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新緑が眩しいほど溢れるこの光景も、これが見納めだろう。
琳国碌山州の西端に属する鈴鈴の故郷は、山岳地帯の麓に位置している。
開墾の中枢地域からやや離れたところにあるためか、隣接する森は今でも動植物がのびのびと息づき、村人たちとの繋がりも濃い。
生まれ故郷に通じる一本道の途中で、鈴鈴は集った森の仲間達に笑顔を向けた。
「あの子は……やっぱり最後まで、姿を見せてくれなかったね」
小さく零した鈴鈴の言葉に、木々に並んでいた小鳥たちが一斉にしょんぼりする。
「仕方がないよね。私が自分でここを離れると決めて、あの子の心を傷つけたんだもの」
それでも、この決意だけは揺るがない。
自分自身の意志で、この運命を受け容れたのだから。
「私、しっかり自分のお役目を果たしてくるよ! それじゃあ、行ってきます……!」
郷へ駆けだした鈴鈴に、動物たちが後押しするように愛らしい鳴き声を送ってくれる。
坂道を下っていくと、すぐに見えてくるのは生まれ育った村。
そこには数日前から、山間の村には似つかわしくない、豪奢な装いの馬車が留まっていた。
六月ほど前、先帝が崩御し、現皇帝が立った。
結果、政策の見直しや官僚の編纂はもとより、新帝の世継ぎを担う後宮も新たに構成されることとなる。
先帝の頃に領土の一つとして組み込まれた鈴鈴らの村だが、后妃候補が立つのは初めてのことだ。
「鈴鈴ったら。またお気に入りの森に行っていたの?」
「娘娘!」
丘の途中に顔を覗かせた人物に、鈴鈴は勢いよく抱きついた。
鈴鈴と一歳違いの姉、蘭蘭だ。鈴鈴は『娘娘』と呼んでいる。
柔和な微笑みと、風にたなびく長く艶やかな髪。
鮮やかな彩りの着物も優美に着こなす姿は、本物の天女かと見紛うほどの麗人だ。
彼女こそ、新後宮へ送られることとなった后妃候補その人である。
「娘娘、もう後宮入りの準備は終えられたのですか?」
「ええ。つつがなく終わったわ。あとは出立の時間を待つのみね」
「……啓真と、お二人でお話する機会は?」
小声の問いかけに、蘭蘭は寂しそうに首を振る。
「これから皇帝様へ娶られる身分だもの。そんなことをしては、啓真に要らぬ迷惑を掛けるわ」
「そんなことはありません! ずっと昔から、お二人は心通わせてこられたではありませんか!」
声を潜ませながらも、鈴鈴は蘭蘭の手を握り訴える。
啓真は、二人の従兄弟にあたる。
二人が両親を亡くしてからは本物の兄姉ように時を過ごし、喜びも悲しみも味わってきた。
啓真と蘭蘭が惹かれあっていると最初に気付いたのは、何を隠そう鈴鈴だ。
近い将来二人が夫婦となり幸せを育む姿を、ずっとずっと夢見ていたというのに――。
「出立前の見送りには来てくれるはずよ。その時に、しっかり最後の挨拶を交わすわ」
「そんなものでは足りません! 他の誰の邪魔もない場所で、二人がしっかり想いを分かち合うための舞台と時間が必要です……!」
とはいえ、今から二人を密かに引き合わせるのは難しい。
迎えの馬車を引き連れていた宦官が、時折蘭蘭の動向を窺っているのだ。
これから宮入りを控えた后妃候補に、万が一が起きてはならないということだろう。
ならば――后妃候補でなければ、良いのでは?
「娘娘! ちょっとこちらへ!」
「鈴鈴っ?」
蘭蘭の手を引き、鈴鈴は道脇の草むらの中へ入っていった。
慌てた様子でこちらを追う宦官の気配が届くが、ここは鈴鈴の庭のようなものだ。振り切ることは造作もない。
そして少しの間を置くと、何事もなかったかのように蘭蘭と鈴鈴はともに丘を下ってきた。
道の先には、ほっと胸をなで下ろした様子の宦官が見える。
「后妃候補ではなく『それに同行する侍女』ならば……出立前に誰と二人きりで会おうと、咎められることはありませんよね?」
鈴鈴はこそっと蘭蘭に耳打ちし、悪戯っぽく笑った。
敬愛する姉を、権力と欲望が渦巻くと噂の後宮に一人で向かわせるわけにはいかない。
蘭蘭の後宮入りが決まったとき、鈴鈴はすぐさま侍女としての同行を願い出た。
結果、鈴鈴も本日をもって、この村から離れることになっている。
今鈴鈴の隣には、地味な薄黄土色の着物をまとう蘭蘭がいた。さらりと流れていた長い髪も、今は頭上で一つのお団子にまとめられている。
いずれも、先ほどまでの鈴鈴と瓜二つだ。
「もう。あなたはいつも本当に、大胆なことばかり思いつくのね。鈴鈴」
「当然のことです。愛する娘娘のためですから」
もとより、姿形のよく似た姉妹だ。
着物と髪型を交換しているだなんて、遠巻きから監視するだけの余所者に気付かれるはずもない。
「……ありがとう! 行ってきます!」
鈴鈴の着物をふわりとたなびかせ、蘭蘭は元気に丘を駆け下りていった。
その力溢れる所作は、先ほどまでの穏やかで理性的な淑女とはかけ離れている。
「さすが、かの名俳優號儀南の再来と呼び声高い、春蘭蘭ね」
ふふんと得意げに鼻を鳴らし、鈴鈴は笑顔で見送る。
この村は、古くから伝わる伝統的な演舞を習わしとしてきた。
全国各地を不定期に巡行する『碌山演舞』の評判は根強い。
中でも若く美しい蘭蘭が舞台に立つや否や、どの州でも四方から歓声が巻き起こるのだ。
数え切れないほどの役柄を演じてきた蘭蘭にとって、妹になりきり周囲を欺くことは造作もないことだ。
「娘娘、啓真。どうか諦めないで、心を強く持ってくださいね」
丘に残った鈴鈴は、眼下に広がる生まれ故郷をじっと目に焼き付ける。
「大好きな二人の恋路が成就するまでの『大舞台』は、私が必ずや守り抜いてみせますから……!」
その謀は、蘭蘭の後宮入りが決まったその日から密かに始まっていた。
宦官が案内する馬車で、足かけ七日。
辿りついた国家の中枢紫禁城を前に、鈴鈴たちはともに目を見張った。
演舞巡行で各地の歴史的建造物を多く目にしてきた二人だが、だからこそ、目の前の建物の壮大さや造形の細やかさが嫌でも理解できる。
巨大な午門のあとに続いた長い道を過ぎ、ようやく鈴鈴達が落ち着いたのは程よい広さの屋敷だった。
「蘭蘭様、鈴鈴様。長らくの道のりを大変お疲れさまでございました。私、今後蘭蘭様の屋敷に仕えさせていただきます、爽水と申します」
「ありがとう。挨拶をさせてほしいから、どうぞ頭を上げてくださいな」
「はっ」
柔らかな蘭蘭の促しに、爽水という少年がそっと頭を上げる。
蘭蘭の歳は十八、鈴鈴は十七になるが、この少年は恐らく十四くらいだろうか。
妃候補の屋敷仕えに男は採用されない。全ては女か、性を切り落とした宦官だけだ。
「碌山州から参りました、蘭蘭と申します。こちらは妹で侍女として参りました、鈴鈴です。よろしくお願いしますね、爽水」
「は、はい! こちらこそ……!」
ふわりと柔らかな笑みをたたえた蘭蘭に、爽水はぽぽぽっと頬を赤らめた。
蘭蘭は、そこらの美女とは一線を画した美女だ。当然の反応だろう。
「こちらが今後蘭蘭様のお住まいとなるお屋敷にございます。西六宮に属するお屋敷で、名を『建谷宮』と呼ばれます」
「ありがとうございます。手入れの行き届かれた、とても素敵な建物ですね」
「はい。それだけ皇帝様が、蘭蘭様にお心配りをされている証かと」
妃たちにとって、与えられる建物の位置は非常に重要だ。西から東へ、皇帝が御座す紫禁城から近ければ近いほどに、寵愛と位の高い証しになる。
現皇帝の後宮は先代より位の扱いが引き継がれているという。
妃たちの頂点に君臨する皇后。
その下に、四人の妃である貴妃、淑妃、賢妃、徳妃。
さらに下に、六儀、四美人、七才人と位分けされるらしい。
「こちらは皇帝様より賜られました茉莉花茶でございます。蘭蘭様にぜひ労いの気持ちをとのことでございます」
「皇帝様から。なんとも細やかなお気遣いですね」
「それはもう! 数日前の夕餉には、皇帝様のご指示のもと、各々の妃嬪様ご出身地の郷土料理も手配されておりました。皆様大層喜びでしたよ」
嬉しそうに話しながら、爽水は慣れた様子で急須に茶葉を入れ、用意された湯を注いでいく。
用いられるのは、銀製の茶器だ。毒が入れられた際に変色する性質があるため、危険から身を守る際に重宝される。
改めて、『そういう世界』に来たのだと実感する。
「では、僭越ながらこの爽水が毒味役を」
「あ。それなら私が」
「え? あっ」
爽水が淹れた茶をすっと手にすると、鈴鈴は迷いなく喉に注ぎ込んだ。
瞬間、ふわりと豊かな薫りが腔内を満たし、自然と瞬きが緩やかになる。
「わあ、とても美味しいお茶ですね。ささ、娘娘もどうぞお召し上がりください」
「もう、鈴鈴ってば」
「はあ……鈴鈴様は、至極勇敢な御方なのですね」
驚きに目を見開いたあと、爽水が二人に向かってそっと言葉を潜めた。
「お二人をいたずらに怖がらせるつもりはございませんが……この後宮は、権力が全てという性格がございます。中にはその、倫理の外の考えの方もいらっしゃいます。妬み誹りは日常茶飯事、行き過ぎた嫌がらせや、毒の混入も珍しいことではございません」
「そうなのねえ。大変だわ」
「……娘娘、ご自分が今まさにその渦中にいるということを理解しておられますか?」
柔らかな態度を崩さない蘭蘭に、鈴鈴がぴしゃりと突っ込みを入れる。
「ですが、ご安心ください! この爽水は、そのような理不尽な危機からお二人をお守りするのがお役目! 毒味役も、調査諜報も、命じられたことは全て尽力させていただきます故!」
「……ああ、ごめんなさい。先ほどの私は、あなたのお役目を横取りしてしまったのね」
いわんとすることを理解し、鈴鈴はそっと爽水に向き直った。
「ならば爽水、私からも意思表示を。私は妹という立場から惰性的にここへ赴いたのではありません。全てはこの娘娘――蘭蘭様の身をこの身をもってお守りするため」
「え?」
きょとんと目を丸くする爽水に、鈴鈴は笑顔を向けた。
「だから、あなたのお役目を私にも同等に果たさせてほしいの。主をお守りする同志として、ともに頑張りましょうね!」
「は、はい! 承知いたしました……!」
再び頬を赤らめながら頷いた爽水に、鈴鈴は嬉しそうに頷き、蘭蘭は困ったように微笑んでいた。
その後設けられた謁見の場で、蘭蘭は正式に六儀である『婉儀』の地位を賜った。
国境付近に位置する碌山州の重要性を見て、至極妥当なところだろう。
「皇帝様、想像以上に素敵な方だったわね。鈴鈴」
「娘娘の美しさに比べれば、霞む程度でしたけれどね」
「もう。またそんなことを言って」
確かに、初めて目にしたその人は想像以上に若く、美しかった。
しかし薄朱色の瞳がこちらに向けられるや否や、鈴鈴は素早く顔を伏せた。必要以上に顔を覚えられたら、鈴鈴が構想する『今後』に差し障る。
屋敷に戻り、寝支度を整えた蘭蘭の髪に櫛を通す。すると、髪の隙間から僅かに垣間見えた悲しげな表情に気付いた。
「っ、娘娘」
「大丈夫よ。ごめんなさい。ここまで来たのだもの。覚悟を決めなければならないわ。私はもう……皇帝様の妻になったのだから」
顔を伏せていても小刻みに伝わる涙の気配に、鈴鈴はぎゅっと口元を締めた。
蘭蘭は涙で目尻を光らせながら鈴鈴に寄り添い、いつの間にか眠りに就いた。
故郷の長の長女として育てられた蘭蘭は、周囲の期待に応えるために様々な努力をしてきた。
そのなかで唯一心の拠り所となっていたのが、従兄弟の啓真だ。
それが、ふってわいた後宮の新設によって引き離されてしまうだなんて。
「大丈夫。絶対に私が、娘娘をこの檻の外に出してみせますからね」
まつげに光る雫をのせた蘭蘭を見つめ、鈴鈴はそっと窓の向こうに浮かぶ月明かりを見た。
翌朝。
屋敷からほど近くに広がる御花園の隅に、しゅ、しゅと空を割く音が響いていた。
規則正しい音とともに小さく届くのは、鈴鈴の吐息だ。
額には薄く汗を滲ませ、四肢がまるで疾風のように辺りに踊り回る。それは故郷で古来から伝承される、演舞の基本動作だった。
万が一蘭蘭が舞台に立てないときには代役に立てるよう、日頃から鍛錬は怠らない。
そんな想いから始まった、幼いころから続く朝の習慣だ。
「ふー……、ありがとうございました」
誰に告げるわけでもなく、両手を胸の前に合わせるとぺこりと頭を下げる。
大きく呼吸を整えたあと、鈴鈴は徐々に目を覚ましつつある後宮の空を見た。
今ごろ故郷の旧友たちも、同じ空を仰いでいるだろうか。
別れの言葉も交わせなかった親友の愛らしい姿を想い、胸がきゅっと苦しくなる。
「ごきげんよう。朝がお早いのね」
「は……」
そのとき、御花園の木々の脇から三人の影が現れた。
同一の屋敷の侍女らしく、同じ設えの着物をまとい両手で抱えるほどの陶器製の壺を持っている。
「おはようございます。今の動きは、田舎で暮らしていたころからの朝の日課なのです」
「なるほど。どうりで見覚えのない珍妙な動きですわ」
「その着物も土壌の色と相違ない、田舎町を思わせる素敵な装いですわね」
「まるで山奥に棲まうけたたましい動物のような……あっ、これは私個人の感想ですので悪しからず」
「大丈夫ですよ。気にしません」
確かに鈴鈴がまとう着物の色は、総じて地味な土気色だ。
しかしこれは、隣立つ蘭蘭の美しさを最大限に引き出すべく鈴鈴が好んで選んでいる色味。
鈴鈴単体が他人にどう思われようと、知ったことではない。
「でも安心しましたわ。御花園に妙な生き物がいるようだから確認に行くようにと、ある御方に頼まれたもので……、あっ」
「あっ」の言葉を皮切りに、三人は手に持った壺の中身を一斉に辺りにぶちまけた。
鈴鈴の足元を囲うようにして撒かれたのは、地を這い身をくねらせる虫たちだ。
「あらあら、ごめんなさいね。手が滑って中身を零してしまったわ」
「なれど、山奥から現れた御方ならば、餌として喜んで喰らってしまうかもしれなくてよ?」
「さすが田舎育ちの方は身体がお強いのね」
「……」
ほほほ、と嘲笑を残しながら、女官三人衆は御花園の向こうへと姿を消した。
やるべき事は済んだ、ということだろう。
「なるほど。これが噂に聞いていた、女同士の醜い闘争の一端か」
後宮に集うのは、一人の皇帝の妻である女たちだ。
今回標的が妃嬪の蘭蘭でなく侍女の鈴鈴となったのは、他妃からの牽制といったところか。
いずれにしても、蘭蘭には指一本触れさせやしないが。
「とはいえ、このままじゃお目覚めのお茶の準備に差し障るからな……、はっ!」
薄黄土色の着物をひらりと翻し、鈴鈴はその場から大きく跳躍した。
近くに植わっていた木の枝を掴み、車輪のようにくるりと回転する。反動のままに身体を宙に舞わせ、そのまま見事に着地した。
先ほどばらまかれた虫たちの囲いから脱した鈴鈴は、ぴっと背筋を伸ばし姿勢を正す。
敬愛する蘭蘭が幼いころから舞台に立ってきた演目、『妖獣妃伝』の主人公の決め姿勢だ。
「よし。完璧っ」
「ええ本当に。今の舞は、まこと見事でしたね」
「……え?」
耳に届いた何者かの声に、鈴鈴は素早く振り返った。
いつの間にか御花園に咲き誇る花々の中に佇んでいたのは、一人の麗人だった。
「素晴らしい身体能力をお持ちですね。まるで羽が生えているようでした」
「……」
「……どうかされましたか?」
桃色の女官衣装に身を包み、長く流された黒髪がとてもよく似合う。澄んだ瞳が印象的な、上背のとても高い人物。
その薄朱色の瞳の色合いに、鈴鈴は見覚えがあった。
「あなた様は」
「え?」
「皇帝様、で、いらっしゃいますよね……?」
鈴鈴の指摘に、目の前の麗人はぴたりと動きを止めた。
逆にこちらを探るような瞳に気付き、鈴鈴は慌てて拱手し頭を下げる。
まずい。考えなしに、思ったことを口走ってしまった。
「驚いた。よくぞ看破したな」
まろやかさが消えた口調は、やはり昨日大広間で耳にした皇帝の声そのものだ。
しかし、その声色のみでは正確に感情が読み取れない。
鈴鈴は内心冷や汗を掻きながら、言い渡される自身の処遇を待つほかなかった。
「畏まらずとも良い。見ての通り、今は皇帝としてではない存在としてここに来ている」
「……寛大なお心、感謝申し上げます」
ほっと安堵の吐息を漏らしながら、鈴鈴はおずおずと顔を上げる。
再度目にした人物は、性別はどうあれ輝かんばかりの神々しさを放っていた。
いや、だとしても、所詮蘭蘭の聡明な美しさに敵いはしないが。
「見破られたのは今回が初めてだな。何か致命的な問題点があったか。まさか他の者たちも、萎縮し言及しなかっただけで実は気付いていたのか……?」
「いえ。他の方ならば恐らくは、長身で麗しい后妃と信じて疑わなかったものと思われます」
「しかし、お前は一瞬で俺の女装を見破った」
「私の生まれ故郷は、代々全国を渡り歩く演舞を生業としております。他人を演じ成りきるための訓練を重ねておりましたが故、此度は畏れ多くも目に付いたものかと」
「なるほど。碌山州の演舞は中央でも名高い。本場の者の目は偽れぬということか」
ふむ、と皇帝は自身の女官姿を確認し、顎をさする。
殿上人の割に意外と素直なのだな、と鈴鈴は思った。
「その、ところで皇帝様は、何故そのような姿で後宮へ……?」
「後宮内は政治権力の縮図。情報収集に大いに役立つが、如何せん皇帝姿でうろついては集まる情報も集まるまい」
「……なるほど」
確かに的を射た返答に、鈴鈴はこくりと頷く。きっとこうした姿で後宮に赴くことは、初めてではないのだろう。
改めて、皇帝の女官姿を真正面から見つめた。
長く美しい髪。顔にはご丁寧に化粧が施され、着物の大きさも長身の丈に合った良い品だ……などと、思わず観察してしまう。
それだけで済ませればいいものの、長年の習慣というものは恐ろしい。
なにせ物心ついたときから、演舞公演の裏方として働いていた鈴鈴だ。蘭蘭の舞台衣装の管理を任され、製作にも携わり、本番では美しさが極限まで引き出すための化粧を施してきた。
目の前の皇帝は確かに美しい。
それでも。そう思った瞬間、鈴鈴の手は動いていた。
「失礼致します」
「ん?」
鈴鈴は、皇帝のまとう上衣の裾をそっと両手で掴んだ。
両脇にきゅっと程よく締め、腰に結われた帯の位置も僅かに上方へと修正する。
右耳にかけられていた漆黒の髪は、左側と同様に耳を隠すように真っ直ぐ下ろすようにして、そのまま胸元まで流してやった。
「確かに皇帝様は女性にも思わせる美貌の持ち主。ですがやはり骨格や面立ちは男性性が滲みます。男が女に扮する場合はいくつか隠すべき点がございます故、失礼ながら修正させていただきました」
男が女に扮するにあたり重要となるのは、首、肩、輪郭だ。
首から肩にかけての線に柔らかな布地をかけ、やや男性的な骨の張りを覚える輪郭は長く美しい髪の流れで散らす。
目の前に完成した美女の姿を改めて確認し、鈴鈴は満足げにうんうんと頷いた。
そんな鈴鈴に少し呆気にとられた顔をしたのち、皇帝は大きく破顔した。
「ふ……っはは! なるほど。長年肌に染みついた目からは、相手が皇帝とて口を出さずにはいられないということか」
「……!」
思いがけず至近距離で晒されたその笑顔に、鈴鈴は思わずどきんと胸を震わせる。
つい昨晩謁見した荘厳な皇帝の顔でも、まろやかな雰囲気で現れた女官の顔でもない。
何者の仮面にも覆われることのない、一人の男の笑顔がそこにはあった。
「え、えっと、突然の出過ぎた真似をお許しください。今さらでございますが、不敬にあたるようでしたらこの鈴鈴、如何様な罰もお受けいたします」
「気にせずとも良い。ただし、俺がこのような姿で現れたことについては一切他言無用だ」
「重々承知しております」
「先ほどのお前の舞は、実に美しかった。三人の悪意からあっさり切り抜ける様も、見ていて爽快だったぞ」
「……見ていらっしゃったのですか?」
「昨日後宮入りをした、鈴鈴、といったな」
唐突に呼ばれた名に、びくりと肩が揺れる。
「俺の名は白楊だ。以降、お前に名で呼ぶことを許可する」
「は……、え?」
「白楊だ」
「は、白楊様?」
「そうだ。また逢おう」
満足げに頷いた皇帝、もとい白楊は背を向けた。
朝の日差しをきらきらとまとわせ去っていくその姿は、後宮の庭園に訪れた、ひとときの幻のように思われた。