ハート①
西暦2030年、世界に衝撃をもたらしたあるゲームが発売される。
その名は『ロストアドベンチャー』。
世界初のフルダイブ型VRMMOだ。
何の事前告知もなく突然に発売されたそのゲームはやがて世界中で注目を集め、発売からわずか1ヶ月で100万本を売り上げるほどのブームを巻き起こした。
その理由は何といっても異常なまでのリアルさである。
まるでもう一つの世界を自分自身の体で冒険しているかのような未知の体験。
そんな数十年は先の話と思われていた技術を、そのゲームは持っていた。
だが、"ゲーム"は突如として終わりを迎えることとなる。
ログアウトボタンの消失という、最悪の形で。
『ロストアドベンチャー』からログアウトボタンが消え、現実世界への帰還が出来なくなったのと同時に、すべての町に存在する"教会"にあるものが出現した。
それは『戦死者の慰霊碑』と呼ばれる石造りのオブジェだ。
そのオブジェには、現在『ロストアドベンチャー』にログイン――否、閉じ込められている全てのプレイヤーの名前が刻まれていた。
だが、そのうちのいくつかの名前には斜線が引かれていた。
確認してみると、その斜線が引かれたプレイヤーはログアウトボタンが消えた後に死亡――つまりHPがゼロになっていることが分かった。
この世界で死ぬとどうなるのか。
それは誰にもわからない。
だが、プレイヤーたちの脳裏に浮かんだのは、一昔前に流行ったVRMMOをモチーフにしたデスゲームモノだ。
すなわち、HPがゼロになると現実世界の肉体も死ぬ。
かくしてデスゲームは始まった。
プレイヤーたちはラスボスを倒しエンディングを迎えれば元の世界に帰れるはずだという根拠のない希望を信じ、攻略を始めた。
幸い、ゲームの難易度はそう高いものではなかった。
しっかりと準備をし、引き際を間違えなければまず死なないようにできている。
エンディングの到達は、時間の問題だろうと誰もが思っていた。
誰もが、そう思っていた。
――デスゲーム開始時のログイン者数 36万1796人
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西暦2052年(デスゲーム開始から22年) 粘菌樹海
少女は走っていた。
そこは色とりどりの粘菌生物がはびこる奇怪な森。
少女のレベルでは到底入り込めないような場所だった。
少女は【ウッドスライム】という名の木に擬態した粘菌生物の奇襲を受け、大きなダメージを負っていた。
ウッドスライムは擬態を解いた液状の姿で少女を追う。
両者のレベルは実に倍近くも開いており、少女の勝ち目など微塵もない。
少女は何とか生き延びようと必死で足を動かすが、速さの差から、徐々に両者の距離は縮まってきている。
小回りを利かせてどうにか距離を取ろうとするが、不定形の粘菌生物相手ではそれも上手くいかない。
ふと、少女は足をもつれさせて転んでしまう。
急いで立ち上がろうとするも、ウッドスライムはすでに追いついてきていた。
組み伏せるように上に乗られ、一切の身動きが取れなくなってしまう。
ウッドスライムはまるで嬲るかのようにゆっくりと――
「『暗殺』!」
少女の上から、誰かの声がした。
この薄暗い森には似つかわしくない、はつらつとした声だ。
うつ伏せで組み伏せられていた少女には、何が起きたのかさっぱりわからない。
だが、その体に課せられた重みが消えたことから、ウッドスライムが倒されたのだと分かった。
自分では手も足も出せなかったあのウッドスライムが、一撃で。
少女にとっては、なんとも信じがたいことだった。
「よしよし。今日も快調、私は最強!」
少女は寝ころんだまま、自分を助けてくれた人物へと目を向けた。
そのプレイヤーは少女と同じくらいの年の頃の女の子だった。
頭の上に表示されるプレイヤーネームを確認するに、彼女の名前はハートと言うらしい
ハートは少女に合わせて膝をつくと、話しかけてくる。
「君、HP大丈夫?回復アイテムある?」
少女は首を横に振った。
これまでの道中で、回復アイテムの類は全て使い切ってしまったのだ。
「そっか。じゃあこれ使って」
そう言って、ハートはアイテム欄から液体の入った薬ビンを取り出した。
この世界の回復アイテムとしてごく一般的なポーションだった。
「遠慮しなくて良いよ! 困った時はお互い様ってね!」
そう言って快活に笑った彼女はとても眩しくて、まるでこの薄暗い森に一筋だけ光が差し込んだかのようだった。
少女はポーションを受け取り、ゆっくりと飲み干してHPを回復すると、空中に指を這わせてメニューウィンドウを開いた。
視界にうつる透明なパネルを操作し『フレンド』の項目をタップすると、ハートにフレンド申請を送った。
「フレンド申請……?」
言葉も発さずに唐突にフレンド申請を送ってきた少女に少し戸惑いながらも、ハートはそれを受理した。
すると、少女は再び指を動かし、ハートにメッセージを送った。
『たすけてくて ありかとう』
「ええと、なんでメッセージを?」
『ごめんなさ すこしわけが しゃぺれなくて』
たどたどしく誤字の多い文章なせいで少し読むのに苦戦したが、何やら事情があるようだ。
「喋れないの?そういうイベントとかってこのゲームにあったっけ?」
『いや そいうわけじゃ』
少女は言葉に詰まってしまったようで、指が止まったまま俯いてしまった。
そんな少女を見かねて、ハートは明るい声を出した。
「そっか。まあ、言いたくないなら大丈夫だよ」
それ以上追求してこないハートに、少女はホッと胸をなでおろした。
「それじゃあまずは自己紹介から。私の名前はハート。夜明けの探索者のリーダーだよ」
『どーん?』
「あれ、知らないの?未踏破区域をいくつも攻略した今話題のギルドなんだけど」
『わからない です』
「まあそれはいいよ。それよりも、レベル300もないのに1人でこんな所まで来たらダメでしょ」
フレンド登録したことで互いのレベルが名前の横に表示されるようになっていた。
それによると少女のレベルは179。
一方、この森の推奨挑戦レベルは280となっている。
なお、そのレベルはパーティで挑む際の推奨レベルなので、ソロならばさらに上のレベルでなければならないだろう。
少女はハートの言葉に返答せず、しばらくじっと俯いていた。
やがて、意を決したように顔を上げ、ハートにその眼を向けた。
『わたし つよくならなきゃ いけないんです』
強い意志と、なんらかの決意を秘めたその瞳。
何があったのかは分からないが、少女はどうしても強くなりたいようだ。
その為に、こんなレベルの見合わない危険な場所に来たのだろう。
少女がハートをじっと見つめているのと同様に、ハートもまた少女を見つめ返す。
背丈が似ているせいか、まるで鏡を覗き込んでいるかのような錯覚を覚えた。
ハートは両の人差し指を少女の口元に持っていくと、頬を押して口角を上げさせた。
「――強くなりたいんなら、そんな暗い顔してちゃダメだよ。笑ってる人が、1番強いんだからね」
そう言って、お手本を見せるかのようにニッコリと笑ってみせる。
光が差し込んだかのような笑みだった。
少女もまた、ハートに習ってニィッと笑ってみる。
笑い慣れていないのか、泥のような笑みだった。
「それにほら。これはゲームなんだし、楽しまなきゃ損でしょ?だから、笑って戦うの」
諭すように笑いかけるハートに、少女はコクリと頷く。
そんな少女の様子を見て、ハートはあることを思いついた。
「ねえ――」
話しかけようとして、そういえば名前が分からないなと頭の上辺りを確認する。
〈ジュジュ〉。
それが少女の名前だった。
「ジュジュ、私のギルドに入らない?」
予想だにしていなかった突然の申し出に、ジュジュは目をぱちくりと瞬かせる。
一体全体どうしてそんな話になったのだろうか?
「よし、そうと決まればとっとと街まで戻ろっか。善は急げ、だよ!」
『いや わたしまだなにも』
「レッツゴー!」
困惑した思考を置き去りにして、ハートはジュジュの手を引いて街への帰り道を歩き始めた。