第106話 Who are me
バニティと共にゾーンを歩き回る。
浜波、筥宮、三つの谷。様々な街のゾーン、通行人は灰色で、現実を懐かしく思う。
「これはコレハこれは……見たことのある方がいらっしゃるではありませんか! お久しぶりです。心清らかな君」
「っ……!」
見たことがある。バラの吸魂鬼。彼の初めての調査の時に現れて逃げた吸魂鬼だ。
「知り合いだったんですね。知りませんでした」
「ええ、エエ! それはもう! このバラのように情熱的な出会いを果たしまして! ハァイ。そしてここで出会うのも、またエンターテイメント!!」
大袈裟な手振り身振りをするバラの吸魂鬼は、まだ彼が何も知らなかった頃に遭遇した吸魂鬼。
バラの吸魂鬼だけじゃない。頭部を交通標識にしている者や、見慣れた携帯電話の者、バラ以外の花もいる。身近なものから、見慣れないものまで頭部を持つ吸魂鬼たちが群がっている。けれど、その中のどこにもアカツメクサの吸魂鬼はいない。
「ねえ、貴方は……どうして、バラなの」
バラの吸魂鬼は不可解な質問だと首を傾げる。
「バラは人間にとって、とても美しいですからねエ! この世のものとは思えぬほど」
美しい。ほしいと思ったから頭部をバラの花にした。吸魂鬼の頭部は、魅了されたものを模倣する。バラの花びら、棘、茎、蔓。それらすべてを模倣して、吸魂のキスをする。
「……おや? おやオヤおや! もしや、我が同胞をお持ちのようですねエ! これはこれは、なんと僥倖!! 美しい花々の末に磨かれた朽ちた存在!」
「これのこと?」
彼は押し花の栞を取り出す。アカツメクサの吸魂鬼の残骸。
「死骸を持ち歩く趣味がおありとは! またマタなんとまぁ特殊なことでございましょう!」
「え……」
バラの吸魂鬼は彼の手から栞を取りひらひらと弄ぶ。余りに乱暴に扱い為、彼は「やめて」とか細く言う。
「そんなことをしたら、破けちゃう」
手を伸ばして取り返そうと躍起になる。もうボロボロになって、すぐにでも破れてしまうかもしれないというのに、乱暴に扱えば、アカツメクサが零れ落ちてしまう。
それでもバラの吸魂鬼は、彼に嫌がらせをする。まるで悪童のように、ひらりはらりと栞を手放しては、乱暴に掴んだ。
くしゃり。
「あ……」
握り潰されてしまった。
「アカツメクサ。所詮は雑草ですねエ。だからこそ! 枯れて敗れてしまうのですよ! アア、ああ! なんと悲しいことか!」
「やめて……やめろ!」
「ッ……」
「っ!?」
彼の瞳が紫色に変色して、バラの吸魂鬼が次に動く先を見据える。
ひらりと舞うアカツメクサの栞を優しく取り、胸に当てる。
「僕の友だちを乱暴に扱うな」
「!? これはコレハこれは……」
バラの吸魂鬼は突然鳴りを静めた。そして、その場で跪いた。
「大変失礼いたしました! まさか、マスター君であるとは、気づかず数々の無礼お許しくださいまし。はぁい」
その豹変ぶりに戸惑っていると様子を見ていたバニティが言う。
「彼らは、私たちが生み出した矮小の個体です。私たちが世話をしなければ、生きる事もままならななった存在。私たちと違って、吸魂することすら危うい。貴方のことを人間と思っていても不思議ではないでしょう」
バニティは彼を完全な人間だとして接したことはない。他の仮面の吸魂鬼も彼をただの人間ではなく中途半端な気配を漂わせている生き物だと判断しているだろう。
彼がかつて仮面の吸魂鬼であったこと、慈愛のノアであることを知らないバラの吸魂鬼は彼を揶揄していたが、結果彼を怒らせて、その気に当たった。
「次は喧嘩を売る相手は気を付けてくださいね」
さ、行きましょうか。とバニティは彼を連れて歩き出す。
生きた心地がしなかっただろう。生きていることが幸運とまで思っているかもしれない。もしも相手が慈愛ではなく傲慢や憤怒だったら目も当てられない。
バラの吸魂鬼と戯れて暫くしてから、彼は気になっていたことを尋ねる。
「ねえ、吸魂鬼は何度もでも戻って来るんだよね?」
「はい。そうですよ」
「悋気がいないのはどうして?」
慈愛のノアが死んだ。そして、彼は巡ってきた。それなのに悋気はいない。アカツメクサの吸魂鬼も戻ってこない。彼はバラの吸魂鬼に壊されそうになった栞を見つめる。
「その方は、わかりませんが、悋気はもう戻らないでしょう」
「戻らない?」
「ええ、完全に破壊されてしまいましたから、強力な空想をぶつけられてしまえば、吸魂鬼は存在を保てなくなる。ジュードの話によれば、吸血鬼部の顧問の方が吸血鬼であると聞いています。その方が悋気を殺したとなれば、戻って来る事はありません。我々を本来の意味で殺すことが出来るのは吸血鬼だけです。ふふっ、つまり貴方がその気になれば、私たちを殺せると言うことです」
「そ、そんな!」
「ええ、わかっていますよ。貴方はそんなこと決してしないと信じています」
楽し気に笑う声を漏らしてゲートを開いた。現実に帰るわけではなくゾーン越えするのだ。
「……バニティはどうして、僕の味方をするの?」
「味方? いいえ、味方はしていませんよ」
「なら、どうして僕を手伝ってくれるの? 僕がしようとしてることはもうわかってるんでしょう?」
「わかっていますよ。嘆きの川を破壊するんでしょう?」
わかっているのなら、どうしてそれを他の吸魂鬼に伝えないのか分からない。嘆きの川を破壊するなんて吸魂鬼にとっては死活問題になる。
「見てるのは好きですからね。ノアと始祖様が殺し合っているときも私はその場にいました。ノアが谷嵜黒美と現実に行くところも見ていました。ずっと見ていました」
「……! そこにいたのに、止めなかった。見ていた、だけなの? どうして」
仮面越しでどういう表情をしているかはわからない。わからないのに悲しそうに微笑んでいるようだった。その仮面に意味なんてない。×マークの穴がこちらを見ている。その奥で蠢くソレは攻撃的意思を感じない。
「家族でしたが、他の家族よりも深い絆があったと私は思っています。ノアと私、使命やあり方は違えど否定する気など互いにない。虚飾の私を慈愛の彼が赦し、慈愛の彼を虚飾の私が認める。そう言う関係でしたからね」
「辛くない?」
「そう言う気持ちは、生憎とありません。ですが……嘘偽りの私でも、空しいと思うことはあります。この仮面の奥のように何もないのでしょう。私はいま、楽しい。貴方が戻ってきた気がして、そして、私と二人、また何かできる気がして、気持ちが高揚しています。これが模倣されたものでも構わない程に、私は貴方に期待しているのです」
バニティとノアは、互いに本音を語れるほどの間柄、同じ親から生み落とされたが、家族の愛など吸魂鬼にはない。常に同等で、同族意識さえあれば問題ない。特殊の中の異質が二人いた。
慈愛のノア、虚飾のバニティは、親友だ。
そして、ノアは親友の手を振り払って、人間側についた。
怒りを宿さず、取り繕うしかない。それ以外に方法を知らず、出来ない。均衡を保つのに精いっぱいでそれ以上はできない。
「見ていろ。始祖様の言葉でした」
ゾーン越えする。そこは、繁華街の中心だった。
大通り。人でごった返す。すれ違う人たちは、ぶつからないように避ける。ゾーン越えした彼らに気づかないまま通り抜けていく。
「此処は?」
「三つの谷の中心です。三つに枝分かれする谷の中心です」
三つの谷とは、かつては谷だった場所を埋めて出来た街。随分と昔で現代人は知らない。その場所の名前がそれに由来していることを知らない。
その谷を埋めた理由。その亀裂が消えた理由を誰も知らない。
「……! なにこれ」
彼は気づいた。自身が立っている場所。自分の足元で何かが蠢いている。
生き物が閉じ込められているような、そこに立っているのも気味が悪い。
「やはり此処でしたか」
「……知ってたの? それなら、僕を連れて来なくても」
「いいえ、私は予感を得るだけです。確証は得られません。言ったでしょう? 嘆きの川を見つけ出すのは、二人必要なのだと……貴方が完璧な吸血鬼であったならば、もっと明確な気配を感じてくれるのでしょうけど、その様子ならそんなことをせずとも、もう準備は上々なのでしょう」
彼の足元に嘆きの川がある。谷底に潜む怪物がいる。出たい出たいと今にも這い上がってきそうだ。バニティ自身も確かに感じる。吸魂鬼と疑似吸血鬼が同じ場所に立っている。
現世に後悔を抱く人間が死んだあとに流れ着く場所、恨みつらみ憎しみが集まってしまう場所。川の中には、多くの亡者や亡霊が蔓延り、現実世界に戻ろうとしている。生者が一度でも嘆きの川に落ちてしまえば、現実に戻って来るのは至難の業。
「始祖様を見つけた後は、嘆きの川を破壊する事をお手伝いしますよ」
「いいの?」
「勿論。始祖様に会うだけでいいと言ったでしょう? あの方がこの世に戻ろうと、戻るまいと私には関係のないことです。重要なのは、貴方だ」
「ありがとう、バニティ」
「お礼は早いですよ。まずは、貴方が嘆きの川を浮上させるために力をつけなければ」
「頑張るよ」
人間でも、吸魂鬼でも、吸血鬼でもない。
前世は思い出せず、ただ覚えているのは、確かに吸魂鬼だったこと、慈愛のノアだったことを思い出せたくらいのものだ。どう言う力があったとか、どういう生活をしていたかなんて、まるで覚えていない。
それを思い出したのも、きっとノアが声を彼にかけたからだろう。もっと早い段階ならば、彼はこんな苦悩に苛まれることもなかったはずだが、言っても仕方がない。
谷嵜先生と新形よりも先に嘆きの川を見つけて破壊する。そうすれば、二人は人間を辞めずに済む。その為に彼は此処にいる。そうすることで通行料も取り戻せるかもしれない。羽人を助けられると信じて疑わない。
吸魂鬼が死んで、巡った。そして、彼が生まれた五分前の記憶。
彼の世界は、きっとあの電車から始まっていたのだろう。親戚たちも植え付けられた記憶。両親が事故で死んだなんてこともない。
彼はどこにもいなかった。彼がいなくなっても問題ないなら、彼がやるしかない。
自惚れでも、それが実行出来て、全て解決するなら問題ない。
「それでは、一度死んでみましょうか」
「え……」
バニティは、簡単に言って、その手を彼の腹部に突き刺した。穴の開いた容器のように血が溢れる。赤い血が流れる。
「大丈夫ですよ。本当に死んだりしませんから、貴方を吸魂鬼狩りから隠すためです。特にバーテンダーには、運任せな空想のようですが、運が良ければ貴方をすぐに見つけられてしまう。目隠し程度にしかなりませんが、暫く眠ってもらいます」
佐藤先生の空想は、すべてが運に左右される。けれど、ぞろ目や奇数が出れば、佐藤先生が望む結果が得られる。羽人も、その空想で見つける事が出来た。
「隠すの他にも理由はありますよ。人間である貴方は死んだと認識させることです」
バニティの声が遠くなり、その場に蹲る。赤い血だまりの中、彼は倒れた。痛みなんて感じない。感じるのはただ熱量。暑い。だが、寒い。視界が不安定でままならない。
仰向けに動かされて彼は灰色の空を見つめる。本当に死なないだろうか。次もちゃんと目を覚ますことが出来るのかと不安になる。
(死にたくない)
重たい瞼が上がらない。抵抗も無駄に終え、彼は目を閉ざした。