【まるくてしろい】(美幸・真雪/『心ひらく鍵のありか』)◇現実世界
「心ひらく鍵のありか」より。◇現実世界作品
「零れ落ちる時のありか」のラストシーンより前の、遠距離恋愛中の美幸と真雪です。
真雪が唐突に言った。
「ケーキ、買いに行こう!」
私に会いに来てくれた真雪とは、今、遠距離恋愛中。
互いの父母の再婚で義姉弟になった私たちは恋と葛藤を経て、親を泣かせて、それでも今、義姉弟から恋人へと変化の真っ最中をすったもんだしている。
なんといっても、就職した真雪は地方の研究所勤務の土日が休日、私は勤務する課が変わって休日が不規則になって、とにかくスケジュールが合わない。互いにビデオ通話だとかメッセージアプリとかで話したり近況報告はできるとはいえ、なかなか直接会って話せないし、私は本心を言えば寂しさを感じていた。
でも、これが長年の「姉」の立場の習性か、それとも私自身の強がりなのか、なかなか言えないまま、とにかく次に会える予定をとても楽しみにしていた。
それが今日――師走のクリスマスを来週に控えた週半ばだ。
真雪の研究所が今日と明日の二日間、所内の一斉点検が入るそうで、上役以外はお休みになるという奇跡が起こった。新入りの真雪は今日一日と明日の午前中はまるっとお休みで、午後からは研究所の点検後の各片付けの手伝いにいかねばならないということで、明日の昼前には帰路についてしまうのだけど――本当に本当にふって湧いた、奇跡の一日半。だって私も今日と明日はお休みなのだから。
私はここずっと0時近くの帰りになっているから、真雪の方が朝一番の特急を使って私の部屋に来てくれて――……。
その、扉を開けて迎えた開口一番。「ケーキ、買いに行こう」って?
「ケーキ?」
私は戸惑って、真雪を見つめ返すしかなかった。
でも私の瞳を見つめ返す真雪の表情はいたって真剣だ。
「うん。ケーキ。丸くて白い、ホールケーキ」
そう言いながら彼は着替えの入ったボストンだけは玄関先に置きボディバックだけを肩にかけた。
そして当たり前のようにして私に手を差し出した。
「ちょうど開店時間くらいだろ、買いに行こう!」
唐突に、ケーキ。
それは不可解だったけど。
でも私は真雪に会えたのが嬉しくて、普通にさしだれた手がとても嬉しくて。
わけがわからなくとも、その手に自分の手を重ねていた。
****
どうしてケーキなのと聞いても、真雪は「食べたくなった」としか言わない。
たしかに来週クリスマスとあって、デパートの菓子売り場やスーパーでもクリスマスケーキのポスターがあちこちにあり、甘いお菓子の詰め合わせも赤と緑でラッピングされたものがあふれかえっている時期ではある。影響されて、ふだん甘党というわけでなくても、ケーキを食べたいふと思う機会は多い季節かもしれない。
でも、遠距離恋愛の彼女の家に着いて、真っ先にケーキを買いに行こうというのはさすがに奇妙じゃない?
誕生日というわけでもないし。
不思議と不審の混じった目でケーキ店を目指す真雪の横顔を何度も見たからだろうか。
とうとうお目当てのケーキ店のある商店街にさしかかったところで、真雪が息をついた。
「……先月、電話で。会社の人がケーキの話して、美幸、食べたくなったって言ってたから」
「え? 私が?」
真雪の言葉に一瞬、そんなこと私、言ったっけ……と思って、ケーキのこと会社で話すなんて……と思って、ふと前の部署の安東くんの無防備な笑顔が頭の隅を横切った。
「あ、安東君のケーキの話!?」
私が思い出してついついそう声をあげると、真雪がほんのちょこっとだけ眉をぴくっと動かした。
「……そう、安東くんの話」
「え、あれ、先月のはじめころじゃない……よく覚えてたね」
「まあね」
そう言って、真雪がぎゅっと私の手を握る手に力を込めた。
二人で手をつないで歩く。
こんな些細なことも、前は義姉弟の関係で出来なかったし、今は遠距離恋愛という距離があって出来ない。
「……安東くん、前の部署での後輩なんだけど、あの日たまたま会って……そうだね真雪に電話で話したね」
「うん。その人が、彼女とホールケーキ二人で食べきったって聞いて、私もケーキ食べたくなったって、美幸言ってた」
「そうだね」
私はそのことを思い出した。
そうだ、あの日、まだ葉の色もさほど赤や黄になっていない頃。たまたま前の部署があるオフィスに届けものがあり寄ったら、安東くんがいて。ちょうど昼休憩の時間がすぐ来たから、久しぶりに近くのカフェで彼の近況報告や仕事の状況を聞こうと思って一緒に昼食を摂ったのだ。
安東くんはひとしきり仕事の現況を語ったあと、めずらしく「プライベートなことなんですけど……誰かに聞いて欲しかったけれど、カノジョの友達や自分の友達にはなんだかちょっと話しにくくて……」と前置きしながら、照れつつカノジョとのエピソードを話してくれた。
――……ホールケーキをカノジョさんと二人で食べた話。
その話を思い出して、私はまたちょっとふっと1人笑ってしまった。
「ほら、そういう風に笑う……」
真雪がふいに顔をのぞき込んだ。ちょっとだけ……真雪の目が拗ねたときに見せる色をのせているように感じた。
「そういう風に笑うって?」
「”安東くん”の話するとき、ちょっと気がゆるんだ声になる。後輩で気にかけてるのはわかるけど」
「そうかな」
「うん。電話で、安東くんが彼女さんとホールケーキ二人で食べきったんだって、と話したときも、なんかほんのり笑った感じで話してた」
「あぁ、可愛らしいなと思って」
そう言って真雪を見上げると、彼はちょっと困ったような顔になった。
「どうしたの、真雪」
「……いや、あのさ。美幸は……その……」
「なあに」
真雪がちょっと心配げに眉を寄せた。
「そういう二人の惚気話を聞いて……その……遠距離恋愛、辛くなったりしない?」
私の手を握る手がしっかりと私をつかむ。
もう離さない――そんな意志が伝わってくるような、力強さ。
けれど、彼が見せる瞳も、その声も、不安を抱えていると感じた。
「……美幸が寂しくならないかって……」
「心配してくれたんだ?」
真雪が濁した語尾をすくいとるみたいに、私は言葉をかけた。黒の真雪の綺麗な瞳がかすかに揺れる。
いろんなものが入り混じってる。彼自身の不安、彼自身の寂しさも。でも――こういう表情は知っている。
真雪の優しさ。
父を亡くした私の心に絶対に土足で踏み込まなかった、彼の繊細な気遣いかた。それは彼を育てた彼の父の――今、母の夫となってくれた――あの人の強さと懐の大きさを感じさせる優しさだ。
「大丈夫だよ、安東くんの話を聞いて、可愛らしいなぁ微笑ましいなぁは思ったし、もちろん、一緒にいられていいなぁくらいの羨ましさは感じるよ。真雪と会えない時間に寂しさを感じるときだって、もちろんある」
真雪がこちらをじっとみる。
でも、私は強がりじゃないってことを伝えたくて、私も彼を見上げた。
「でも、辛いわけじゃないの」
うまく伝わるだろうか。寂しい、会いたい、そばにいたい――たくさん思う、それは思ってる。安東くんのエピソードにうらやましさだってある。
だけど、それ以上に感じる想い。
「……寂しくても、次に会える時間を楽しみに楽しみにとっても楽しみに待ってる」
「美幸」
「……待っていられる関係なのが、嬉しいんだから」
私がそう言うと、真雪は握ってる手をさらにぎゅうって力を込めた。
「いたいよ」
笑っていうと、真雪ははっとしてごめんって謝りながら手指の力緩めた。でも握った手は離さなかった。私も彼の手をはなさないように指をからめた。
「お店、あそこだよ。ケーキ屋さん」
私が指さすと、真雪がそちらを見た。
「……丸くて白いケーキ、あるといいね」
私が声をかけると、彼は目を伏せて小さく頷いた。
寂しがっているだろうと心配して、私が食べたくなったと呟いただけのケーキを、いちもくさんに買いに行こうと誘う真雪。お土産にスイーツを買ってくるとかじゃなくて、私の話を聞いたそのままに、ただただ叶えてくれようとするその一途さ。
……丸くて白いケーキ、か。
私はあたたかい気持ちになりながら、真雪とケーキショップのドアをくぐった。
とたんに甘い香りに包まれる。
駅前のちょっと商店街の入ったところに、この美味しいケーキ屋さん。名前はちょっと古風な「ケーキハウス一葉」。私はこの店のシンプルで優しい味が好きだ。いつ食べても、ほっとして元気がでる。
街の人気店なので、地域情報誌などに取り上げられることもある。その写真からすると店長のパティシエさんは茶髪の小柄なイケメンで凄く華やかな雰囲気な人だ。でも、店がまえも彼が作り出すケーキも優しくてロマンチック。近隣では人気の店だった。
開店してまもない平日なのに、すでに何組かのお客さんがガラスケースにならぶケーキを選んでいた。ホールケーキの側はあいにく人がいて、私と真雪はまずショートケーキの側で待つことにした。
目の前の艶々とかがやくガラス越しのケーキたち。
クラシックショコラ、苺ののったオーソドックスなショートケーキ、果物をのせたタルト、焼き色がうつくしいチーズケーキ。クリームをはさみパイ生地をかさねているミルフィーユ。
これらの懐かしい昔からのケーキの合間に、ホテルのスイーツビュッフェで見かけるような季節限定や今年のスイーツの流行を取り入れた洒落た瀟洒なケーキも用意している。
さまざまな購買層を意識した品揃え。分野は違えども、バイヤー的な仕事も抱えることがある私は、ついつい感心してショーケースを眺めた。
可愛らしい古風なケーキハウスの外装をしていながら、営業的にはかなりマーケティングを重ねて売り出すケーキを吟味して選択している感じ。絞り込まれたレシピなんだろう、オーソドックスなものと新進気鋭のものと。ちらりとレジの方をみれば、売り子は深緑基調の制服で統一され、学生くらいの年齢だ。接客はアルバイトの人を雇っているとすると、どんな風に購買層の年齢や販売状況をつかんでるのかな。
いろいろ考えながらケーキを見ていると、横で真雪が言った。
「ショートケーキばかり熱心にみてるけど……やっぱり切ってるケーキがいい?」
こちらの意をたずねる表情に我に返る。真雪はホールケーキって言っていたのも思い出した。
「ごめん、ついつい営業形態について考えてて」
「職業病……」
彼の呆れたみたいなつぶやきに、もう一度ごめんとあやまった。
「そ、そういえばホールケーキって、珍しいよね!」
「うん、まぁ。でも無理しなくても……」
「そんなことない。ほら、私たち四人で暮らしてもホールケーキは買わなかったし。母はケーキよりラーメンでカロリー摂りたい人だし」
「父さんはケーキより和菓子派だし」
お互いふふっと笑う。
「お誕生日ケーキも、私と真雪それぞれカットケーキ、好きなのを二つ選んでたね。お誕生日の人だけ数字のロウソクたてて」
「そうそう、それで互いに別々の種類のケーキ選んで、切り分けて交換して……いろんな味楽しめるよなって」
懐かしい記憶に一緒に笑う。
姉弟として暮らした時代――そう、あの時間だって、辛かったわけじゃない。とても大切な時間で、否定しちゃだめなのだ。あの日々があったから、今がある。
義姉弟から恋人へ――……周囲にすぐに理解はしてもらえなくても。義姉弟だった時間も、そして恋人となった時間も。
「恋をしなさい」そう言われたことの大切さを、いまさらながらに思う。
焦るんじゃなくて、今、じっくりと――ひとつひとつの絆を大事に結んで、味わうということ。
「じゃあ、やっぱりカットケーキにする?」
真雪が聞いたので、私は首を横にふった。
「あの思い出も楽しかったし大切だけど、今日は小さいホールケーキ買おうよ」
ガラスケースの左半分にある、丸いケーキやロールケーキが並ぶ箇所。
大きな丸いケーキ、小さな丸いケーキ、いろいろある。
「何号っていう数字、3倍したら、ケーキの直径になるらしいよ」
真雪が隣でそう言った。
「そうなの? じゃ、6号って書いてるのは直径18センチってこと?」
「そうじゃないかな、クリームとかぬってるし、どこを直径と捉えるかだけど」
たぶん調べてくれたんだろうなと思った。私の安東くんのケーキの件を電話聞いて。きっと。
いろいろ見ながら、私は目に入った小ぶりのケーキのほうを指さした。
「あの小さいの……4号、12センチか。ちょうど良さそうじゃない? 可愛い」
白くて丸くて、苺が二つのっていて、真ん中に可愛らしいピンクのバラの砂糖菓子。
リボンみたいにクリームがしぼられている。
真雪の顔を見上げたら、真雪も私を見下ろしていて。なんだか眩しいときにするみたいな表情をしていた。
「真雪?」
「うん、そうしよ。俺もあれがいいなって思ってた」
優しい顔をして、真雪はそう言った。
二人してケーキを買って、崩さないように大事に大事に持って帰る。
そーっとそーっとリビングのローテーブルの上で箱から出す。真雪がケーキ皿とフォークを運んできてくれた。
「まるいケーキ、可愛いね」
「うん」
二人でケーキをじっと見てた。
なんだか不思議な気がする。
ふたりでまあるいケーキを前に、ふたりで恋人として並んで座っていること。
顔をあげると、不意に真雪が私の頬にキスをした。
彼の髪が顔にかかりちょっとくすぐったくて目を細めると、すぐに真雪の顔は離れていった。ほんの少し頬が赤い。
「……ケーキもかわいいけど、美幸も……可愛かったから」
キスした理由もたずねていないのに、言い訳みたいに真雪はそう言って、さらに言ったあと顔をもっと赤く染めた。
「あ、あんまり見つめるなよ……」
困ったようにそう言われて、私は自分が真雪を凝視していたことに気づいた。そんな私の表情の変化を見て取った彼は頬を赤らめたまま眉を寄せた。
「い、いやだったならあやまるけど」
「ううん。嫌じゃないよ」
即答した。
当たり前だ。嫌なはずがない。ただ、不意のキスも照れた顔も、甘い言葉も、自分の言葉でさらに顔を赤くして焦る姿も――全部全部、私の中に刷り込むみたいに、見てた。忘れたくない、全部。
そばにいるということ。今、隣にいるということ。
「嫌じゃないし、真雪はさ、言い訳しなくても前おきしなくても、私にしていいんだよ?」
「は?」
「私が許す。頬じゃなくても、キスしていい。不意打ち大歓迎」
「……大歓迎」
繰り返して。
真雪はうなだれた。
「どうしたの?」
「えっと、まあなんというか……美幸の器が大きすぎて、戸惑ってんの。……ケーキ食べよ」
真雪はそう言って、ちょっと私の頬をぷにっと指でつっついたと思ったら、即座に立ってキッチンの方に行ってしまった。後からついていくと湯沸かしポットの熱湯をボールにそそぎ、そこに包丁をつけている。
「カットするとき、温めるといいんだって」
「それも、調べてくれたんだ?」
「え? あぁ、ネットっていろんなこと調べられるよな」
そんなことを言って、温めた包丁と布巾を持って彼はまたローテーブルのケーキの前に戻った。
「蝋燭いらない?」
「いらないよ」
笑って答えると、真雪はちょっとこちらをうかがうようにみてから口を開いた。
「一緒にケーキカットする?」
真雪がちょっと冗談めかしていって、でも目は真剣で。
私はその顔をちゃんと見て、彼の目を見て、首を横に振った。
「ううん……将来にとっとく。そのときは、一緒に切ろう、丸くて白いケーキ」
「……うん」
元来器用で細かなことが上手な真雪は、きちんと苺と飾りを最初に別のところにおき、ケーキに刃を入れた。あたためた包丁のおかげか、クリームが広がらず綺麗に切れる断面が見える。
「こぶりのケーキでも、ホールを二分の一ってなんかすごいな」
「180度のケーキって、上から見ると分度器だね」
お互いにしみじみ半分になったケーキの姿に感想を述べあいながら、ケーキ皿におく。真雪は几帳面にクリームの切り口を気にしながら、避けていた苺とバラの飾りで分かたれたケーキを飾ってくれた。
スポンジとクリーム、挟まれた薄切りの苺が見える、ケーキ。不思議な形。
「じゃ、食べよ」
真雪のことばに頷いてケーキにフォークを当てようとしたときだった。
本当にふいに、前の安東くんの話を思い出してしまった。カノジョさんと食べたホールケーキの話。
ふふっ
思い出して、またちょっと口元がゆるむ。
そのとき、また頬に熱を感じた。
すぐさま離れていったけど。
見れば、横には明らかにじっとこちらを見つめる真雪の顔。押し殺してるみたいだけれど、にじみ出てる拗ねてるモード。
「……いま、安東くんって子のこと思い出しただろ」
真雪の鋭い指摘に私は肩をすくめる。真雪はすねたみたいに、ケーキにフォークをさして、一口たべた。美味しかったのか、その時だけちょっと口元をほころばせたけど、私が「おいしい」って聞くと、またちょっとわざとながら拗ねたみたいな表情で私を見た。
「思い出したのは正確には、安東くんとカノジョさんのホールケーキを食べた話だよ」
言い訳みたいに私がそう言うと、真雪はケーキをまた口にして飲み込んでから、ため息をついた。
「せっかくケーキ美味しいのに、どうして、いま、そこで他の男のこと思い出しちゃうかなぁ」
「やきもち?」
「……悔しいんだよ、なんとなく。……その人、単なる美幸の後輩とわかってても」
「私が思い出し笑いしてるのが引っかかるんでしょ?」
冷静に指摘したら、真雪ががくっとうなだれた。
「……直球で言ったらそうなんだけどさ。なんか、それ、俺、馬鹿みたいだ」
「いや、まあ、カノジョが他の男性のことで何度も思い出し笑いされたらイヤだと思うよ。私だって、真雪が誰か女の子のこと思い出してはニマニマしてたらつらいし」
「美幸、本当にそう思ってくれるのかな? 不安なんだけど」
「当たり前だよ、やきもちくらいや。ただ、……言い訳めいてるけど、さっきの安東くんの話はさ、安東くんの話っていうかそのケーキの食べ方をね、思い出して笑っちゃうの。電話では詳しく話さなかったけど」
「え? 食べ方?」
真雪は不思議そうな顔になる。
私は真雪にやきもちをやかせてしまった申し訳なさを感じつつも、ついちょっと嬉しさも感じたりして困った顔になりながら説明した。
「だってさ、安東くんのカノジョさんね、ホールケーキ買ってきて、こうやって私たちみたいにテーブルにだして、そのまま、安東くんにフォークわたして自分もフォーク持って。そのままケーキにブスッと差して食べ始めたんだって」
「切らずに?」
「うん」
真雪の声が思いのほか驚きを表していて、やっぱりそうだよね驚くよね、と嬉しくなる。私も驚いたのだ。
「そう、切らずに食べたんだって。安東くんもびっくりする前で、カノジョさんが『恋人同士だからするんだよ』と言って、ふたりでつっつくみたいにしてケーキ崩して苺とか飾りをわけつつ、どんどんホールケーキ食べたんだって。しかも、しかもだよ。なんか6号っていうのかな……コレくらいだったらしくて」
私が手で示すと、真雪が唖然とした表情になった。
「それって、六号……直径18センチ!?」
「たぶん、そう。ファミリー用の大きさのケーキだったらしい」
『カノジョがホールケーキ持ってきたときは、切り分けて、冷蔵庫保存するものだと思ってたんですよ。なんなら冷凍保存もできるし。でも、まさか二人でたいらげることになるとは思ってなくて』
困ったように。でも愛しそうにそう言った安東くんの表情はとても優しかった。
でもケーキは当分いらないですって、カフェのメニュー表を見ながら言ってたから、やっぱり6号を二人で食べるのって相当きつかったんだろうなとも思う。
それも含めて、なんだか二人の姿を想像して微笑ましかったのだ。
私が微笑んだからだろうか、真雪が今度はちょっと心配げに私の顔をみた。
「もしかして、同じようにしたかった? ケーキのサイズも、丸いままの方が良かった?」
切り分けたことを悪かったと思ってる表情だ。そんな彼に私は「ううん、真雪がカットしてなかったら私が切ってたよ」と答えた。
「私たちって、ほら、子どもの頃もお互いのケーキわけあうとき、ちゃんとナイフで切り分けて交換してたでしょ? ケーキって見た目もあると思うから、私にはこうして食べていく方がむいてるよ」
そう話すと、真雪がそれでも戸惑ったみたいに私の顔を見て、今度は手元のケーキを見た。彼はすでに数口食べている。
会話が途切れ、私もやっとケーキを食べようとフォークを持ったときだった。
不意に真雪はフォークをケーキにさして一口分すくい、私の方へと差しだした。まるで味見を促すみたいに。
「え? 同じ味のケーキだし、味見しなくていいよ」
私がとっさに応えると、真雪はちょっと首を傾げた。
ゆっくり瞬く、その瞳。つややかな真雪の黒い瞳。
真雪は何も言わなかった。でも、そのフォークにささったひとかけらのケーキを、そっと私の唇の元にもってくる。
私はそっと口を開いた。そして、その甘いクリームとスポンジに口に入れる。真雪がすべらせるみたいに、フォークを私の唇からそっと引き抜いた。
私が真雪の顔を見ると、真雪は私の目を見て、そのまま視線を動かした。私の口元。そして、いましがた食べさせた、フォーク。
――……間接キス。はじめての。
昔、ケーキを交換するときも、きっちりナイフで切り分けて、口にしていないフォークですら取り分けたこともなかった。小さな線引き。
恋人になってキスはしても。ハグはしても。手をつないでも。
真雪は何もいわずに、でも、そのままそのフォークでまた自分もケーキを食べた。
私もまた、自分のフォークでケーキを一口分さして、自分の口にいれる。
同じ味。さっき真雪からもらったものと。
「ケーキハウス一葉」のやわらかな生クリーム。甘さひかえめなはずなのに、今はとても甘い。気持ちが――……とろとろと甘くて。
ケーキを一口分フォークでとって、真雪の方を見た。
「……ウエディングは丸い白いケーキが絶対いいって私が言ったの、覚えてたの?」
野暮だけど確認したら、真雪は頷いた。むかし、なにかテレビでみていて、ウエディングケーキに、淡いピンクとかパステルブルーとかもあると紹介されていて、一緒に見ていた私は言ったのだ。丸くて白いのがいいって。真雪がどんな返事してたか知らないし、ほんの何気ない日常のテレビを見ているリビングの風景だったはずだ。
「覚えてるよ。あの頃は、まだ、女性として好きとかそういう感情じゃなかったと思うけど。……でも、この人の願いは叶えてあげたい、全部全部叶えたいとは思ってたんだ」
「……馬鹿ね。私は自分で夢をかなえるタイプなんだけどな」
「うん、知ってるよ。それでもさあ。やっぱり、叶えてあげたいって思う衝動は消せないんだ」
真雪がそう言って、苦笑した。
私はそんな彼にケーキをひとかけらむける。
真雪は綺麗な唇をひらいて、私が手にするフォークからケーキを食べた。
ほんの少し唇がクリームでつややかに照って、真雪が親指でそれをぬぐった。それが色っぽくて、直視するのが恥ずかしくて私は目をちょっと細めた。
「こうやって、初めてを重ねてくんだね」
私がそう言うと、真雪が私に向かって肯定するみたいに微笑んだ。
ひとつ、ひとつ。階段をのぼっていく。もちろん周囲との軋轢の解消も含めて。
でもこんな、ケーキひとつ、食べ方ひとつも、私と真雪で一緒に自分たちの『かたち』を作っていくんだ。安東くんのところみたいな分かち合い方もあれば、私たちみたいな一緒の食べ方もあるみたいに。
「……恋をしようね。私たちだけの」
そう言ったら、もういちど真雪が頷いた。
だけどしばらくして、悩むみたいにして眉間をさする。
「……ちゃんとあとでコーヒー淹れないと、だめかも」
「ん?」
「甘すぎて。朝なのに溶けそう。一日これからなのに」
困ったように前髪かきあげて真雪が言った。
「じゃ苦いやつ淹れてあげる」
私がそう言ったら。
真雪はまた首を傾けてしばらく考えるようにしていたけれど、そのまま私の肩にほんの少しだけぽてっと頭をのせた。
重さは感じさせない、ごくごくちょっとした触れ合いかた。
ほんの少し甘えるみたいな。
また初めてが増えたのかもしれないな、なんて思いつつ、微かにどきどきしながら私はケーキの苺を口に入れた。甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「……結局美幸が俺にくれるものは、さ」
真雪が私の肩にささやきかけるみたいにして言う。肩から、彼の声が響いてきてドキっとした。
まだ口に苺があって返事ができない私のことを、肩のところから真雪は仰ぐみたいにして見てきた。めずらしい角度の彼に、また魅了される。
「美幸から与えられるものは、ケーキでも言葉でも笑顔でも。待たされる時間でも、離れてる切なさでも、苦いコーヒーでも。全部、俺にはとろけるみたいに甘いんだよな」
そう言って、真雪は微笑みながら私を見つめる。まるで眩しいものを見るみたいに。
―――そうかな。わたし、真雪に甘いものをあげられているのかな。
不安もよぎって。でも、真雪の真摯な瞳が自分の中にうまれる自信のなさを振り払ってくれる。
そう、甘さも苦さも全部分かち合うって決めてここにいるんだから。
私は彼にそっと顔を近づけた。
「――……お互いさまだよ」
って囁いて。
苺の味を、彼に分けてあげた。
今は、ケーキの上の赤い果実の甘酸っぱさを、堪能しよう。
ひとつずつひとつずつ。
いつかケーキを二人一緒にカットできる日まで――……。
fin.