないだろ」
不出来だと思い込んでいる暁は、「暁隠」として見続けているせいで劣等感を抱いてしまう。この三年、親兄弟を失ってもまだその呪縛からは解放されない。
今も結界を張り続けられているのは、何かを護りたいという強い意思があるからだ。それを自覚させることが三年間無理だった。
「次男も次男で、頭で考えるばかりで実行できない。三男はそのどちらも見て成長してきたはずだろ」
良いところを見て学び、悪いところを見て反省する。
「綿毛。ハウスの信頼を失っても、ハウスの所属であろうとする。お前の目的は、野良とハウスの統一。派閥なんて無くそうとしてたお前のしてることを咎めるやつなんて誰もいないだろ」
信頼を失った。信頼できなくなった。綿毛や暁と言った元ハウス所属だった者たちは、固定観念が根強い。しかし、綿毛は、通行料として信頼が消えた。
ハウスの身内贔屓を除外して、外部との交流して、吸魂鬼の勢力を減らすことを考えていた。勿論、現状でそれは叶っていない。それでもいつか必ずと目的を抱えていることを谷嵜先生は知っていた。
『親兄弟』を失い『ハウスへの信頼』を失い。互いに『帰る家』を失った。
「そんな事をしてなんの意味がある。無駄だよ。谷嵜黒美」
「誰も心の影から抜け出せるわけがない」
「だそうだよ。黒美君。なら、これはどうかな」
天理が谷嵜先生のしていることの無意味さに辟易している。
言葉なんてまやかしで、偽物だ。それらを告げたところで一時の安念を得られるだけ永遠ではない。
律歌は、励ましの言葉もないまま大楽に視線を向ける。
サボってばかりの不出来なモグラの一員。糸雲が連れてきた被害者。失われている事を感じさせない雰囲気で軽薄なその少年は、心の闇をひた隠しにするのが上手だ。それを深く追求するのも時間の無駄で、時間を無限に持つ糸雲しか大楽の素性を知らない。もっとも糸雲の全てを知っているわけではないだろう。
何も知らないのならば、何も知らないなりに目を覚ます方法はある。
「ぎゃっ!」
大楽の顎に靴のつま先が直撃して後ろに吹っ飛ぶ。
追い打ちをかけるように律歌は指を鳴らして音波を大楽に当てる。
「ほら、寝るにはまだ早い。起きる時間だよ。起きないなら悪夢でも見るかい?」
「お、おき、ます」
大楽はべたりとへたり込んで「イタイ」と呟いた。
「うん、やっぱり起こす時は全力の方がいい。夢を見ている時間こそ無駄じゃないかな? 黒美君」
「……」
谷嵜先生はため息を吐いて立ち上がる。吸血鬼部はまだ目を覚ましていない。まだ夢現のような状態だが、悪夢を見ることはなくなった。
「影なんて濃くてなんぼじゃないか。濃ければ濃い程、光が強いってことじゃないかな。ぼくは嫌いじゃないよ。ね、黒美君」
「いちいち、俺に同意を求めて来るな。鬱陶しい」
「勿論、嫌がらせだよ。本当の君に意見を求めているわけじゃない」
いがみ合いながらも視線を天理に向ける。
律歌にとって谷嵜先生は妹を唆した諸悪の根源。生かしてはおけないが今は天理を殺すことが最優先である事実を前に言葉で意地悪をしているのだ。
その事に気づいている谷嵜先生は面倒な奴に目を付けられたとため息が絶えない。
そんな中、背後から殺気を感じ振り返れば、綿毛が谷嵜へ襲い掛かってきた。
「っ……!」
「言っただろう? 人間は扱いやすいと」
怯えた瞳をした綿毛が谷嵜先生を見ている。なにかに怯えて、天理に従わざるを得ない状態になっていた。それが何なのか谷嵜先生には分からない。ただ分かるのは、天理が気に入らない術で操っていることだけだ。
「赤の他人ではない。生徒を傷つけられるのかな?」
「ぼくならやるけど、君はやらないのかな」
「……」
動揺している綿毛は、空想を発動できずに谷嵜先生に襲い掛かる。怪我をさせるわけがないと刀が消滅して綿毛を押さえる。
「やるね~」
目を閉ざして現実を見る事が出来ない大楽が呟いた。見えていないが、視えている。その音が全てを物語っている。器用なことをする大楽もまた律歌に向かって攻撃を仕掛けようとしている右手を左手で押え込んでいた。
少しでも律歌に音波を放ってしまえば、あとが怖いと必死だ。
そして、天理の洗脳は暁にも及ぶ。侵食する影が暁の決意を鈍らせる。歪み始める床。結界が消滅する兆候を感じる。五人まとめて嘆きの川に落ちてしまうことを意味していた。浮遊空想など誰も持っていないこの状況で嘆きの川に落ちれば、戻って来られるのは、一握り。少なくとも高校生たちは無理だろう。
「高みの見物なんていいご身分じゃないか。天理」
「私が手を下すまでもない。殺し合うか、共倒れか、興味深い。もっとも君たちの精神力を甘く見ていたよ。人の影は色濃くなり、視界も不安定になるというのに」
予定外なことは何度も起こっている。今に至るまで順調に事が進んだことはない。それでも天理は楽しくその光景を見ていた。
殺し合いがうまくいかなくとも、暁がその精神を完全に影に飲まれてしまえば、結界は消失して嘆きの川に落ちる。
「止まらないッ。先生」
「……っ」
嫌だと綿毛は表情を歪める。その手を止めたい。攻撃する相手を間違えていると頭ではわかっているのに、谷嵜先生を殺さなければこの恐怖は抜けないのだと頭の中で響いてくるのだ。
壊れた左手が鞭打つ。激痛に綿毛は顔面蒼白になる。痛みを誤魔化すことが出来るはずだというのに何もできない。自分の意思が身体に適応されない。
「……」
「なにか考えでもあるのかい?」
「合わせろ」
「え?」
「暁! 結界を解け!」
谷嵜先生の言葉が終わる刹那、足元の結界が割れた。ガラスの欠片のように散り散りとなり奈落の底に落ちていく。一瞬の浮遊感。律歌は何事かと僅かな疑問の後に自身の空想を発動させた。
それは新形が使っていた空想。背中に翼を生やして大楽を脇に抱える。
顔を上げると天理もまた結界の足場を失い落ちている。けれど、悠々と翼など必要としないままに浮いている。落下を続けている吸血鬼部。
「何を考えているんだい、彼は」
律歌は心底理解できなかった。奈落の底、嘆きの川に落ちることを望むなんてとんだ自殺志願者だと呆れ果てる。
(そうやって、面倒ごとから逃げるのかい。黒美君)
「あー、うるさーい」
大楽が耳鳴りがすると喚いている。天理の幻聴が聞こえているのだろう。
落ちてしまったのなら助け出したいが、生憎と律歌は一人を抱えるのが限界で、一旦と律歌は地上に近づき大楽を下ろした。
「気分が落ち着いたら、入間君に連絡を入れて合流しておいて」
律歌は自身のスマホを差し出して言う。モグラとして活動する用のスマホだとすぐに気づく。大楽は「はぁい」と返事をして耳鳴りを消すために渓谷から離れた。
「やれやれ、結局ぼくが君の相手をすることになってしまったよ」
ばさりと翼を羽ばたかせる。天理の狡猾な笑みを変えることは造作もない。けれど、その次に待っているものがなんであろうと命の危険に晒されることは間違いないだろう。
「吸血鬼部は強制離脱か。拍子抜けだ」
「さあ、それはどうかな。黒美君の考えなんて誰にも分からないさ。このぼくにも理解できない」
(バーテンダーなら何かわかっていたのかもしれないけど、そこまでぼくと彼らの時間は長くない)
ないものねだりをしたところで意味がない。律歌は出来る限りの空想を発動した。どれだけのデメリットを宿そうとこれ以上の被害は許さないと無数の空想を操る。