ソニアの1日
『あああぁぁーーー!!!』
石灰が塗られた白く美しい聖女寮。
貴族並みのマナー教育を受けていて、楚々とした聖女が行き交うその一室に、そぐわぬ叫び声が響いた。
部屋の主である、筆頭聖女のメリッサがぎくりと両肩を跳ね上げる。
『ソ、ソニア…』
恐る恐る振り返るその手には四肢を突っ張る様に伸ばした子猫が「に゙ーに゙ー」と鳴き声をあげていた。
『ババァ!!あんた、また拾ったな!?』
『だ、だって見て頂戴?ほらあばらがこんなに浮いて』
ソニアの目の前に猫が突き出される。
ソニアが筆頭聖女の下について早一年。たったそれだけだが、その間メリッサは犬子犬猫犬と4回も拾って来た。子犬は兎も角、他はいずれも骨と皮の様な見た目の年寄りだった。回復魔法を掛けても減りゆく命は止められず、3回程見送った。安らかな最期だったのは救いだ。
今回連れてきた茶斑ら色の子猫は確かにガリガリだ。毛もべとつきガビガビしている。だが突っ張った足からは薄く鋭い爪が覗き、子猫の気の強さが見て取れた。十分に元気だと思う。
『馬っ鹿じゃねーの!?大丈夫だよ!親の居ないガキなんて猫も犬も人もこんなもんだよ!捨ててこい!!』
『ソニア…貴女もこんな苦労を…』
『泣くな、鬱陶しい!捨ててこい!!』
メリッサは涙ぐみながら、子猫をミルクの入った皿の前に下ろした。皺のある柔らかい手は、既に子猫の爪により切り傷だらけだった。
『意地悪ぅ…』
『るせぇ!毛が飛ぶだ臭ぇだメイドからネチネチ言われんのはあたしなの!前の子犬ん時だってそうだ!世話して飼い主見つけて来たの、あたし!』
『私もやるわよ?』
『ざけんな!あんたうんこ踏んで滑って転んだだけで、片付けたの、あたし!!』
ソニアがビシィッと自分を親指で指すと、ちーー…と嫌な音がした。
『あら、ラグが』
『だあああぁぁ、もおおぉぉ!!』
ソニアはテーブルやミルク皿をどけて、ラグを丸めて肩に担ぎ上げる。
『洗濯してくる。戻るまでに捨てておけよ。そんで手当しとけ。…あんたの怪我は、治せない』
『ありがとうソニア。…ごめんね』
『あんたはもっと見捨てればいい。色々と』
***
カーテンの隙間から日差しが差し込むベッドの上で、ソニアは静かに目を開けた。
くあ、と欠伸をして起き上がる。乱れた髪を更にボリボリ掻いて、ぼんやりと部屋の壁を見つめた。
(懐かしい夢だったな)
宮廷聖女になってたった半年で、ソニアはメリッサ付きになった。きっかけは単純で、ソニアがガリガリに痩せていたから。「ちょっとお部屋で一緒にお菓子食べない?」なんて声をかけられてホイホイついて行ってしまったのだ。
それから部屋でソニアの魔力が高い事が分かると、直ぐに筆頭の元で勉強する事になった。
(ほーんと、夢でもクソババァ)
へへっ、と笑ってベッドから出た。
一階に降りて顔を洗ってから、洗濯箱に洗剤と洗濯物をポイポイ入れてスイッチを押す。これで1時間もせずに洗濯が終わるというのだから感動しかない。
キッチンへ入ると、既にクラウディオが立っていた。ロング丈のサロンエプロンがスタイルの良さを際立てている。
「おはようソニア。朝ごはん食べる?」
にこっ、と微笑まれてソニアは思いきり目を眇めた。朝から目が痛くなりそうな眩さだ。
「…おはよう。貰うっス」
それまで料理などした事がなかったクラウディオだが、引っ越して3日目から調理スキルがグングンと上がっていった。たった1週間で、焼き、煮込み、スープなど、次々作れる様になり、2週間経った今カフェでも開けそうな腕前だ。
更にソニアの好きなビネガー多めのサウザンドレッシングの分量を覚え、朝に度々出してくれている。
今日もソニアの好きなパン屋のクーペに、蒸し鶏とソニアの好きな野菜をたっぷり挟んで、サウザンドレッシングで味付けしたサンドイッチを用意された。
「イタダキマス…」
「はい、どうぞ」
クラウディオも対面に座り一緒に食べ始める。
ソースや挟んだ野菜がボタタッと落ちるソニアと違い、食べこぼし無く綺麗な所作で食べている。何故中身が落ちないんだろう。
(おかしい…)
この人皇弟だった気がする。こんな所で料理してていいのだろうか。
じっと見つめ過ぎたのか、クラウディオが微笑み、ソニアに手を伸ばした。親指がソニアの口の端を拭う。クラウディオはその指をぺろりと舐めた。
「ソースついてる」
ふ、と眉を下げて一層目元を緩めた顔を向けられて、ソニアは目を見開いた。下っ腹に力を入れてないと、そのまま額をテーブルに打ちつけてしまいたくなる。
クラウディオは何事も無かった様に再び食べ出したので、ソニアも何とか動き出した。
(うわ〜びっくりした…)
最近クラウディオの笑みが甘い気がする。少なくとも以前の様に、探る目を向けて来る事はなくなった。裏表の無い扱いは慣れていないので、戸惑う事が多い。
先に食べ終えたクラウディオは「ごめんね」と一言断ってから書類を見出した。
ここに来てからもクラウディオはきちんと宮廷の仕事をしている。毎日秘書や側近が来ては書類が行き来している。ソニアも何人かは名前と顔を覚えた。
涼しい顔でこなしているけど、日中ソニアが街へ出ると必ずついてくる。体は大丈夫なのだろうか。
「ちゃんと寝てるっスか?」
「んー、まぁね」
ソニアはジトッとクラウディオを見た。首から肩にかけて、それと目の辺りが揺らいで見える。疲れている人、寝不足の人によく見られる症状だ。
書類を持つクラウディオの手に指先をそっと当てた。
「体調面であたしにウソ言うなんて百年早い」
触れなくても治せるが、やはり触れている方が相手の体調がより良く分かるし、魔力の効率もいい。
(体内に悪いところはなし。疲労自体は簡単に治るけどそもそも寝不足を解消しないと、また直ぐ溜まるな)
さっと診察して癒す。手を離そうとしたら、クラウディオのもう片方の手で上から押さえられてしまった。
視線を上げると、目が合う。蕩けた甘い紫の瞳は、ジュスティラの花を思い出す。
「ありがとう」
クラウディオはそう言って手を離した。
一瞬の事だったのに、ソニアは鼓動が強くなるのを自覚した。最近時々出る症状だ。
熱の残る手をぎこちなく胸元に引き戻す。
「いいから、寝ろ」
動揺でぶっきらぼうな口調になってしまった。近頃はマシになっていたのに。久々に昔の夢なんて見たからだろうか。
クラウディオは瞬いてから、くすっと笑みを溢した。
「ソニア、耳が真っ赤だよ」
「う、うるせえ……っス」
(ああ〜…もーなんだよコレ)
部屋の端から端へ、もんどり打ちながら転がってしまいたい。そんな衝動をサンドイッチと一緒に飲み込んだ。
クラウディオの皿洗いの申し出を断り、ソニアが洗ってから、洗濯物を庭に干す。不思議な事に、クラウディオの服を洗う事はあっても、未だ下着が洗濯に出された事はない。
(部屋に溜め込んでは、ないよね?)
一緒に生活するうちに、ソニアは洗濯を担当するようになった。クラウディオが料理をしだしたから、洗濯は自分が、という流れだ。
実をいうとソニアは、掃除洗濯は出来ても料理の経験はほとんどない。孤児時代は何でもそのまま食べていたし、聖女として保護されてからは主に寮生活だった。自分の物や部屋の管理は自分達でするが、食事は一気に食堂で提供された為、触れる機会が無かったのだ。
なのでこの分担はソニアも助かっている。
洗濯を終えて、一度部屋へ戻り着替える。その途中で、来客を知らせるベル音が聞こえた。
多分、家政婦のハンナだ。隣の家に住んでいて、通いで家の手伝いをしてくれる。大体が掃除と、遅くなる時は洗濯物を畳んだり、夕飯の支度をしてくれたりする。
クラウディオに雇っていいいか?と聞かれた時は(必要かなぁ?)と思ったが、慣れてしまうと大変有り難い。
階段を降りると、家に入ってくるハンナと目が合う。グレイのワンピースと飾り気のないエプロン、引っ詰めた髪をお団子にまとめた、笑顔が控えめのクールな美人だ。
「ハンナおはよう〜」
「おはようございます、ソニアさん」
クラウディオも出掛ける支度を済ませて玄関に来た。
「ソニアもう行く?」
「うん」
「じゃあ、ハンナ後よろしく」
「お任せ下さい。行ってらっしゃいませ」
外に出ると、既に日差しは強い。濃い青空に白い雲が際立ち、熱せられた煉瓦が匂い立つ。初夏の気配を感じた。
ソニアが住み始めた頃に満開だったジュスティラも既に花を終え、入れ替わる様に白いジャスミンが咲き始めた。沢山咲き芳香を放つのはもう少し先だが、ソニアは楽しみにしている。
新しい街並みにも慣れ、少しずつ顔見知りも出来てきた。迷いのない足取りでいつもの街角へ向かう。
いつもクラウディオが居座るカフェの、ウェイトレスのリザと少し話す様になった。今日は出勤しているだろうか。
そんな事を考えて向かうと、カフェの前には既に人が集まっていた。数十人の人集りは通行の邪魔になっていて、笛を吹きながら憲兵が駆けて来る。
「な、なんスか!?何の騒ぎ?」
「あー…こうなったか」
「ど、どゆこと??」
昨日も確かに待ってくれてる人はいたけど、せいぜい2、3人程度。急な事にソニアは慌てる。
「服装を見るに、この近くに住んでいる人じゃない。農民っぽいからね。噂を聞きつけて集団で上京して来たんだろう」
「そ、そんな事ってある?聖女なんて…」
「そこら中にゴロゴロいるのはエーリズに限ってだからね?白熱してて危なそうだし憲兵に任せて帰る?」
「アホか!」
話している間にも、憲兵隊と集まった人達が「聖女様が安く診てくれるんだ!邪魔すんな」「馬鹿言うな!騙されてるぞ!散れ!」とヒートアップしている。
振り上げられた拳が下りる前にソニアは走って向かった。
「すいませーん!!」
ソニアの服装を見て、待っていた人達は歓声を上げるが、憲兵の人は不審そうに眉を顰めた。
「君か?こいつらが言ってる聖女ってのは。国立病院から派遣されてるの?」
「え?いや、違うっス」
「じゃあどこの所属?言ってみなさい。本当に聖女なら」
「えっ…ええ〜と、野良?おお、そうだ!あたし野良聖女です!!」
「……ちょっと詰所で話聞かせてくれる?」
失敗したっぽい。
憲兵に腕を掴まれ、ぐいと引かれる。だが、その憲兵の手はさらに別の手に掴まれた。
「ソニアに触るな」
解放されたソニアはすぐさまクラウディオの背後に隠された。顔は見えないが、声色がいつもより随分低く感じる。なんだ、どうした。
「なっ!?き、君は誰だね!?」
クラウディオは警戒心を高くした憲兵にも落ち着き払い、ジャケットの内ポケットから何かを出して見せた。
ソニアもなんとか見ようと首を伸ばすが、クラウディオの長い腕が背後から出て来ない様にガードしていて、背中しか見えない。
憲兵はみるみる顔色を青くし、両手を自身の顔の横に挙げた。他の憲兵も何人か振り返りギョッと固まる。
「しっ、しっ失礼いた致しました!」
「彼女は僕が保護している。何か問題でも?」
憲兵は両手を挙げたままジリジリと後退して首を横に振る。ゴクリと喉を鳴らして、口を開いた。
「さ、騒ぎを、おち落ち着き、落ち着けば…問題ありません…」
「そうだね。とりあえず君たち、通行の邪魔にならないように整列させてくれる?」
「「「はっ!!!」」」
瞬時に憲兵を顎で使い出したクラウディオに感心すればいいのか、呆れればいいのか。
「何を見せたっスか?」
「ん?ただの家紋がついた身分証だよ」
(それって王家の紋…)
一生懸命整列させる憲兵達に同情の眼差しを送る。道の端の邪魔にならないところに列が出来上がると、クラウディオはソニアを振り返りにっこり笑った。
「お待たせソニア」
「ど、どうも…」
治療を始めようとすると、憲兵達が押し合い圧し合いして、ひとりが弾き出て来た。可哀想な程ガチガチに震えながら近づいてくる。
「あ、ああああの」
「どしたっスか?」
「あし、明日も騒ぎ、こっ困ります、ので、対策を」
「ああ」
クラウディオが返事をすると、憲兵はぴゃっと飛び上がった。
「新しい営業場所か、建物を決めて診療所を開くか決めるまで休業する?楽しそうにしてるのに申し訳ないけど」
「仕方ないっス。憲兵の兄ちゃん、世話かけて悪かったっス」
憲兵は顔と両手を高速で左右に振り、仲間の元へ帰って行った。
それからソニアは治療前に、集まった人に向けて暫くは営業しない旨を伝えていく。噂になって広がっていってくれればいいのだが。
一悶着終え、集まった患者をザッと視認すると、その殆どが欠損の治療だった。うち半数は子供だ。付き添いの家族がいる為に大所帯だったのだ。
中でも一番重症なのは右足を付け根すぐから丸々一本失った十代の若者だ。周りの人の肩を借りて、カフェから借りた椅子に腰を下ろした。
「聖女様…。治りますか?」
肩を貸した父親と思しき男が不安そうに聞いてくる。足の無い若者はただ俯き、歯を食いしばる。
「触るよ?」
頷いたのを確認してから、若者の手を取った。
(どれどれ。…うんうん、足は無いけど他は問題ないね。あー魔力の流れが足があった所にまで巡っているのかぁ。これがあると本人は足のある感覚がして痛みや気持ち悪さを感じるらしいね。だけど、この流れが残っている内は治しやすい)
魔力は血流と同化して身体中を巡る。ただ、血液と違って魔力は身体を飛び出して脚を形作ろうとしている。その流れに沿ってソニアは魔力を流した。
(急な成長は痛みを伴うから、痛覚を一時的に鈍くして。よーし、イイコイイコ!身体を新しく作る機能は衰えてない)
人の体はいつだってどんどん新しくなる。皮膚が新しくつくられると、古い皮膚が垢となって落ちていくように、肉も骨も内臓も一緒だ。その身体を新しく作る機能が失われると、治癒魔法を以てしても再生はできず、聖女は己の生命力で以てカバーする。
「ちょっとそこのおっちゃん、この人支えてて」
横で心配そうに様子を見ていた男に声を掛けると、男は若者の肩を支えた。
「一気に行くぞ?衝撃はすごいと思うけど、お前の身体なら耐えられそうだ。ただ気絶はする。起きたらいっぱいメシ食えよ!3、2、1、ほい!!」
ソニアの手から強い光が迸る。皆が反射的に目を閉じた。ホワイトアウトしている中人々の耳にメキメキゴキ、と悍ましい音がし、息を呑む気配が満ちる。
光が収束すると、若者のズボンの中は膨らみ、裾からは生えたての白い右足が見えていた。
「ぐっ…っ」
呻き声を上げて若者は気絶した。傾ぐ体を男が支える。
藁にも縋る思いで訪れた他の患者。最近では治療の様子を見慣れたと思っていたカフェの店員。疑いの眼差しを向けていた憲兵達。通りがかってチラ見した人らまで。
全員が息を止めて目を見開いた。信じられない光景を前に、ストリートは静寂に包まれる。
「はい、おつかれさま〜」
静寂を破ったのは、ソニアのへらっと笑う声だった。その瞬間、息を止めていた人達はハッとして動き出す。
若者を支える男の目からも一筋、涙が溢れ出た。深く頭を下げて、絞り出すような声を出した。
「あり、がとう…ございます…ありがとう…うっ…」
「はーい。帰り気をつけてね〜。1000シェルでーす」
そのソニアの言葉に待ったをかけたのは憲兵達だ。
「いや待て待て、野良聖女!安すぎる!!きちんと国の許可………は、取ってるとしても、だなぁ…」
勢い込んで物申してきたが、途中からソニアの背後に視線が釘付けになって、尻窄みになる。
なんだ?と振り返ってもクラウディオが立っていて、にこっと微笑んでいるだけだ。
ソニアは首を傾げながら、憲兵に向き直る。
「値段に国の許可が必要なんスか?」
「えぇ〜…俺に訊くの?あーえー、許可ってか、相場?ほら値崩れすると同業者が困るっていうか。なぁ?」
憲兵同士でうんうん、と頷く。
「そうなんスか?」
ソニアがクラウディオにも尋ねてみると、クラウディオは優しい笑みで答えた。
「まぁ、肩凝りと欠損が同じ値段ということは無いね。使う魔力量も桁違いだろう?」
「あー、そうっスね」
「ソニアの魔力が安く消費されるのは僕も看過しかねるから、変えたほうがいいという意見は同意かな」
「うーん、難しい…」
誰か相場知らないかなぁ、と周りを見回す。憲兵は揃って首振り人形みたいにぷるぷるしているし、集まっている人達はポケットや荷物をひっくり返して、「もっと出そう!」とありったけの小銭を出している。
「えーと、わかんないから、まぁとりあえず今日は1000シェルで!はい次の人〜!」
「野良聖女…お前馬鹿だろう」
そう呟いた憲兵は、後日異動になったとか。
一通り治療を終え、早めの帰路につく前にクラウディオは一度ソニアをカフェで休ませた。
向かい合わせで座り、クラウディオはソニアの顔色や脈をチェックする。
「ソニア、あんなに魔法使って気分は悪くなってない?顔色は…変わらないけど」
「んー、魔力半分くらいしか使ってないっスよ」
クラウディオは軽く目を見張った。
あれから指一本、片耳、と欠損の患者が続き、計14名の治療を行った。それで半分とは、と。
「今日の人達どっから来たんスかねぇ?傷も古くないし…あんなに子供ばっかり欠損があって」
「南西部地域の住民だろうね。ここからだと列車で3時間、そこから馬車で2日はかかるかな」
「列車は近くまで行かないっスか?」
「魔獣がよく出る地域なんだよ。だから列車の走る線路を引けない。直ぐに破壊されてしまって、経済面でも安全面でもリスクが大きい」
夕方には少し早い時間。
お店は夕飯の時間に向けて準備を始めていて、路地にいい匂いが充満している。
ソニアのお腹がきゅるう、と悲しげに鳴いた。治療に集中していてお昼を食べ損なったのだ。
「あの地域はひと月ほど前に大きな魔獣被害があったんだ。僕はエーリズに行っていたから報告書しか見ていないけど。大人も子供も被害者はいたけど、子供の治療を優先して上京したんだろうね。ただ、治療の補償は義足を含め国から諸々出ているはずなんだけどね。………デザイゲート領主。新しい領主を準備しておくか」
匂いに釣られて立ち上がりフラフラとパン屋のガラスに張り付いたソニアに、クラウディオが話す後半は聞き取れなかった。
「どうしよう…明日から休業だから、パン我慢しようかな…」
一時的に収入源が無くなってしまったのだ。迷う。涎が止まらない。迷う。
「それなんだけど、明日からは国立病院行かない?他の聖女にも会えるし、色々相談してみたら?そうそう、救急の治療を手伝ったらお給金でるよ?」
「行く!!!」
右手を高く挙げたら、勢いで口の端から涎が垂れた。
***
帰宅して、夕飯を終えた時間。ソニアがお風呂に入っている。その水音を掻き消す様に、キッチンにはカシャカシャと金属音が高く鳴っていた。
一度ホイッパーを置き、ボウルの中で出来上がった明日分のドレッシングを、クラウディオは味見する。
(よし。次はサンドイッチ用グリルチキンの下味を…)
鶏肉に手を伸ばすと、音もなく背後に人が立った。構わずに、鶏肉をパンに挟みやすいサイズに切り分ける。
「ハンナ、今日のゴミは?」
「今日はございません。あちらも手練の偵察を雇った様で、遠くから窺っている気配はあります」
「しつこいなら処分しろ。特に南部方面はきな臭い。それとそこにある書類は兄上へ」
「かしこまりました。……クラウディオ様」
クラウディオは一度手を洗ってからソルトミルを取った。
ハンナは書類を抱え、扉の向こうへ消える前に振り返った。
「なんだ?」
「こんな回りくどいオママゴトなんてしてないで、いつもの様に堕としてしまえばよろしいのでは?」
「仕事と一緒にするなよ。…それに言われたんだ」
エーリズ先王が亡くなったと報せが来た日の夜。
ストール越しの抱擁を受け入れてくれた彼女は、芯の強さを潜めてクラウディオに寄りかかり。
『優しくした方がいいんじゃないスか?』
と、言った。
(君がそう言うのなら、勿論優しくする。際限なく、抜け出せない程に)
黙り込んだクラウディオを見て、ハンナは無表情のまま「ははは」と声を上げた。
「腹黒でも恋をするのですね。ソニア様に同情いたします」
「…ソニアに余計な事言うなよ。もう行け」
「失礼します」
ゴリゴリ、とミルを回して塩を擦り砕く音だけが残った。
流石のソニアもパンツは部屋干しかな…。
***
いつもありがとうございます!