第125話 Who are me
五十澤乃蒼。それは慈愛のノアが名乗っていた人間としての名前。そして、親友たちからもらった大切なものとして心に刻まれていた。それを取られた。
花咲が五十澤を見つけて現実に連れてきた。その時に五十澤の通行料は発生していない。
吸魂鬼ならば、通行料など必要ないのだ。しかし、五十澤は言う。
自分の通行料は、花咲零だと、吸血鬼部の部長が五十澤の通行料であり、自分は人間であると叫ぶ。神様は騙せないかもしれない。けれど、世間は騙されてくれるはずだ。半年間、人間をやりきっていたのだ。完璧ではないだろう。けれど騙されてくれ。
五十澤の視界はパズルが崩されるように崩壊していく。
そこは、嘆きの川だった。まだ嘆きの川にいたのだ。
独弧の姿はなく五十澤が視ていたのは幻覚の類なのかと狼狽する。
しかし、すぐに五十澤は、人間らしく抗おうと決意する。ラストチャンスかもしれない。これを逃したらもう二度と花咲を取り戻せないかもしれない。決意を、覚悟を五十澤は瞳に宿す。
身体が現実に引かれる感覚に抗う。自分の通行料を取り戻すために、五十澤は嘆きの川の奥底に進む。暁の結界が薄くなり、亀裂が走る。それでも五十澤は花咲を探す。
『もどってきた』
『同情しないで』
『消えろ』
『どうせ生きてる癖に』
『殺してやる』
亡者たちが襲う。結界が徐々に、けれど確実に崩壊の一途をたどっている。此処で結界が崩れてしまえば、五十澤は嘆きの川の一員となるだろう。
吸魂鬼だからと関係ない。五十澤は人間として、大切な人を助けるのだと手を伸ばした。
楽しかった思い出が浮かび上がる。温かい思い出の中で確かにそこには、花咲はいたのだ。楽しいと思っていた気持ちは本物だったはずだ。その笑顔まで偽りなわけがない。
「谷嵜先生が好きだって気持ちだって、本物でしょう!」
星一つ見えない暗闇の中、小さな光が見えた。新形と同じ魂の光。器を持たない花咲ではその概念をとどめておくことは出来ない。
「邪魔するなよ。俺」
「っ!? ノア」
光に触れる寸前にノアが介入してきた。五十澤の手首を掴み触れる事を阻止する。
「どうして戻ってきたんだ? このまま夢を見て、現実を受け入れていたらよかっただろ?」
理解できないと不思議な表情をするノア。
「あんなまやかしの夢で、終わらせないで……花咲さんも一緒にいることが一番に決まってるじゃないか!」
「連れて帰ってどうする? 肉体はもうないんだ。どうする事も出来ない」
「それは……」
魂だけでは存在出来ない。それこそ、吸魂鬼と酷似した存在になり、花咲は人間ですらいられなくなる。
「戻ってきても結果は同じだ。いや、寧ろ悪化している。このまま居続ければ、君は消滅する。彼女のように強い精神力を持っていない」
吸魂鬼だったならば、精神力など必要なく心が無いのだから何も感じない。嘆きすら聞き流してしまう。けれど、五十澤は人間と宣言した。その時から五十澤乃蒼は人間である。感情を持ち、誰かの為に心を痛める事が出来る。嘆きを耳にした瞬間、五十澤の心は嘆きで満ちるだろう。
「ノア、君は何か方法を知っているんじゃないの? どうして教えてくれないの? 全てを平等に愛してくれるなら、花咲さんを生き返らせることだって簡単なはずだろ?」
「生きていることが愛する条件にならない。死して愛されることもある。そして、死んだ者を生き返らせるなんて平等とは言わない。そう決めたのなら俺はその娘を尊重する」
生死に拘るのは人間だけ。五十澤が命に拘ったことで、もう花咲は救えない。
あと少しで花咲の魂に触れる事が出来るのに、ノアが邪魔をする。
「君はどうして、そこまで花咲零に拘るんだ? 新形十虎として接してきたのだから、君が必要なのは新形十虎だろ?」
「ちがう! 確かに知らなかったから、新形さんと呼んでいたけど、僕たちと過ごしたのは紛れもなく花咲さんだから!」
月並みな表現しかできない五十澤だが、それでも助けたいって気持ちは本物だ。
「そうか。なら、花咲零と一緒に嘆きの川で過ごせばいい」
掴まれた手首からノアは暁の結界を呆気なくも破壊した。
ガラスが粉砕するような音と共に光が乱反射する。底知れない闇の中に消えていく。
「っ!?」
五十澤を護る結界が消えて、これ見よがしに亡者が迫って来る。
一番近くにいた亡者が五十澤の腹を通り抜けた。
「あ゛ぁッ!?」
「暁家の小僧が、どれだけ優れた空想を張っても、一度砕けてしまえば、再度張り直すことは困難だ。それこそ、小僧がこちら側に来ない限りは不可能。そのまま沈んで永劫を過ごせばいい」
一人が通り抜けるともう一人、もう一人と亡者が五十澤の内側を殺そうとする。
息苦しさ。頭の中に流れて来る嘆き。
生きていることを嘆いて、死ぬことを嘆いて、こんな世界をと嘆いて、やるせなさに嘆いて、哀傷を深くする。矛盾が思考を埋め尽くす。意識が身体から乖離しようとする。
「亡者は肉体を欲する。生きている温もりを求める。そんなに花咲零と一緒にいたいなら、肉体を捨てて共に落ちたら良い」
「がはっ……」
ひぃひぃと呼吸を荒くする。苦しいばかりで言葉が出てこない。
(わかってるよ。僕が何を言ってもダメだってこと……だけど、それでもっ)
「この身体は僕のだ。誰にも渡さないし譲らない。ノア、君にだって返さない。僕は花咲さんと現実に帰るんだ!」
五十澤の双眸が紫色に変わる。視ている世界が変わる。数秒先の未来。遠く離れた花咲の魂を取り戻す。もう終わりにしたいという花咲には申し訳ないが、後輩の我儘は最後まで付き合ってもらうのだとノアを睨みつける。
「へぇ、結界が無くても留まる事が出来るのか」
「僕だって……」
「なんだ? 吸魂鬼って言うつもりか? 人間と言ったり、吸魂鬼と言ったり、定めなければどちらにも見捨てられることになる」
「……良いよ」
「なに?」
「その方が、都合が良いって言ったんだ!」
五十澤は亡者を振り払った。頭の中に満ちる不平不満。孤独や感傷。
もうどうでも良くなるほど浸食されて蝕んで身体が離れてしまう。けれど、五十澤には目的がある。
「亡者たち、罪深い生者が嘆きの川に落ちてきた。チャンスを不意にするんじゃないよ」
ノアの言葉に従うように亡者が五十澤に迫ると来ることはわかっていた五十澤は亡者の手から逃れて、下に落ちる。
「自ら底に近づこうって? 存在を消す気か」
「僕はただ大切な人を取り戻したいだけだ!」
ノアは理解できないと五十澤を見ていた。
闇の底へと向かう五十澤に追いかける意味もないと見届ける。このまま花咲と共に嘆きの川で生涯を遂げるほかなくなったとノアは冷ややかな瞳を底へ向けた。
「うざいよ、あの子」
「……糸雲骨牌」
嘆きの川で魂の存在を保っていられるその男は、悠々と浮遊しながら星も見えな闇の中を漂っていた。ノアを見つけて、二人の会話を聞いていたのかと楽し気に笑っている。
「助ける助けると言って、結局、何もできない。それでもやろうとする。日進月歩とはよく言った」
「君も嫌いだったはずなのに、結局助けるのか」
「助けない。俺たちは嫌い合う仲だから、ちょっかいをかけるだけだ」
「分からないな。どうしてそんな事をする? 黙って見ていた方が君からしたら有意義なはずだ」
「わかってないな。嫌だって言ってんだ。嫌いな奴が俺と同じ空間にいるの」
嘆きの川に嫌いな人がいる。それだけで嘆くには十分で窮屈になる。糸雲はそれを良しとしてない。
五十澤が嫌いで、五十澤が嘆きの川にいる事が苦痛でならない。それも一種の嘆きなのだろう。けれど、その嘆きを嘆きの川に還元させるつもりはないと糸雲は嬉々と硬質な糸を伸ばした。
「一応、俺の依頼人であり、弟子三号だから。大切にするよ」
「……。全ての時間を奪われた君が、何かを大切にする気持ちがあるなんて驚いた」
「もう失う時間なんてない。時間は無限にある。さあ、無駄遣いしていこう」
糸雲骨牌。通行料は、己の時間。
成長することがなく、衰えることもない。時間は有限と人々が口にする中、糸雲の時間だけが無限に存在する。終わりのない負の連鎖を見続けてきた。死んだ事で糸雲の通行料は取り戻しても意味がない。嘆きの川で永久の戦いを繰り返す。
「異物か」
ノアは察した。嘆きの川に落ちてはいけない者が落ちてきた。嘆きの川に溶けない異物。糸雲はその瞳を以て見て享受してきた。ちょっとやそっとの嘆き程度では糸雲が負けることはない。
「吸魂鬼なら、俺の相手に不足無い」
「……俺とやる気か?」
不思議な表情は変わらず、ノアは何故糸雲と戦わなければならないのか理解できないでいた。嘆きの川にとっての異物であろうとノアには関係ないことなのだが、糸雲がやる気ならば、相手をするのもやぶさかではない。
「仮面の吸魂鬼を殺せる。何度も巡るなら死んでも困らないだろ?」
「死んでも困らないけど、死ぬほどの痛みは感じる」
「だから?」
「言ってみただけだよ」
肩を竦めてノアは糸雲を見る。