知らない事、わかっていた事
そのまま午後もクラウディオが御者をした。
ロハンの鎧がソニアを傷つけたと知ると申し訳なさそうに謝りまくってきたが、万が一の時の為に脱ぐ訳にもいかない。
そんな訳でロハンは馬車待機である。
午前のちょっとした気まずさなんて感じさせずに、クラウディオはポケットから出したジャーキーをソニアに渡した。自分の分もちゃんと用意していて、「ポケットからジャーキー出して齧る貴族」にソニアはツボった。
ジャーキーを齧り出すとクラウディオは上手に喋れないらしく、「もごもごした貴族」にもソニアは大いに笑った。クラウディオ的には食べながら話せるソニアが不思議な様だ。
夕方が近づいて来て、やっとクラウディオはロハンと御者を交代した。ソニアにも馬に治癒魔法をかけたら一緒に馬車に入るように言った。
「あたしこのまま御者席でもいっスよ?」
「国境ではそうもいかないんだよ。あと1時間くらいだから馬ももう大丈夫だよ。乗って」
ソニアは不思議に思いながらも馬車に乗り込んだ。閉じた扉にロハンが何か取り付けている。
「ロハンさんは何してんスか?」
「ん?家紋を下げてるんだよ。これがあると国境越えの検問が楽だから。逆に村とかで出しておくと怖がられちゃったりするから、しまっておいた」
「へーなるほどぉ」
馬車の中に乗り込んでも、結局座席は隣り同士だ。並んで座って、ソニアは窓の外を見た。
馬は目的地が近くなったからか、速足から並足へとペースダウンした。それでも1時間もせず国境へと着く。
ソニアは初めての出国にどきどきしていたが、検問所でロハンがなにやらやり取りをすると、馬車の荷検めもなくすんなり通過した。
「…クラウディオさんってかなり高位貴族?」
ソニアの問いにクラウディオはにっこり笑うだけだった。
馬車外に下げられた家紋がちょっとばかし気になったが、エーリズ国内の家紋すら碌に覚えていないので「見てもわからんか」と諦めるのは早かった。
テノラスへ入国すると、ソニアは直ぐ変化に気がついた。
「馬車が、揺れない」
外を見ると、国境まで道が舗装されている。
薄暗くなり始めた中、国境の街へ目を向けると明るく輝いていた。
道の両端にも等間隔で明かりが灯っている。エーリズでも王城周辺には街燈があるが、こんな国境際まで設置されている事にソニアは驚いた。
「ガス燈があんなに…」
「惜しい。あれは魔導燈だよ」
「魔導具?」
「そう。魔石が中に填められていて、暗くなると自動で点く様に出来ている。定期的に魔石の交換と回路チェックするだけだから、人手がかからないんだ。だから国の端まで行き渡っているんだよ」
クラウディオは巾着から、以前見たカットされた鈍色の石を出した。ソニアの視線もそちらに向く。
クラウディオが魔力を流すと、透明度が増していき綺麗な翡翠色になった。
「これが魔石。魔力を補充すると再び使える。何回か繰り返し使うと、劣化して割れてしまうんだけどね」
話している間も馬車は進み、街中に入った。夜なのにそこここに明かりが灯り、キラキラしている。
晩御飯用か、沢山並ぶ屋台には未だ人が多くお惣菜をあれこれ購入しているのが見える。ソニアは窓に張り付いて流れていくお惣菜の景色を食い入る様に見つめた。
「くっ、ふふ…落ち着いたら案内しようか?」
「いいんスか!?見た事ない食べ物ばっかり!どんな味がするんだろ〜」
隣の国なのに全然違う事に驚きを隠せない。景色から目が離せないまま馬車は本日の宿についた。
見上げる程大きいホテルで、こちらも建物の至る所に魔導燈が使われている。ロビーのシャンデリアも光源は蝋燭じゃなくて魔導燈の様だ。
「火事の心配が減るっスね…」
あんぐりと口を開けて見回すソニアを、転ばない様にクラウディオがエスコートする。
「そこに気がついてくれて嬉しいよ。他国からのお客さんは見た目の美しさばかり褒めるから。そう、魔導燈が普及する様になって、火事の報告が半減したんだ」
少し誇らし気にクラウディオは答える。
ソニアは単純に不思議だった。
「何でこんなすごい物がエーリズでは話題にならないんだろう?」
「…聞きたいなら、部屋で話そうか?」
「知ってるんスか?」
クラウディオは意味深に人差し指を唇に当てて、口の端を上げた。ちょっと悪い顔だなとソニアは思う。
そのままクラウディオのエスコートで部屋まで行く。ベッドルームがふた部屋ついた豪華な部屋に通される。
部屋付きのメイドがお茶の用意だけして下がっていった。
クラウディオに薦められるまま部屋着を借りてバスルームを使った。誰が先に使うかで少し揉めたが、結局ソニアが押し負けたのだ。
さっぱりしてリビングのソファに座ると、ウトウトしてしまった。流石に3日馬車は疲れた。だがあと1日かかるとの事なので、気を抜き過ぎないように頑張ろう。
2人がお風呂を終え、夕飯の支度ができたと声をかけてくれた。
目を開けるといい匂いがして、お腹が鳴った。
「夕飯にはパンを多めに用意してもらったから食べよう」
「やたー!ありがとっス!」
ロハンも鎧を外して席に着いた。鎧ありの姿に見慣れ過ぎて、なんだかひとまわり小さく見えてしまう。
給仕の人は用意だけすると退室した。
「いただきまーす!」
手を合わせてフォークを掴む。ふと2人を見ると綺麗な所作でスープを口にしていた。ロハンもいいところのご子息だったかー、と気がつく。
ソニアは順番など全く気にせずメインの海老のフリッターにフォークを刺して頬張った。ウマイ。パンも3種用意されていて、迷った末に3つ共食べる事にした。最高か。
食事を終えてロハンがベルを鳴らすと、再び給仕の人が来て片付けとお茶の用意をして出て行った。
「さて、先程の話の続きだけど」
ひとくち口をつけると、クラウディオが話し出した。ロビーで話していた事の続きだろう。
「実はもう、他国でもテノラスの魔導具は普及し始めているんだよね。攻撃魔法が得意な者が多いペキュラ国や、魔力持ちが殆どいないが技術力がずば抜けているオーガス国とは共同開発もしている」
これにはソニアも驚いた。宮廷に仕えていると色々話を耳にする事はあるが、そんな話は聞いた事が無かった。そもそも他国の話題が出る時は「どこどこの国が聖女を求めて来た」とか。
あとはクラウディオが言われたと言っていた「生活魔法に特化した庶民臭い土地」だとか「攻撃魔法が得意な野蛮な国」とか貶める様な発言が多い。
「エーリズ国は自国愛が凄いというか。それ自体は悪いことじゃないんだけど。こちらも取引として魔導具を献上したりするんだけど聖女の譲渡に釣り合わぬと言われる始末で。まともな国交が難しいんだ。この辺の兼ね合いで、エーリズは魔導具の普及が遅れていてね」
だいぶ濁して話してくれたが要はエーリズ至上主義が酷過ぎて他国の意見をきちんと聞いていないということでは、と思う。他国を見下している為、素直に良いと言って受け入れられないのが、エーリズに魔導具がほぼ無いという状況を作り出しているのだろう。
それに気になる言葉があった。
「聖女の、譲渡?」
「あ、やっぱりソニアは知らないんだね」
クラウディオは眉を下げて困った顔をした。
「エーリズはね…その、輸入の対価を、聖女で払う時があるんだ」
「は?」
「中級程度の魔法を使える聖女をね。もちろん中級程度でも他国では貴重だ。来てもらったからには丁重に扱うし、生涯面倒みると保証している。だけどそうやってやってきた聖女は皆驚くのさ。エーリズでされた教育と全然違うと。エーリズではどうやら自分から出国しないよう洗脳じみた教育がされているのではないかという予測がされていて。近頃では周辺国でエーリズの聖女の扱いは非人道的ではないかと問題になったりして、エーリズは孤立しつつある。どの国も聖女が居ないと困るから表立って突ついたりはしないけどね」
全く知らない情報にソニアは口の端が引き攣るのを感じた。
「つまり何が言いたいかと言うと…聖女を許可なく連れ出すのはエーリズに禁止されてるんだよね」
「わあ…」
ひょいと肩をすくめて開き直ったクラウディオに言葉が出なかった。これは多分、エーリズ外交で随分ストレス溜め込んできたんじゃなかろうか。
ソニアはソニアでそんな事全く知らなかったので、ぺろっと出てきてしまった。
「あ、じゃあ最初あたしに馬の治癒だけ依頼したのは」
「国境で帰すつもりだったのさ」
「そゆことかぁー!あー…ま、いっか」
「いいの?今なら直ぐだし帰れるよ?」
「まー未練はないっス。家族もいないんで。テノラス的には大丈夫なんすか?あたしがついて行ったばかりにエーリズから責められたりとかはないんスか?」
「うん。調べた所、基本的に聖女の意思で出国するのは罪ではないみたいだね。出国しない様に教育はしているみたいだけど」
「心当たりありありっス。不真面目が功を奏したな〜」
あははと明るく笑うソニアにクラウディオはホッとした。最初からそのつもりではなかったが、騙し討ちみたいに連れ出してしまった事は申し訳ないと思っていた。
「あ、じゃあやっぱ街角治療所はまずい?」
「いや、それに関しては別に構わないよ。聖女攫いには注意が必要だけど」
「え、聖女攫われるの?」
「エーリズ以外では大変珍しく貴重な存在だと自覚してくれ。……やっぱり宮廷で働かない?」
「いやっス!すまん!」
けらけらっと笑ってあっさり距離を取られた事で、クラウディオにモヤモヤした気持ちが湧き上がった。
「…そう言えば、傷はどうだい?」
「え?きず?」
「ロハンの鎧でついた傷だよ。手当してあげるって言ったよね」
クラウディオが席を立ちソニアに近づく。その完璧に整った微笑みに、ソニアの背筋はゾワッとした。
「だっ、大丈夫大丈夫大丈夫!今日も魔法かけといたから!問題ナシ!」
「確認してもいい?従者のしたことは主人である僕の責任だから」
「いっ、いやいやいやいや!?おーげさだよ!問題ナシ!」
慌てて席を立ち周りを見回すと、何故かロハンが消えていた。いつのまに。
ソニアはそのまま後ずさるがクラウディオはゆっくり距離を詰めてくる。
「ね?優しくするから、見せて?」
困った子供を諭す様な優し気な顔で近づいて来ているはずなのに、何故か肉食獣の様な迫力がある。なんで。
ジリジリ後退していると、踵が何かに引っかかり尻餅をついた。ぽすりと柔らかい感触に、座り込んだのはソファの上だと知る。ホッとしたのも束の間、クラウディオがソファの背もたれに手をついた。美しい顔が眼前に迫る。
「覚悟は出来た?」
「〜〜〜っっ!!」
ソニアの全力拒否の結果、クラウディオが用意した湿布をきちんと貼るという事で落ち着いた。
朝、湿布を剥がして見ると、あざが出来ていた場所から痛みが消えていた。
「おお、すごいなテノラスの医療」
クラウディオ曰く、魔法を使わない薬を使った医術はエーリズが一番発展が遅いそうだ。聖女が居ない国では当然かなり発展しているらしい。
いつもの制服に袖を通し、リビングへと出ると既に2人とも準備を終えてそこに居た。
「遅れたっス、すまん!」
「大丈夫だよ。朝食食べたら直ぐに行こう。あ、両替はする?国境のホテルは出来る様になってるんだ。テノラスはガルじゃなくてシェルを使うから。1000ガル=1000シェルだから難しくないけど」
「お願いするっス!」
両替をお願いし、荷物もないので食べて直ぐにホテルを出た。
馬車で少し移動すると、降りてと言われた。
降りた目の前には巨大な建物が口を開けており、中はもみくちゃになるほどの人が溢れかえっている。
男の人が頭を下げながら近づいてきて、誘導してくれる。ついていくと、巨大な黒い煙突のついた物が待ち構えていた。どでかい馬車の車部分のようなものが幾つも繋がっている。そこに人が沢山吸い込まれていく。
「驚いた?魔導列車だよ」
「魔導…列車」
「前に魔石は何回か使うと劣化して割れてしまうといったよね?その廃魔石を燃料にして動く鉄の車なんだ。とっても速いよ。途中駅には止まるけど、夜には帝都に到着するから」
乗り込むと中は普通の部屋の様に整えられていた。シャワールームもキッチンもあるし、個室にベッドもある。もう普通の家と遜色ない。
座って待っててね、と言われそっと窓際の椅子に腰を下ろした。他の車両にも沢山人が入っていく。
「他はもっと乗れるんスか?」
「うん?ああ、うん。平民用に座席をなるだけ沢山設置して、一人当たりにかかる費用を下げているんだよ」
「へ〜」
そのまま外を眺めていると、甲高い笛の音がして部屋が動き出した。始めこそ振動を感じたが、スピードが乗ってくると揺れは少ない。馬車の何倍も早く、過ぎ去っていく景色を飽きることなく見続けた。
駅で何回か止まりながら列車は進む。中で軽い食事やお茶を摂る。クラウディオはいつのまにか封書を幾つも持っていて、テーブルに広げて読んで、時に返事を書いていた。
午後に少しうとうとし、夜になり本当に帝都に到着した。
「はー…すごいっス。エーリズはあのままだと滅ぶ気がしてきたっす」
「そうだねえ。結構色んな国の間者がエーリズに入り込んで聖女出生率の高さについて研究してるんだけど、謎が解けた時とかは…ね」
うん。肯定されました。
祖国の聖女達に被害がない事をお願いしておこう、と思う。
駅の外に出ると、ずらりと従者と騎士の行列が出来ており、その先に立派な馬車が停まっていた。
先頭にいた人が一歩前に出て、綺麗なお辞儀をする。
「お帰りなさいませ、クラウディオ様。お急ぎ下さい」
「ああ、行こうソニア」
「ぅえっ!?」
クラウディオは構う事なくソニアの手を取り、頭を下げた従者の前を通る。
「ちょちょ、クラウディオさんっ!さすがにあたしがいきなり行くのはマズイんじゃないっスか!?自分で言うのもなんスけど、礼儀知らずっスよ!」
「僕の話は忘れてしまったのかい?聖女は珍しく貴重な存在だと言ったよね?礼儀など出来なくても大丈夫だ。それに先ぶれを出して許可を取っている」
「マジか!?」
クラウディオと馬車に乗り込むと直ぐに動き出した。
遠く、高い場所にあるお城は帝国の物だろうか。お城のデザインがエーリズと全然違くて不思議な気分になる。
窓の外を見るソニアに、クラウディオはそっと静かに言った。
「父上にまだ息があるみたいなんだ。ソニア、魔法を頼めるかい?」
そのクラウディオの様子にソニアは宮廷聖女だった頃の感覚が舞い戻るのを感じた。
いつも命令される立場だった。絶対助けろ、失敗は許さん、と。頼まれるというのは初めてだが、する事は変わらない。
ひとつ深呼吸をし、クラウディオを真っ直ぐ見返す。
「わかった。まかせて」
「…出来るかわからない、とは言わないんだね」
「言わない。息があるなら、やるだけやる」
ソニアの言葉の強さに、クラウディオは息を呑んだ。
驚いたり呆けたり、けらけら笑うソニアとは全然違う。まるで別人の様に静謐な空気を纏い始めた。
「到着しました」
御者から声がかかり、扉が開いた。先にクラウディオが馬車から降り、その手を借りてソニアも降りた。
降りて、固まった。
遠くに見えていた城が、目の前に聳え立っている。
「クラウディオさん?」
錆びた人形のようにぎこちなく首を動かすと、クラウディオはにこっと微笑んだ。あのやたら整った胡散臭い笑顔だ。
「さ、行こう」
再び手を取られ、足早に進む。2人を止める者は誰もおらず、むしろ使用人達は揃って頭を下げて道を譲った。
どんどん城の奥へ進む。使用人は居なくなり、騎士が扉を守る部屋の前に着き、入室した。
そこには管が沢山ついた人が横たわっていた。
白衣を着た人達が周りに立ち、ベッドの側ではクラウディオによく似た婦人と髪の黒い男の人が座っていた。
「母上、兄上!帰りました!!」
2人が同時に立ち上がり順番にクラウディオと抱擁を交わして、ソニアを見た。
「貴女が聖女ですね?」
婦人の声掛けにソニアはできるだけ丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして、ソニアです。早速ですが、患者を診察してもいいですか?時間が無いと伺ってます」
「お願いするわ、こちらからどうぞ」
上掛けから片腕が出ている方に誘導される。
意外ときちんと話すソニアにクラウディオだけがこっそり驚いた。
ソニアは側に腰掛けて、患者を観察した。顔色が悪く息も弱い。頬はこけ、触れた手も骨と皮だけという儚さだ。
繋がる管の説明を求めると、呼吸を助ける物や、薬や食事ができないので栄養を流し込んでいると言われた。エーリズには無い、初めて見る器具だった。
(じゃーこの、管が刺さっている部分は治療しちゃダメっつー事ね)
塞ぐと栄養がいかなくなってしまう。
ソニアは慎重に魔力を流し始める。直ぐに病巣を見つけるも、それはひとつやふたつでは無い。
(多い…!むしろ良く生きていた)
一回の治療では治しきれないし、患者への負担も大きそうだ。
治癒魔法というのは基本的に患者の治癒力を極限まで活性化させて治す。本人の体力が減っている状態だとショック症状を起こす事もあるし、治りきらない時もある。その体力不足を聖女は自身の魔力で補う。
それでも間に合わない時は、聖女の生命力を消費して治療する。生命力を治癒力に変換することは難しく、出来る人は限られていて、その殆どは宮廷聖女だ。
「ソニアさん、どうかしら?」
「正直直ぐには治せません。体力が少なすぎます。本日は体力を回復させる治癒魔法のみで様子を見て、明日以降少しずつ魔法をかけてもいいですか?」
クラウディオと婦人、それと男の人が目を合わせて頷いた。医師と思しき白衣の人も首肯する。
「それでお願いするわ」
「わかりました。…始めます」
体が驚かないように、ちょっとずつ魔力を流す。
血流に乗るように。全身に巡るように。一周、二周体中の隅々まで。
慎重に慎重に。本人の体力を使ってしまわないように。自身の魔力を相手の体力へと変換していく。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
周りの人達も固唾を呑んでずっと見守っている。息遣いすら潜めて、とても静かだ。
魔力を何周も何周も巡らせているうちに、患者の生命力が少しばかり蘇るのを感じた。
ソニアはふっ、と短く息を吐いて手を離した。
「今日はこのあたりでやめさせていただきます」
立ち上がると、入れ替わりで医師が立った。脈をとったり心音を聞いたりして、笑顔で振り返った。
「皇太后様!陛下!!脈拍が大きくなっております。呼吸も安定して、顔色も回復しています」
ベッドの周りに家族達が集まるのを、ソニアは少し遠い目で見つめた。
(皇太后様かー。陛下かー。やっぱりかー。てことはクラウディオさんは…皇弟ってこと?マジかー)
すすす、と気配を消して部屋から出ると、外で待ち構えていた侍従がいて「お部屋へご案内いたします」と言って、やたら煌びやかな部屋へと通されてしまった。
(フェードアウトは無理っぽいなー。まあ、治すまではいるつもりだけど)
欠伸をして目を擦る。ふっかふかなベッドを目の前にしたらどうしようもない睡魔に襲われた。靴を脱ぎ捨てて枕に倒れ込むと直ぐに意識が落ちた。
明け方、ソニアは雲の様に柔らかな布団に包まれて目を覚ました。ああそうだ昨日はなんの因果か隣国の皇宮に来てしまったんだ、なんて寝ぼけ眼を擦ると、隣には男神もかくやと言わんばかりの寝顔が横たわっていた。
ソニアは悲鳴を呑み込んで跳びずさり、ベッドから転げ落ちた。
「〜〜っ…」
幸い毛足の長い絨毯のおかげでぶつけた後頭部は痛くなかったが、衝撃で首がグキッた。
「ん」
しかもひとりでドタバタしすぎたのか、かの者の眠りを妨げてしまったらしい。
のそっと起き上がりソニアの方を見てへにゃりと顔を崩した。
「そこで何してるの?」
いや、貴方がね!?そう突っ込みたかったけど、朝日を浴びた寝ぼけ顔が神々しすぎて、危うく目が潰されるところだった。
クラウディオはくあ、と欠伸をしながら起き上がる。けしからん事に寝巻きのボタンが3つも開いている。ソニアは顔を背けて、ついでに靴を探しだした。が、無い。
「昨夜は少し話がしたくて僕の部屋に案内しといて貰ったんだけど、戻ってきたらソニアが寝ちゃってて驚いたよ」
(お前の部屋かーい!!)
腐っても元筆頭聖女。それなりに豪華な内装の部屋に住んでいた弊害か、王城の豪華な客室はこんな感じか〜と流してしまった。きちんと聞けばよかったと後悔する。
「それは…大変失礼しました。まさか皇弟殿下のお部屋とは知らず。直ぐお暇しますので…」
(靴が、靴が見つからない!)
喋りながら焦ってベッド下を覗き込む。
クラウディオは裸足でベッドから降りるとペタペタとクローゼットまで歩いた。
靴が見つからず顔を上げると、クローゼットの前に佇むクラウディオと目が合った。クラウディオはにこりと笑って人差し指を上に向ける。
反射的に指先を目で追うと、クラウディオより背の高いクローゼットの上に、靴があった。
(何故!!??)
「ねえ、なんで喋り方変えたの?」
「礼儀知らずの私でも皇族の前で弁えるくらいの常識はあります」
(踏み台、踏み台)
目を忙しなく動かして、昨日と部屋の様子が変わっていることに気がつく。デスクと揃いの椅子、ソファとセットのオットマンが無い。なんでさ。
ソニアはもう靴とか無くてもいい気がしてきた。
靴は家のグレードを表す。主に靴を履いていない人というのは、スラムや路上暮らしの家が無い人だ。どんなに貧乏でも木靴は履いており、靴を履かない人に世間は冷たい。
だが孤児出のソニアには低いハードルだ。
(よし、街でパパッと稼いで木靴買って飯食って戻ってこよう)
「一度お暇し、治療の時に再び参ります」
「それを信じろって?」
揶揄う様な物言いに、ソニアはカチンときた。
「そこに治る病人がいるのに、治療しないということは絶対にありません」
睨みつけて言うと、クラウディオは目を細めて優しく微笑んだ。微笑みを見て固まったソニアにクラウディオは大股で近寄り、抱き上げるとソファに座らせた。
その前に膝をつき、ソニアの小さな足に柔らかなシルクの内履を履かせた。
「ちょっ…!」
「ごめんね。急にソニアが態度を変えるから、寂しくて意地悪しちゃったんだ。許してくれる?」
旅の途中何度も見た眉を下げた笑みに、小首をかしげるという仕草が加わり、ソニアは「ひぃっ!」と小さな悲鳴を上げた。
エーリズでは聖女の地位は高くない。宮廷聖女となればそれなりに尊敬される対象ではあるが、孤児であった為にソニアの扱いは平民相当だった。
そのため貴族どころか皇族に跪き許しを請われるという状況は「憧れうっとり」を通り越して恐怖を感じた。
そんなことはつゆ知らず、笑顔に黄色い悲鳴ではなく、ガチ悲鳴を上げられてクラウディオはショックを受けた。
流石のソニアも痴漢に遭遇した様な悲鳴を上げてしまったことをすぐ様詫びる。
「あ、申し訳ありません。高貴な方からその様な扱いを受けたのは初めてで」
「ソニアは宮廷聖女だったんでしょう?」
「テノラスではどうか知りませんが、エーリズでは身分も考慮されますので」
話していると部屋の扉がノックされた。クラウディオが立ち上がって返事をして、ソニアはほっとした。
(今の内にこっそり出て〜)
と思ったが、侍従や従僕と一緒に入ってきたメイドにあっさり捕まり別室へと連れて行かれる。「朝のお召替えをお願いします」と言われて、そう言えば4日以上同じ服だわ、と受け入れた。後悔した。
朝食を摂るため移動した部屋にクラウディオのみならず、皇太后と陛下、それと女性がひとり陛下の横に座っていたからだ。
席に座ると、皇太后がソニアに声をかけた。
「ソニアさん、昨日はろくに挨拶出来ずに悪かったわ。私がテノラス帝国皇太后のラルダメーラよ。夫を診てくれてどうもありがとう」
「俺はテノラス帝国皇帝のアルグライヴ、こちらが妻のジュエリナだ。道中弟が世話になったな」
「勿体ないお言葉です」
ぺこりと頭を下げ、ジュエリナにも自己紹介する。
挨拶を交わしている間にも朝食は給仕されていく。あぶりベーコン、ふわふわオムレツに瑞々しいサラダとオレンジジュース。そして何より艶々に輝くバターロール。
バターロールに目が釘付けになっていると、隣の席からクス、と笑い声が聞こえた。クラウディオをじとっとした目で見てしまう。
そのちょっとしたやり取りを見て皇太后がコロコロと笑う。
「報告通り仲良しなのね。この子ってばせっかく私似の美人に産んであげたのに一向に結婚どころか婚約もしないから心配していたのよ。もうアルに子供がいるから好きにさせているけど。でも本当に良かったわ」
機嫌良く話しかけられたが意味が分からない。ソニアが首を傾げると、皇太后も首を傾げた。
「昨夜、寝所を共にしたのよね?」
「!?ちっ…」
「母上、恥ずかしいのでやめてください」
反射的に否定の声をあげるも、クラウディオに遮られる。慌てて横に視線を移せば、長いまつ毛を恥ずかしげに伏せる男と目が合った。
〈ナニヲ イッテルッスカ!?〉
ソニアの口パク抗議をクラウディオは口の端を意地悪く上げて黙殺した。
(もうなんなんだ!この男は!?)
「クラウディオはね、物事を運ぶのが上手いというか、暗躍癖があるというか。子供の頃からアルの補佐官になるって言っていて、その頃は勿論可愛かったのだけれど。今はほら、ちょっと性格悪いところがあるのよ。顔に似合わず」
(いやもう、バリバリ顔に出まくってますケド!?)
「母上そんな、ソニアに僕の悪口吹き込まれるのは困ります」
「でもラウ、こう言うのは結婚前に知っておいた方がいいの。結婚してから騙された!なんて言われたら目も当てられないわ」
(いやいや、結婚しないし!どうしてこうなった!?)
そもそも自分が部屋を間違えたから、と考えて昨夜侍従から「お部屋にご案内します」しか言われなかった事を思い出す。
皇太后の「暗躍癖」の言葉と合わせるとなんとも嫌な予感がする。
目を限界までかっぴろげてクラウディオを見ると、すまし顔でナプキンを広げていた。
どこからどこまでが策謀なのかさっぱりわからない。
そんな和気あいあいとした空気の中、年嵩の侍従が足早に入室してアルグライヴに耳打ちする。アルグライヴは直ぐに立ち上がった。
「エーリズの先王が身罷られたそうだ。急ぎ使者の選定に入らねばならぬので失礼する。ソニア殿、ごゆっくり」
ソニアはアルグライヴの言葉になんとか会釈を返したが、内心冷え固まって行くのを感じた。
(ジジィ、死んだか)
朝食の席を辞したあとはどうやって移動したのか、よく覚えていない。
先帝の治療だけはしっかり行い、部屋へ戻ると聖女の制服が洗濯済みで置いてあったので袖を通した。
バルコニーに出て、遥かな地平を見つめた。舞い上がる髪をそのままに、膝をつき両掌を固く組み合わせる。
目を閉じて、祈った。
先王陛下の治療は宮廷筆頭聖女の担当だった。
若かりし頃の先王陛下は剣術に優れ、外交も上手くやり手であったと聞く。だが酒と女がやめられず、現王が成人する頃には、酒で内臓を壊しては治し、女が抱けぬと言えば治しを繰り返していたそうだ。
早々に退位し、王宮の奥で自堕落で享楽的な日々を過ごしていたという。せめてお酒の量を減らすよう、医者も聖女も宰相、息子達も言ったが、人の話は全く聞かなかった。
そんなある日、とうとう指が落ちた。前触れなく、唐突に。小指がいっぽん変色してポトリと落ちた。先王は背後にぴとりとつく死の気配に恐怖した。
今直ぐ指をくっつけろ!治せ!命令だ!出来ぬならお前を殺す!!そう叫ぶ一方で、急に泣き出して命乞いするのだ。どうか助けて下さい、と。
前筆頭聖女が奮闘していなければ、もう遠に寿命を迎えているはずだった。彼女は言った。「彼が憐れで仕方がないのよ。それにこんな事、他の聖女では魔力も足りないし頼めない」と。孤児で桁外れな魔力を持つソニアを手ずから育てた。
ぼろぼろの体で、それでも先王はお酒をやめなかった。前筆頭聖女は自分の生命力を毎日注いで彼女は先王の体を繋いだ。
前筆頭聖女が力尽きて、先王はやっとお酒をやめた。
途中、誰かがバルコニーを開けて背後に立った。だけどソニアは祈る事をやめなかった。
ソニアが宮廷筆頭聖女になった時にはもう、噂に聞いた面影なんか全然ない、先王はただ死に怯える気の小さい爺さんだった。
治しても治しても、水が乾けば崩れてしまう泥だんごみたいな体を前に、いつ治療をやめたらいいのか。誰も教えてくれない。言ったら死んでしまうから。
ダラダラとそんな日々が3年も続いた。
先王の心はもう疲れ果てていたと思う。だけどソニアもまた「もうやめよう」と言い出せなかった。
しばしば町へ降りて孤児院や治療院を回った。「ありがとう」と笑顔を向けられると、バラバラになりそうな心を繋ぎ止めることが出来た。
自分のしている事に意味がある、意味がない。絶妙な天秤のバランスは追い出された事で呆気なく傾いてしまった。
徒に苦しみを長引かせるだけで、意味などなかったのだと。
やっと目を開けると、既に夜の帳が下り始めていた。一番星がきらりと存在を主張する。ソニアは語りかけた。
「楽になれてよかったなジジィ。ごめんな。あたしがきちんと引導を渡せなくて。でももう怖くないだろ?前筆頭聖女も待ってる。迷わず逝けよ」
「そうして祈っていると本当のシスターみたいだね」
「シスターと聖女は違う。人が聖女に縋るかぎり、聖女は神を信じない」
ソニアが祈る間、声をかけず静かに見守り続けてくれた彼を振り返った。
既に室内に明かりが灯されていて、彼の顔は逆光になっていてよく見えなかった。
「クラウディオさんはもう知ってるんしょ?あたしがどんな人間か。あんたが調べてないはずない。あたしは人の死を望んだ、そんな聖女だって。よくお父さんの治療なんて頼んだッスね」
皮肉めいた口調になってしまって自嘲した。軽蔑した目で見られたらと思うと心がざわつく。
「僕だってそれくらいはよくあるさ。とある貴族が毒殺される情報を掴んだけど、いない方が僕の都合によかった為にその情報は見なかった事にした、とかね。…ああ、僕も神は信じてない。僕達は悪い奴って事で、お揃いだね」
クラウディオはゆっくりと歩を進めてソニアにふわりとストールをかけた。
揃いのアクセサリーを着けて照れるカップルの様な微笑みを浮かべられて、ソニアは拍子抜けしてしまった。
「それに」
そう続けて、クラウディオはストール越しにソニアを抱き寄せた。そんなに強くはない。押し返せば抜け出せてしまうような、恐々とした抱擁は拒むのを躊躇わせる。
「最近、今直ぐ手籠にしたいくらい気になる娘がいるんだが、どうにも僕に好意を持ってくれなくて、ついつい意地悪してしまう。僕は本当に悪い奴だとつくづく思うよ」
弱々しい抱擁とは真逆のジョークに、ソニアの肩から力が抜けた。
ストール越しに伝わる体温と、ふわりと香る花の匂いに逆立っていた心を慰められた気分だ。
「は、それは…優しくした方がいいんじゃないスか?」
「優しいだけだと逃げられてしまう気がしてね」
そう言って体を離すと、クラウディオはソニアを見つめた。
溶けてしまいそうな、熱量の籠った目を向けられて、さすがのソニアも気がつく。
ときめきより戸惑いが大きく、目を逸らすと「ほらね」と言わんばかりのため息が降ってきた。
「〜っ、温かい物が飲みたいよ!ほら」
袖を人差し指と親指で摘んで引くと、抵抗なくついてくる。その事が妙にソニアの心をくすぐった。