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「その嫌がらせは、きっと堂雍宮の朱波儀様の侍女たちの仕業だわねえ」
朝餉を片す道すがら、鈴鈴は女官達の井戸端会議に加わっていた。
「碌山州の高官の家から後宮に入られた朱波儀様は、特に気位のお高い方でね。新しく現れた妃嬪様や周囲の侍女に対して、ここぞとばかりに自身の威厳を植え付けようとなさるのよ」
今朝嫌がらせをけしかけた首謀者は、蘭蘭と同位である六儀の一つ『波儀』を賜っているらしい。
「波儀というと六儀の中で一番の位と伺っております。さらに上位の妃の位に御座す方もいらっしゃるのですか?」
「そうね。とはいっても、四妃のうちの二妃の席しか埋まっていないけれど」
道脇に寄ると、女官の一人が小枝で地面に字を記しはじめた。
「今埋まっている妃の位は、貴妃と賢妃。最も皇后の席に近いといわれているのが、貴妃であらせられる紅貴妃様ね。代々中央政治にも影響力を持つ文官のご家系で、先代皇帝も先々代皇帝も重用したと聞いているわ」
さらさらと地面に書かれた文字の横に、美しい女性の画がこれまた手際よく描かれていく。
簡略化されているものの、ふわりと波立つ長い髪に甘やかな色香漂う目元が印象的だ。
「もう一人が、碧賢妃様ね。中央と長年交流も深い搗安州の上官家系から宮入りされた方よ」
再びさらさらと地面に書かれた文字の横に、先ほどとは違った人物の絵が描かれていく。
後頭部に髪をまとめ、きりっと凜々しい目鼻立ちがはっきりとした美人だ。
「現皇帝様がたって早六月、こんなに美しい妃がいてもなお、いまだに妃嬪への『お手つき』がないと聞くわ」
長い歴史のなか、後宮に足が向かない皇帝も零ではなかったと聞く。
理由は様々で、執務の多忙、後宮そのものへの嫌悪、男色……結局は当事者に聞くより他あるまい。
それでも何とか皇帝の興味を引こうと、周囲の者たちは日夜画策してはあれこれ手を講じているのだという。
「つまり、今の時点で後宮の誰かが手つきになる可能性はないに等しい、と」
「まあ、そのごく僅かな機会があったとしても、所詮は貴妃様か賢妃様お二人のもの。下位妃嬪の方々にご縁が生じることはないでしょうね」
「なるほど」
いい傾向だ。
蘭蘭は、琳国と碌山州との和睦の象徴として後宮入りの白羽の矢が立った。
あの眩しい美しさに気付かれることなく、類い稀なる優秀さに気取られることなく、慎ましく大人しく過ごしていれば、今後も皇帝の寝室に呼ばれることはあるまい。
鈴鈴のここに来た真の目的。
それはひとえに、姉の蘭蘭を無事に故郷の村へ――啓真の元へ戻すことだ。
後宮に入った『后妃』が外の世界へ出ることは、容易なことではない。
例えば、重篤な病、皇帝の死、その他重大な政治的判断がされたときの、ごく少ない例外の時のみだ。
対して、皇帝の妻という地位にない『女官』ならば、外の世界に戻ることは比較的容易である。
故郷に戻り、愛する男性と結婚し、幸せに暮らすという夢も叶えることができるのだ。
それを知ったときから、鈴鈴の中に描かれたある作戦があった。
ならば侍女として同行した鈴鈴が、后妃の蘭蘭と密かに入れ替わればいい、と。
幸い、蘭蘭が皇帝の手つきになる可能性は零に近い。
機を見て鈴鈴が帰郷を申し出、直前に二人が入れ替わり、蘭蘭は無事故郷へと帰っていく。
これにて鈴鈴が長年胸をときめかせてきた二人の恋慕が、晴れて成就するのだ。
「……完璧な脚本ね」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何も」
いまだ賑わう女官たちの輪から抜け出すと、鈴鈴はふんふんと鼻を鳴らしながら屋敷への道を戻っていった。
とはいえ、だ。
いくら皇帝の手つきにならないようにとはいえど、敬愛する蘭蘭が周囲から不必要に見くびられるのは我慢ならない。
「お手つきにならないよう注意しつつ、娘娘の美しさと素晴らしさを最大限周囲に知らしめる。この塩梅が重要ね」
鈴鈴は一人頷きながら、御花園脇の通りを抜けていく。
御花園は、妃嬪たちが暮らす後宮の中央に位置する巨大庭園だ。
手入れの行き届いた花や木々が植わり、中央には自由に憩いの時を過ごせる広大な建物が佇む。
さすが、大国の美女を集わせた後宮といったところだろう。
「ん? なんだろ、この臭い」
清々しい朝の空気に、徐々に入り交じってきたのは鼻を刺すような異臭だった。
御花園脇の道を曲がると、何やら数名の女官が集っている。
「どうかされたんですか? 何か妙な臭いがするような……」
「は、はい。それがその」
「うわあ。これはまた、酷い有様ですね」
人だかりの先にあった光景に、鈴鈴は思わず顔をしかめる。
そこには、腐食した野菜や肉の残骸や変色した汁物などの残飯が、通路を遮るようにばらまかれていた。
数日おかれてた残飯のようで、放たれる異臭もかなり強烈だ。
「はあ。実はこういうことも、そう珍しいことではないのです……」
「そうなのですか?」
蘭蘭の問いかけに、女官の一人が困り顔で頷く。
つまり、口に出すのははばかれる相手の日常茶飯事の嫌がらせということか。
腐食が始まっている残飯は広範囲に渡り、着物の裾を守りながら飛び越えるのは難しい。
とはいえこのままでは、彼女たちの業務にも支障が出るだろう。
「致し方がありませんね」
「えっ!」
蘭蘭は自らまとっていた薄黄土色の着物から帯を抜き、道の端にぽいっと放り投げた。
白い襦裙一枚の姿になった鈴鈴に、集っていた女官からはひゃっと甲高い悲鳴が上がる。
襦裙の裾をさらに膝まで巻き上げ手早く縛った鈴鈴は、躊躇う様子もなく残飯の小池に進み出た。
「きゃあっ! お御足がっ」
「大丈夫です。見たところただの残飯で、洗えば綺麗になりますから」
もしかしたら臭いが多少残るかもしれないが、あとで足湯に浸かればいい。
「そこのお嬢さん。私の肩に左手を置いてください。右手はこちらの手に」
「え? あ、こ、こうでしょうか……、ひゃあっ!」
いうとおりに手を添えた女官の一人の身体を、鈴鈴は軽やかに持ち上げた。
ふわりと宙を移動した女官は弧を描き、無事に向こう岸へと着地する。
「お上手でしたね。さあどうぞ、あなたの仕事場にお急ぎください」
「あっ、ありがとうございました……!」
にこっと微笑んだ鈴鈴に、女官は顔を真っ赤にして礼を言った。
その様子を見ていた他の女官たちも、我先にと鈴鈴の手を取ろうとする。
「次、私もぜひお願いいたします!」
「きゃあっ! すごい!」
「空を飛んでるみたいー!」
「はい。お手をどうぞ、お嬢さん」
鈴鈴は、幼いころから演舞の黒子役として働いてきた。この程度の距離、女性一人を運ぶことは訳ない。
一人一人丁寧に残飯の池の向こうへ渡らせていると、「あらあら」と道の向こうから甘ったるい声が響いた。
「不快な香りがすると思って参りましたら……これはいったいどういうことですの?」
そこに並び立つ三人の女官に、橋渡しを待つ者たちは一様に強張った顔をする。
朱色の着物に身を包んだ彼女らは、早朝鈴鈴に虫たちをけしかけた女官三人衆だった。
「なんて嫌な臭いでしょう。下位屋敷へ続く道ではこのような汚物も平気で生じるのですねえ」
「そこに立つ襦裙姿のあなたは、今朝もお会いした新入りの侍女様ではございませんか」
「早朝から珍妙な踊りをされ、加えて汚物まみれで力仕事だなんて。近年稀に見る働き者のお嬢さんですこと」
ほほほ、と高らかに嗤う姿に、そこにいる誰もが感情を押し込めて俯いている。
そんななか鈴鈴は、女官たちの橋渡しを続けつつ、爽水から聞いたある世間話を思い返していた。
「数日前の夕餉には皇帝様の計らいのもと、各々の出身地に合わせた郷土料理が振る舞われたと小耳に挟みました」
蘭蘭の静かな物言いに、三人衆の嘲笑が止まった。
「この国は広大です。州毎に特色豊かな料理法が根付いております。今私が足を沈めている食材は、水辺のない内地の食料。その証拠に、撒かれた残飯には魚や藻類の形跡が一切見受けられません」
「な、内地出身の女子なんて、ここにはいくらでもっ」
「こちらも小耳に挟んだのですが、皆さんがお仕えしている朱波儀様はその郷里でのみ飼育が盛んなとある牛肉がお好きだそうですね。その骨は付け根から先に駆けて二股に分かれている、至極珍しい形状だと聞いたことがございます」
流ちょうに語られた鈴鈴に言葉に、侍女三人衆があからさまに顔色を変える。
鈴鈴の足元に広がる残飯の中には、二股に分かれた珍しい形状の骨がいくつも浮かんでいた。
「さあさ。こんな処にいつまでもいらっしゃいますと、この嫌な臭いが付いてしまいます。どうぞ主様の元へとお戻りください」
主様の元へ、と殊更強調し、鈴鈴は三人衆ににこりと笑みを向ける。
その笑みに含んだ毒に気付いたらしい三人衆は、なにやら捨て台詞を吐きつつそそくさと退却していった。
次の瞬間、その場にいた女官たちからわっと大きな歓声が沸いた。
……やってしまった。
「鈴鈴、聞いたわ。廊下で身動きできなくなっていた人たちを助けてあげたんですって?」
「娘娘……」
結局あのあと鈴鈴は、道に撒かれた残飯の掃除まで綺麗に済ませた。
まとわりついた残飯の臭いは、薬草を煎じて入れた足浴みで何とか落とし切れたと思う。
「鈴鈴らしいわね。困った人を放っておけないところ、小さいころから変わっていないわ」
「しかし今考えれば、もう少し穏便に振る舞うことはいくらでもできました。それができなかったのは、全て私の心の幼稚さが原因です……!」
恐らく件の三人は、気位の高いことで有名な朱波儀お付きの侍女だ。
妙な火種を生まないためにも、あの場は犯人を突き詰めることなく、素知らぬ振りを通せばよかったのだ。
「私一人ならば、どのような誹りも受けます。残飯にも何にでも身体を浸してみせます。それでも、もしも何者かの汚い策略が娘娘にまで伸びたらと考えると……!」
「顔を上げなさい。鈴鈴」
凜とした蘭蘭の声に、鈴鈴は情けなく垂れていた頭をぱっと持ち上げた。
すぐ目の前には、慈愛に満ちた蘭蘭の柔らかな微笑みがある。
「随分と見くびられたものねえ。あなたが侍女として追いかけてきた女子は、野蛮な手を使う者たちに簡単にひれ伏すような、何もできない貧弱なお嬢様だとでも?」
「いいえっ、決してそのようなことは!」
「そうよね。私がどれだけの強情な性格かということは、あなたが一番身近で見てきて知っているはずよ」
そう言って、蘭蘭は茶目っ気たっぷりな笑顔を向ける。
幼いころの演舞巡業の際、蘭蘭は酷い高熱を出したことがあった。
周囲の大人も気付かないなか、蘭蘭はいつものような美しい舞で観衆を沸かせた。
ついに最終日の舞台直前で昏倒するまで、一度たりとも弱音を吐かなかった。
その日の舞台は、妹の鈴鈴が代役として初めて演舞を披露することになった。
大盛況のうちに幕引きされたことは至極僥倖だったが、全ては蘭蘭の並々ならぬ舞台への想いを継いだからこそ成しえたことだ。
「もしも何かございましたら、すぐに私に申しつけくださいね。私が必ず、娘娘をお守り致しますので!」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ。鈴鈴」
頼りにしている。
蘭蘭から贈られる言葉の中で、鈴鈴が一番嬉しいものだ。
「さあて。遅れてしまった朝の支度を始めなければ。越してきたばかりの屋敷ですので、まずは今日中に全室の清掃を……」
そのとき、建谷宮に訪問者を知らせる戸を叩く音が鳴った。
「本日、上位女官らと諍いごとについて尋ねたいことがある」
戸を開けると、岩のように厳つい人物が立ち塞がっていた。
上には、暗い藍色の褂子を重ねた灰色の袍子。下は黒色のズボンを纏い、頭には宦官を現す丸い帽子を被っている。
新参といえ妃嬪相手に敬語を省いた物言いは、どうやらかなり高い位の宦官のようだ。
「ご機嫌麗しゅうございます。この屋敷の主、春婉儀でございます」
「太監の落雁と申す。今朝起こった女官同士の諍いごとについての調査に参った。そなたにも詳しく内容を確認したい」
「お待ちください! 娘娘は、今回のことにまったく関わりございません!」
前に進み出た蘭蘭を、鈴鈴が慌てて押し戻そうとする。
しかしながら、この後宮での鈴鈴は蘭蘭の侍女。
鈴鈴の不祥事は、主である蘭蘭の監督不行き届きとされるのが当然だ。
ああ。恐れていたことがこんなに早く起こるなんて。
必ずお守りすると決意を新たにした矢先に!
「関わりの有無も、全てはこちらで判断する。謂われなき疑いを避けたいならば、今から尋ねることに嘘偽りなく答えることだ」
「……承知致しました」
その後二人は、無表情な宦官に粛々と質問を投げかけられた。
鈴鈴も蘭蘭も、問われたことは各々真実のみを明瞭に答えていく。
曖昧なことは元々好きではないし、これ以上余計な疑惑を蘭蘭に浴びせることだけは避けたかった。
「――では、今朝の屋敷通じの道中で起こった出来事は、以下の通りで相違ないな」
最終的な内容の確認書押印のため、蘭蘭は落雁という宦官に連れられ一度屋敷をあとにした。
こちらを安心させるように微笑むと、蘭蘭は塀の向こうへ消える。
「娘娘……っ」
蘭蘭を巻き込んでしまった自身の不甲斐なさに、鈴鈴はぎゅっと衣を強く握りしめた。
「心配せずとも、お前の主はすぐに戻る」
凜としたその声は、聞き覚えのあるものだった。
ぱっと顔を上げると、屋敷の門前に寄りかかるようにこちらを見る一人の宦官の姿がある。
「あなた様は」
「また見えたな。薄黄土色の衣の娘」
もはや鈴鈴相手に取り繕うつもりはないらしい。
今鈴鈴らを事情聴取していた者と同じく、灰色と濃藍色の上衣と黒の包衣。お椀を思わせる半球体の帽子を頭に乗せた、一見宦官を思わせる人物。
しかしその実、じわりと滲んだ薄赤色の瞳は、今朝も対峙したばかりだ。
この後宮はもとより国も手中に収める、皇帝――白楊に他ならなかった。
「形式上必要な手続きを取るだけだ。落雁は我の古くからの重鎮。顔と頭は固いがそのぶん信用は置ける」
敷地内へと進み出た白楊は、鈴鈴の目と鼻の先で歩みを止める。
その間、鈴鈴は視線を落としたまま動かなかった。
「他の女官からの個別聴取も取った。此度のことでは、お前が自分らを庇ってくれたという答えが相次いでいた。騒ぎの原因が朱波儀の侍女らの仕業だと看破したということも」
「……そうでしたか」
「もとより、件の侍女らの素行問題は常々報告が上がっていた。そろそろ手綱を締める頃合いだと考えていた矢先、お前がいい具合に立ち回ってくれた。感謝する」
「勿体ないお言葉にございます」
「……なんだ。落ち込んでいるのか?」
「落ち込みますよっ! 当然じゃありませんか!!」
しれっと問われた白楊の言葉に、鈴鈴は思わず声を荒げた。
「私はっ! 両親を亡くしてからずっとずっと娘娘に支えられてきたのです! 時に姉として、時に母として、娘娘は私のために必死に身を粉にしてくださいました! 私ももう大人です! 一刻も早く、今度は私が娘娘のお力になり支える側になろうと決めたのです! それなのに……それ、なのに……!」
「――鈴鈴」
明瞭に呼ばれた名に、はっと息を呑む。
気付けば鈴鈴の身体は、青色の上衣をまとった腕の中に包み込まれていた。
見た目よりも逞しい体躯に、届く熱い温もり。そして、見上げるほどの位置にある端正な顔。
いつの間に溢れていた涙が、押しつけられた白楊の胸元にじわりと染みこんでいく。
「その一途なまでの強い想い、お主の姉上にも届いておらぬはずがない」
「……、あ……」
「大切な者に慕い頼られることは、姉上にとっても大きな心の支えになっていたはずだ。……俺自身、そうやって徐々に、皇帝としての自信を築いていった」
「……白楊様……」
広い胸板に触れている鈴鈴の耳に、優しく脈打つ心の鼓動が聞き取れる。
「まさか白楊様にこのような慰めの言葉を賜るなど、畏れ多いことです。他の女官の方々の目に触れたら、次は屋敷前に何を捲き散らかされるかわかりませんね」
「減らず口を叩くくらいには落ち着いたか」
「ふふ。はい。本当に、ありがとうございます」
そっと胸に手を付くと、鈴鈴は白楊から身を離した。
異性にこんな風に抱きしめられたことがなかったからか、心臓の鼓動が先ほどからどきどきと忙しない。
「お前は、随分と春婉儀を敬愛しているのだな」
「はい。それは勿論。なにせ娘娘は、我が郷随一の清らかな心の持ち主ですから。その上慈しみ深く、教養もあり、さらには仙女を見紛うほどの美しさも兼ね備えております。娘娘こそ、この天に愛されながら生まれた存在に相違ございません!」
「ほう」
「……あ。で、でも。この後宮には他にも国中から集められた美しい方々が揃っておられますよね。ですのでその、白楊様がわざわざご興味を持たれる必要もないかと……!」
まずい。いつもの調子で、蘭蘭を褒め称えてしまった。
皇帝である白楊に、必要以上に蘭蘭の素晴らしさを知らしめてはならない。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「え?」
そのときだった。
バサリ、と。
庭の上空に広がる青空から、聞き覚えのある羽音が届いた。
見上げた先には、陽の光を遮るように広げられた美しいふたつの両翼。
郷で別れを告げることができなかった、大好きな大好きな友達。
一等懇意にしていた、翡翠色に瞬く美しい羽色だ。
「――翡翠!?」
「きゃきゃうっ!」
目をまん丸にする鈴鈴を見留めたそれは、一気に急降下してくる。
手のひらに収まるほどの翡翠色の小鳥は、勢いよく鈴鈴の胸に飛び込んだ。
「翡翠……どうしてこんなところにっ」
『リンリン! さがした! さがした!』
駄々をこねる子どものように、腕に抱かれた翡翠はバタバタと羽音を立てた。
「森の仲間たちから聞いているでしょう? 私は娘娘とともに後宮に向かうことになったと。だから私、あなたにもきちんとお別れを言いたかったのに、あなたってば一月以上顔を見せてくれなくて」
『おわかれ、や! や! ワタシまだリンリンとおわかれしてない!』
「翡翠……」
どうやら、鈴鈴との別れを受け容れたくなくて、森や山を逃げ回っていたらしい。
ピイピイ鳴きむせぶ翡翠に、うっかり目の奥がじんと熱くなってしまう。
しかし次の瞬間、鈴鈴は目の前に佇む人物の存在を思い出した。
ぱっと顔を上げると、白楊は鈴鈴の方を物珍しげに凝視している。
「は、白楊様……えっと、この子はその」
「翡翠色の羽の鳥、か。かような見目の鳥は初めて見る。何やらお前に抗議しているように見えるが?」
「……私の故郷の周囲は最奥地故、他州では目にしない生き物が数多く棲んでいます。この子は私の、子どものころからの親友なのです」
「なるほど」
ひとまず納得したらしい白楊に、鈴鈴はほっと胸を撫で下ろした。皇帝に虚言を告げるのは大罪だが、ここは致し方がない。
鈴鈴だけが知る翡翠の『秘密』。
鈴鈴と会話できるのみではない、隠れた『正体』。
それを知られれば、どんな仕打ちを受けるかは想像もできないからだ。
「翡翠。あなたはこの後宮に棲むことはできないのよ。会いに来てくれて本当に嬉しいけれど、やっぱり故郷の森に……」
「まあ待て。遠い山岳高原から海際の中央都市まで来ることは、いくら空を飛んだとしても相当の苦労があったはず。しばらくはここで休ませてやっても罰は当たるまい」
「え……、よろしいのですか?」
「ただし、条件が一つある。今朝、お前が御花園で披露していた舞をもう一度見てみたい」
「……へ?」
白楊はそう言うと、真っ直ぐ鈴鈴に視線を向けた。
「お前のあの舞は美しかった。今も俺の脳裏にちらついて、何やら離れようとせぬ」
「……っ」
面と向かって告げられた褒め言葉に、鈴鈴はじわりと頬に熱が集まるのを感じる。
「あの舞を今ここで披露してくれるならば、この者のしばしの滞在は不問に付そう」
『リンリン! おねがい! おねがい!』
「わ、わ、わかりました! じゃあ、ほんの少しだけ」
改めて催促されると気恥ずかしいが、皇帝の命は絶対だ。
す、と静かに呼吸を整えると、鈴鈴は心の中の雑念を払い、地面を強く蹴った。
助走なくくるりと身を翻し、薄黄土色の裾が優雅にたなびきながら円を描いていく。
「お前は身軽だな。此度の騒動を鎮めた際の、細やかな知識も興味深い」
「家業の巡業で国内をあちこち廻っていたので、地域の特色は自然と頭に入ってくるだけですよ」
一度この動きを始めると、意識せずとも身体が次の動きへ流れていく。
皇帝からの問いに耳を傾けながら、鈴鈴は幾度も周囲の空を切った。
「碌山州の演舞……過去に一度だけ、目にしたことがあるな。まだ若い女子が、舞台途中で繰り返し女装と男装を繰り返していた」
「わ! 左様にございますか! 恐らく題目は『妖獣妃伝』にございますね! この上なく素晴らしい演舞でしたでしょう!?」
幼いころから、敬愛する蘭蘭が心血を注いで演じてきた作品だ。天上人といえど印象が残らないはずがない。
舞い続けながらも、鈴鈴は得意満面に食いついた。
「『妖獣妃伝』は、遙か昔より故郷の村に伝わる妖らの逸話を元にした演舞劇です。主演の妖獣妃を演じるには、それこそ並大抵の努力では成しえないのです!」
「お前が、その主演だったのか」
「ふふ、まさか。私は裏方です。演じていたのは私の」
「私の?」
「……昔からの友人ですが今は村を出てどこにいるのかもわかりません顔も名も覚えておりません」
「……ほう?」
馬鹿正直に「私の姉上」と告げそうになったところを、鈴鈴はすんでのところで呑み込んだ。
お手つき、駄目、絶対。だ。
「俺がその演舞を目にしたのは、七年前の黒水州だ。あのとき目にした少女は複数の役割を生き生きとこなしていた。とても美しかったな」
「そうでしたか! 七年前の黒水州……」
あれ、何だろう。
七年前の黒水州の演舞。その当時の記憶に、何か引っかかるものがあった。
ただ一度蘭蘭が昏倒したあの時も、七年前の黒水州ではなかっただろうか。
「あのころの俺は、皇太子として中央に戻るよう求められていた。でも俺は子どもながらに葛藤していた。皇太子という巨大な冠名が恐ろしかったのだ。俺という小さな存在など、その冠名の大きさに覆われ、消えてなくなってしまうのではないかと」
語る白楊の目は、まるで遠き日の自分を眺めているようだった。
「あの『妖獣妃』は、どのような立場や姿形でも構うことなく、ただその時をいきいきと生きていた。その生き様を見て決心したのだ。俺も立場や姿形にとらわれることなく、己の信じる道を行くと。そのためには皇帝として冷酷な指示も下すし、他人に化けて情報収集も躊躇なくする」
「白楊様」
「鈴鈴。あの時の妖獣妃は……」
舞いつつも徐々に記憶を蘇らせていく鈴鈴に、白楊が再度何か言いかける。
そのとき、通りの向こうから何者かの気配が届いた。
「鈴鈴。お待たせ。ただ今帰りました」
「わっ! 娘娘!」
待ち望んでいた蘭蘭の帰還に、鈴鈴は舞の続きも忘れて駆け出す。
「ご無事で何よりです! 酷い仕打ちは受けませんでしたか……!?」
「ええ、ええ。大丈夫よ。落雁さんがとても丁寧に案内してくださったもの」
「落雁さん、娘娘を丁重に扱ってくださったこと、心より感謝申し上げます……!」
「いえ。これが其の御役目故」
態度の堅苦しさはさておき、蘭蘭へ向けられるある種の線引きはしっかり成されているようだ。
「落雁。戻るぞ」
「はっ」
「あ」
後ろを振り返るのと同時に、白楊が鈴鈴の横を通り抜けていく。
なんだろう。微かに垣間見た横顔が、何やら機嫌を損ねていたような。
「……この度はご足労をおかけ致しました! 心より感謝申し上げます……!」
思わず張り上げた声は、淑女には少々幼すぎただろうか。
それでも伝えたかった感謝の意を、改めて遠ざかる背に告げる。
するとその歩みは止まり、白楊はこちらを振り返った。形のいい唇が、声なき声を象る。
また、逢いにくる——と。
「あらあら。鈴鈴ってば、もしかして今の宦官さまと仲良くなったのかしら?」
「そ、そういうわけじゃ。ただ、色々と嬉しいお言葉をかけていただいただけですっ」
「そうなの? あの宦官さんのお名前は?」
「……聞きそびれました」
蘭蘭は、あの宦官が皇帝本人とは気付かなかったらしい。
本人の了承を得ずに正体を明かすことは憚られて、鈴鈴は久方ぶりに蘭蘭に小さな嘘を吐いた。
今度は一体どんな装いで現れるつもりだろう。
そんな思いを抱きながら、鈴鈴は蘭蘭に先立って屋敷の扉を開いた。




