恋人を侮辱されたと戦争を吹っかけたら返り討ちにあった話
その日、タウロス帝国は隣国のルバード王国へ侵攻を開始した。
特に険悪でもなく、むしろそれなりに良い関係を築けていたはずの王国への、宣戦布告も無しの突然の軍事侵攻。
攻め込まれた王国の者らは勿論、話を聞いた近隣諸国の人々も皆が皆、困惑と混乱に陥った。
軍事大国であるタウロス帝国と小国であるルバード王国の国力差は歴然。
王国はなすすべもなくすり潰されて終わりだろう、皆が皆、憐れみと諦観を抱きながら事の趨勢を見守った。
しかし、この理不尽な侵攻に徹底抗戦を唱えたルバード王国は思いの外粘り強い奮闘を続けた。
帝国軍に国境を破られた最初こそ押され気味だったものの、即座に敗走した国境軍や兵団の残存勢力をまとめ上げ、防衛線を作り上げて堅牢に死守。
その間に国王の指揮の下、王子や筆頭騎士たちを中心に軍を取りまとめ、防衛線の兵たちと合流させて反撃を開始、帝国軍の侵攻の勢いを完全に止めて見せた。
加えて、王国は兼ねてより帝国と領土問題や貿易摩擦で対立していた国々、また帝国に植民地にされ迫害されていた原住民族と同盟を結成。
その時にはもう戦況は一転しており、力強い味方を経た王国は侵略者への反撃を開始した。
最初こそ優勢だった帝国軍も少しずつ確実に奪った領土を奪い返され、遂には国境向こうまで押し返される。
そして現在、場所は王国侵攻の際に最初に設けられた帝国軍の本陣。そこでは同盟軍の奇襲により至る場所からいくつもの煙が上がっていた。
燃え盛る天幕に悲鳴と共に逃げ惑う帝国兵、既に趨勢は決したと言ってもいい。
「ここまでか……」
その有様を見て呟いたのは、満身創痍で片膝をつく金髪の美丈夫。
彼こそは此度の侵攻を企てた張本人にして、侵攻軍の総司令、タウロス帝国の第二皇子であるグリル・タウロス皇太子だ。
「よもや我が帝国がかような小国に敗北を喫するとはな……」
己を囲む王国兵たちに剣を突きつけられながら、グリルは悔し気に呻く。
すると王国兵たちを割って、甲冑を纏った一人の青年がグリルの所へと歩いてきた。
ルバード王国の第一王子フレア・ルバードである。
「こうして顔を合わせるのは三年前の会談以来かな、グリル殿下」
「フレア……!」
憎々し気に睨みつけてくるグリルに対し、フレアは臆さずにただ静かに見つめ返しながら、内心ではようやく戦いが終わったことに安堵していた。
既に両陣営共に甚大な被害を被っている。
帝国も大多数の者らはこれ以上の戦火は望んではいない。
ならば後は、捕虜にしたこの皇子の身柄の引き渡しと引き換えに帝国と交渉して他の軍も撤退させる。それで戦争は終結する。
――しかしその前に、フレアはどうしても彼に聞きたい事があった。
「……グリル皇太子、一つ問おうか。なぜ帝国はこのような無茶な侵攻を開始したんだ?」
元々、今回の戦争はグリルが周囲の反対を押し切って、強引に軍を動かして我が王国領に攻め入ったのが始めりであった。
何が彼をそこまでさせたのか、せっかく張本人が目の前にいるのだ。直に聞いて
フレアの問いに対し、グリルは何を今更と嘲笑うように鼻で笑った。
「ハッ! 理由など決まっているだろう。……貴様らが私の愛しき者を侮辱したからだ!」
「愛しき者?」
フレアは首を傾げる。
「惚けるな! 半年前に貴様が一方的な婚約破棄を行い国外追放した聖女グレースだ!」
グリルの言葉に、フレア王子は半年前に起きた出来事を思い返す。
そのままグリルは堰を切ったように溜め込んでいた憤りをフレアへとぶちまける。
「知らぬとは言わせぬぞ。貴様らは彼女を守護結界を守る聖女として散々に酷使しておいて、彼女が力を使い果たした途端に手の平を返し、用済みとばかりに冤罪を着せ王国から国外追放した。私が庇護していなければどうなっていたことか……。このような蛮行、到底許される事ではないぞ!」
グリルの話を黙って聞いていたフレア。
だが、全てを聞き終えた彼は疲労と苛立ちを込めた大きな溜息をつく。
「つまり貴殿は女一人のために沢山の人間を巻き込んでこんな大掛かりな戦争を起こしたと?」
「女一人だと⁉ 貴様、我が最愛の女性を軽んじるのは許さぬぞ!」
己の動機を明かしても、何の情動も見せずに、ただただ呆れたような様子を見せるフレアに、再びグリルの激情に火が灯った。
「貴様に私と彼女の絆が理解できるわけがない! かつて、この国の王宮に滞在していた時、私は彼女と出会ったのだ。平民ながら幼い頃よりその素質を見出され、王宮へと召し抱えられ、懸命に結界を張るための魔法の鍛錬へと勤しんでいた幼き銀髪の少女。互いの憩いの間に私たちは共に過ごした。彼女は大好きなこの国のために尽くしたいと嬉しそうに言っていたよ。彼女との日々は私の大切な思い出の一つだった。しかし、そんなお前たちは身を粉にして尽くし続けた彼女を裏切ったそうではないか!」
そういえば当時面識こそなかったが、グリルは留学生として数年ほど王国へと滞在していたという話をフレアは思い出した。
「彼女は涙ながらに語ってくれたぞ。毎日毎日魔力を使い果たすまで酷使され、魔力が戻らずに結界を張れなくなった途端に婚約者であった貴様からも婚約破棄と共に冷たい目で罵倒を受けたと。……おお、なんと可哀想なグレース! だから私は誓ったのだ。彼女をこんな目に合わせた貴様ら王国に相応の報いを受けさせると!」
熱に浮かされたように語るグリルを冷ややかな目でフレアは見る。
訪れた他国にて見かけた聖女に淡い思いを抱く帝国の貴公子が時を経て添い遂げる。――なるほど、ここだけ聞くと美談にもなりそうな話だ。しかし、巻き込まれた方はたまったものではない。
「――そのような私情で国を動かし、数多の民草を巻き込むまでの騒乱を引き起こしたのかい?」
全て聞き終えたフレア王子はこれまでとは違う、明確な怒りを身に宿してグリルを睨み返した。
「そうだ。それの何が悪い? 全ては我が愛のためである!」
しかし、グリルは悪びれずに言ってのける。
彼からすれば、今回の戦で犠牲になった人々のことなど、その愛とやらの前ではどうでもよい存在なのだろう。
元より王族としての育ったがゆえの傲慢だったのか、愛に狂ってここまで歪んでしまったのか、それともその両方が最悪な形で噛み合ってしまったのか。
なんにせよ、これ以上の会話は不毛かもしれない。
……しかし、それでもだ。
せめて最後に彼の勘違いだけでも正しておこうとフレアは思った。
「グリル殿下、一つだけ訂正しておきたい事がある」
「……?」
「そもそも、我がルバード王国は国防の要であり、国のために尽くしてくれた聖女殿にそのような狼藉を働いた覚えはないよ」
「ハッ! 何を言い出すかと思えば……デタラメを言うな!」
「デタラメなものか。それ以前に我が王国は聖女殿を追放などしていないし、なにより彼女は健在だ」
「は……?」
呆気に取られるグリルが何かを言う前に、フレアは隣に立っていた鎧騎士に目配せすると、その騎士は兜を脱ぐ。
現れた素顔は輝くような銀色の髪をたなびかせた美女であった。
グリルは愕然と目を見開く。
「なん……だと……?」
「お久しゅうございます、グリル殿下。聖女グレースです」
ありえない、とグリルは何度も首を振る。
しかし、目の前にいる女は、まさしくあの頃に会った少女が成長した姿そのものだった。
「そんな……まさか……いやしかし……」
「懐かしいです。殿下との思い出は私の中でも記憶に残っています。鍛錬でへとへとになった私の所へ調理場からこっそり菓子を拝借して持ってきてくれたり、どこからか王宮に迷い込んできた野良犬に追い回され、転んで泣いていた私を懸命にあやしてくれたりもしましたね」
それはまさしく二人しか知らない秘密であった。
思わず涙が零れ出るグリル。
間違いない。まさしく目の前の彼女は本物のグレースだ。
「い、いや待て! 君がいるというならば、なぜ帝国は攻めることができたのだ⁉ 本物の聖女がいるならば結界を張っておけばよかったではないか!」
「聖女の結界だって全ての外敵を防ぐというそんな便利な代物じゃないんだよ。魔物を避けさせるぐらいさ。無論それだけでも充分に役立つものだけど。……どうやら外では随分と尾ひれがついてしまったようだね」
彼女に代わって答えたフレアの説明に、今度こそグリルは言葉を失う。
「そ、それでは私が再会した彼女は……」
「もしや、その彼女とはこういう女ではありませんでしたか?」
グレースは懐から取り出した似顔絵をグリルに見せる。
すると、彼は今そこに描かれた女性を食い入るように見た。
「ま、間違いない。髪の色以外瓜二つだ……。彼女は一体……」
「その女の本当の名はニトゥラ・ゼゲン子爵令嬢。かつて自分こそが真の聖女だと名乗って、フレア殿下に近付いてきた女です。当然ながら詳しく調べた所、防護魔法を使って偽装した偽者だと明らかになり、家ぐるみで協力してた子爵家の取り潰しと共に投獄されていたのですが、その後に脱走。そのまま行方知れずとなっていました」
つまりこのニトゥラという女は脱走した後、帝国へと亡命して、グレースを名乗って皇太子である自分に近付いたということか。
グリルは持っていた腕をワナワナと震わせる。
「貴殿やグレースの関係も調べていたのだろうね。しかし、まさか帝国をけしかけてくるとは……」
「いえ、単に目の前の彼の独断かもしれません」
「どちらにせよ、こちらからすれば迷惑どころの話ではないよ」
フレアは忌々しそうに呟き、グレースも拳を握る。
王家に不敬を働こうとした詐欺師の女を一人逃がしたことで、まさかここまでの事態に発展しようとは思ってなかった。悔やんでも悔やみきれない。
一方でグリルの方はいまだに現実を受け入れられないようだった。
「違う……、嘘だ……、それでは私は何のために……」
既にグリルに最初のような剣幕はない。
愛すべき者のために戦い、そして散るという陶酔が切れたのだろう。
「話は終わりだ。事が済んだらさっさと帝国に送り返そう。それまで牢で大人しくしてくれ」
「ま、待て! 私も被害者だぞ!」
「今さらどの口で言うんだい? ――連れて行け!」
ちなみに帝国の方でも、第二皇子を始めとした反戦派とは以前から密かに連絡を取っており、グリルの扱いも含めた今回の事後処理に関しての打診も予め貰っておいた。
今回の敗戦の責を負わせて、グリルの失墜は確実だろう。
被害を考えれば温いかもしれないが、現在後継問題による政争が血みどろレベルで激しくなっている帝国であれば、立場や後ろ盾も失った王子の末路など見えている。
それを察しているグリルは顔を真っ青にして、縋るようにグレースの方を見る。
「ま、待ってくれ! グレース! 私を覚えているか⁉ ずっと君に会いたかった。助けてくれ!」
「……確かに幼き日にあなたと共に過ごした日々は今でも私の心に残っております」
「おお、では……」
「ですが申し訳ありません。今の貴方は理不尽な理由で我が国に攻め入ってきた侵略者です。情けをかける道理はありません」
「そ、そんな……。私はずっとお前を思い続けていたというのに!」
訴えるようなグリルの言葉に、グレースはその目に愛する祖国を踏み躙られた怒りを込めながら問いかける。
「ならば私も尋ねます。あなたが帝国へと帰った後、私は貴方に何度も手紙を送り続けたのは覚えていますか?」
「は……、あ……」
思わずグリルは言葉を詰まらせ、グレースは察する。
「それが答えです、殿下」
別れる際に、手紙を送ろうと互いに約束した。
しかし、グレースはいくら送っても返事は返ってこない。
やがて、一通だけが返ってきた。
『互いに立場あるのだから自重したまえ。はっきり言って迷惑だ』
綴られていたのは明確な拒絶の言葉。
結局の所、彼からすれば、可愛らしい子供がいたから遊んでやっただけなのだろう。
寂しくはあったが、彼の言う通りだとグレースは納得し、手紙を送るのをやめて、楽しかった思い出を己の心の中へとしまった。
「先程は随分と美談のように語っていましたが、結局は偽物の私におだてられ、かつてあった出来事を自分に都合の良い夢想に膨らませた。……違いますか?」
おそらくは結界を張る聖女がいなくなったのを好機と、王国を手に入れたという功績を手に入れ、次期皇帝の立場を盤石にしようという魂胆だったのだろう。
そのために戦争の動機にして、結果的に戦争に負けても、その負けた際の言い訳として自身の思い出を使ってきた。
仮に無自覚だとしても、それは国を守る聖女としても、女としても許しがたかった。
「さようなら、殿下」
「グレース……、うわぁああああああああ!」
グレースから失望と怒りによる明確な拒絶を受けたグリルは、絶望の叫びをあげながら連れて行かれる。
そんな彼の姿を見て、フレアは僅かばかりの同情を覚えるが、すぐに思考を切り替える。
王国の復興作業、今回協力してくれた国々と共に帝国との交渉と停戦条約の締結、なにより元凶であるニトゥラ元子爵令嬢も捕縛。
やるべき事はまだまだ残っている。
「聖女殿、もう少しだけ忙しくなるよ」
「はい」
フレアの言葉にグレースは頷いた。
その後、停戦条約を結んだ帝国は王国からの条件として、ニトゥラを捕縛しようとするも既に彼女は城から姿をくらませていた。
以後、各国より指名手配とされたニトゥラだが、彼女が捕らえれたのは戦争が終結して半年後、さらに西にある商会連合の幹部である商会長に媚薬を盛ろうとした所を私兵の用心棒に取り押さえられた。
グリルは廃嫡となって、爵位を与えられると共に辺境の僻地に領主として送られたが、その数年後に謎の変死を遂げた。
流行り病とされているが、詳しい経緯はいまだに明かされていない。