噂話
その日、彼女は いつも通り文立学園大学へ通学してきた。
必要書類を携えて、彼女が真っ直ぐに向かうのは大学の学生課だ。
だが、その足取りは嫌に重たい。
まるで下半身が鉛になったかのように足が前に進まないのだ。
学生課は、A棟の2階にある。A棟は大学内で2番目に古い建物で、エレベーターが1機しかない。さらには、そのエレベーターも故障中ときている。
つまり重たい足を引き摺りながら階段を登る必要があるわけだ。
「ーーーチッ」
エレベーター前に掲げられた《故障中》の立て札を見て、彼女は苦々しく舌を打ち鳴らした。
たったの2階だ。階段を10数段登れば済む話なのだが・・・今の彼女としては、非常に煩わしいし 面倒臭い。
だが、いつまでも故障中のエレベーター前で うろうろしている場合ではない。
彼女は、さっきと自主退学の必要書類を学生課に提出しなければらならないのだ。
提出が少しでも遅れると、また あのウザったい北郷とかいう職員にネチネチと文句を言われるハメになる。
それだけは、絶対に避けたい。
自主退学で精神的に参っている今、北郷のネチネチとした口撃に晒されようものなら、キレて何をしでかすか分からない。
「ーーーッ」
彼女は、ぐぐぅ て拳を握り込み、ぐつぐつ と湧き立つ怒りを 必死に自分の中へと押し込む。
そして、「ふぅ」と息を吐いて、大人しく階段を登って学生課まで向かう事にする。
階段を登る中、彼女はアンガーマネジメントが上手くなったと自らを賞賛していた。
否。
少し前に、ストレスの原因を排除できた事が、彼女の我慢強さに繋がっているのだ。
「・・・」
彼女は、つい昨日の出来事を思い出して ほくそ笑む。連動して、階段を上がる彼女の足取りが軽くなった。
自主退学の件は、はっきり言って最悪だ。この先、未来の展望もなければ、これまでの大学生活で培えたものも少ない。さらには、金もないときている。
人生詰んでいると言っても過言ではない状況だ。
だが、人生を詰むに至った “原因” を排除できた事で、彼女は少しばかり前を向けるような気がしていた。
「・・・そうだよ。今が最悪なだけだよ・・・この先の人生、きっと良いことで満ち溢れている」
ぽつり と そう言ったと同時に、彼女は A棟2階の学生課前まで たどり着いた。
あとは、自主退学の書類を学生課に提出するだけだ。
学生課前は、エントランスのようになっており、多くの学生の憩いの場のようになっている。
だが現在は、講義の時間ともあり、エントランスにいる学生は まばらだ。
彼女は、そんな まばらに散らばった学生の間を縫うようにして学生課の入り口にまで向かう。
その時だーーー、
「ーーー堀沢くん、どうやら軽傷で済んだみたいね」
「ーーー!」
よく知っている名前が、彼女の耳に飛び込んできた。
「うん。通り魔に襲われたって聞いた時は どうなる事かと思ったけど、擦り傷で済んで 本当に良かった」
「だねー。あ、そうだ! お見舞いは行った? 行ってないなら一緒に行こうよ。すぐそこの市民病院に入院してるみたいだし」
「いいね! ぁ・・・でも、病室って分かるの?」
「大丈夫だって。昨日、サークルの先輩がお見舞い行ったらしくてね。その人に聞いてるの。本館3階の317病室だって」
「そう、それなら良かった。じゃあ、今日にでも行こうか」
「そうだね。なんか、明日には通り魔事件の件で 警察の事情聴取とかが始まるみたいだから、今日くらいしか時間がないだろうしね」
「事情聴取かぁ・・・なんか大変そうだね。ぁ、でも・・・堀沢くん、犯人の顔を見たそうだから、案外すぐに事件が解決して解放されるかもね」
「・・・!」
瞬間、彼女は びくんっ と肩を震わした。
「だね。堀沢くんの証言があれば、事件は解決したも同然だ。卑劣な通り魔犯も すぐに捕まるね」
「・・・」
エントランスで話していた2人組の学生は、それだけ言って 場を後にする。
しばらく後・・・話していた2人組が気づかない距離まで離れた事を確認した彼女は、学生課に背を向けて彼らの後を追いかけていった。




