《19》成れ果てた女神は狂った魔女。
「……疲れた」
心地良い倦怠感、なんて物じゃない。
正直言って最悪だ。
虚しい気持ちになる。
センチメンタルな気分になる。
「お疲れ様でした」
身体を冷やさぬように、彼はストールをかけてくれた。
優しい。嬉しい。
「結局、引き分けね……」
そんな言葉に、水の「法」を操る魔女の従者――眼鏡の男は、言う。
「毎度の事ながら、貴方たちの戦いはハイレベル過ぎますね……。私たちなんか入り込む余地も無い。ずっと二人で喋ってました」
「あなたね……、他にする事があるでしょう?」
「巻き込まれて怪我はしたくありませんし、それに、後方支援は無粋でしょう?」
「まぁ、そう、ね……」
三千戦三千引き分け。三千勝三千敗。
正確には、三千一戦、三千一引き分けだが。
「それにしても、私も衰えたわ。操作の範囲と許容量が随分下がっちゃった。年かしらね?」
「あれで年だとしたら、貴方は神ですよ」
「あら、私は元女神よ?」
それに、従者が含み笑う。
「そうでした」
そこで、少し沈黙。
水の魔女は見る。
禍々しすぎる、白い月を。
その月には、神様が棲むという。
世界の全てを見る、神様が棲むという。
神の棲むそこは《楽園》だという。
「あれの何処が……」
魔女は肉薄する。
あそこは、多分地獄のような場所だった。
毎日がつまらない。
毎日が退屈。
争いは駄目。
快楽も駄目。
恋も、愛も、前面禁制。
醜い事は全部駄目。
そうして出来た、《楽園》。
「唯一の楽しみといえば、アレだもんね」
「アレ、ですか。正直言って、アレの事を最初に聞いたときは、呆然としましたよ」
「私も、小さい時はキャッキャしながら見たものよ。あー我ながら恥ずかしい」
「昔の日本で、諺というのがありましたよね」
「そう。あったわ。アレを表すのに最適な諺が」
「正直言って、今でもあの化物共の思考が、僕には全く判りません」
「私も、今は全く共感できないわ」
恋も、愛も、前面禁制。
つまんない。
つまならなすぎる。
だから私は堕ちた。
魔女になった。
あの子が堕ちて、とても幸せそうで、羨ましくて、だから私も、仮初でも恋をして、そしていつしか本気で彼を好きになっていた。
幸せだ。
本当の本当に、充実した毎日だ。
飽きることの無い。
つまらなくない。
そう思った。
「けれど、その素晴らしい世界が、殺されようとしていたら……?」
「私たちは、何をするべきでしょうね?」
「……そんなの、決まってるわ」
「へぇ、良かったら聞かせてください」
「戦争よ」
「ありゃりゃ、血生臭いですね」
「いいじゃない。自分より上位がいないことを良い事に、王様気取ってるあいつらを叩きのめすなんて、この上なく楽しそう」
「そう簡単に行きますかね?」
「さぁ」
でも、と魔女は続ける。
「私たちには、あの子がいるから」
「もうすぐ目覚めますね」
「出来れば狂わないで欲しいわ」
「狂っても良いと思ってる?」
「まさか。狂わないことを祈ってるわ。けれどね、狂っても、あの子は多分化物共を殺すでしょうよ」
「それはそうだ」
「だってあいつらは、あの子を……」
「まぁ、それはあの子の記憶が戻ったときですね。問題は、そろそろ《扉》の封印が解かれてしまうという事です」
扉。
全てを封じ込めている、扉。
内面的隔たり。
力のダム。
「闇の力は、本来の有るべき場所へ。今も刻々と譲渡されています」
「何事も無ければ言いのだけれど……」
「ルシアは、無自覚に力を取り戻しつつある。闇の力を、あの子から剥奪しつつある」
「そうね」
「まぁこれはしょうがない。彼女の、彼女の本来の目的は、あの化物共に復讐することだ。その為の儀式。その為のあの子。きっとあの子はまた裏切られる」
「………………」
そうなる、だろう。
ルシアは、あの闇の魔女の無意識には、どす黒い復讐心が宿っているのだから。
本来の、彼女の本当の目的、願いを、長い孤独の間で忘れてしまった彼女の心の中には、復讐の鬼が宿っているから。
だから力を求める。
だからあの子を利用する。
でも……。
「…………」
「どうしました?」
「でも、そうはならないかも……」
「え……?」
「なんでもないわ」
でもそうはならないかもしれない。
だって彼女の心は、孤独の所為で冷え切ってしまった心は、今変わりつつあるのだから。
ゆっくりと、変わっているようだから。
だからもしかしたら、大丈夫なのかもしれない。
水の「法」を操る魔女は、自分の宿敵である「炎の魔女」の方を向く。
いつの間にか、雲行きが怪しくなっていた。
黒い雲が、紅い空を斑に覆っている。
一筋の光と轟音が、「水の魔女」と「炎の魔女」と二人の下僕の間に落ちた。