うつし世は夢 夢こそまこと
家紋武範様主催「夢幻企画」参加作品です。
シューシュー
炊飯器が蒸気を吹き出している。
「パパッ、パパッ」
四歳の娘に声をかけられ、目を覚ます。
「あっ、ああ。大丈夫。起きてるよ」
ほんの少しの時間だけ眠ってしまったらしい。
妻が発熱した。三十八度五分。
結婚して五年目。初めてのことだ。
考えてみれば、結婚して、すぐ妊娠。長女が生まれ、子育てに大忙し。ここへ来て、やっと長女も保育園に慣れてきてくれた。
妻も少し安心して気が抜けたのだろう。
「ようし。今日は久々にパパが夕ご飯を作ろう」
「ええーっ、大丈夫なの? パパ。コンビニでお弁当買って来た方がよくない?」
娘よ。いつからそんな生意気な口を利くようになったのだ?
君のパパは君のママと結婚するまで、七年も一人暮らしをしていたのだよ。
料理くらい作れるさ。
そうは言ってもブランクが長いのは事実。
おかずはマグロの刺身と出来合いの野菜サラダにさせてもらった。
娘はマグロの刺身と聞いて、大喜び。全く現金な奴だ。
ちょっとひっかかったのは「おかゆ」だ。妻はレトルトの「おかゆ」は匂いが受け付けないのだ。
だが、最近の炊飯器は高性能。「おかゆ」と指定すれば、「おかゆ」にしてくれるのだ。
正直助かった。炊けたご飯を鍋に入れて煮る方法などは知らないのだから。
「味噌汁」は作れる。得意なのは「豆腐とわかめの味噌汁」だ。まあ、他はろくに作れないというのが真相だが。
娘が小皿を持って来た。味見をしてやると言うのだ。誰に似た? その生意気さ。
娘は小皿から味噌汁を吸う。
「うん。さすがママが買って来たいいお出汁だね」
くっ、悔しいが、自分が一人暮らしをしていた時の味噌汁より数段旨いのは、妻が買って来た出汁のおかげだろう。
何にしろ。これで一段落。後は炊飯器が「おかゆ」を作ってくれるのを待つばかりだ。
娘はもうEテレの番組に夢中だ。小さいながらに一段落ついたと分かっているのだろう。
シューシュー
炊飯器から出る単調な音が眠気を誘う。正直、妻が発熱でダウンしたからと言って、私の仕事の持ち分が減った訳ではない。
眠い…… 微睡む…… 微睡み……
◇◇◇
「陛下……」
執事の声で目を覚ます。ここはどこだ。椅子に座っている私の前には大きなテーブルと数々の皿に盛られた料理。
「今日の料理はお口に合いませなんだか?」
「いや……」
私は短くその言葉を否定すると、目の前のスープをスプーンで掬い、口に運ぶ。
「旨い」
思わずそんな言葉が漏れる。
「それはようございました」
執事がほっとしたように言う。
「本日のスープはカンカルで水揚げされた牡蠣の出汁を煮出したもの。料理人も陛下のご感想を気にしてましたゆえ」
私は他の皿のものにも手をつける。特に注意はされない。マナー違反とかはないらしい。
何を食べても旨い。そういったものを出されているのだろう。私は陛下? あ、そう言えば……
「妻の真理。いや、マリーと娘の絵麻。いや、エマはどうしたのだ?」
私の問いに執事は露骨に怪訝そうな顔を見せた。
「陛下。お疲れのようですな」
私も自然と不機嫌になる。
「私の体調への懸念は後でいい。先の質問に答えよ」
「薬師のミシェルの話では王妃殿下がご懐妊しやすくなるのは二週間後。その時にお会いになることになります。王女殿下におかれましては先日四歳のお誕生日を迎えられましたので、両陛下の下を離れての淑女教育が始まっております」
淡々とした執事の答えに私の不機嫌は怒りに変わった。
「お前は何を言っているのだ」
「はあ」
執事は私が何故怒っているか皆目分からないようだ。
「妻が懐妊しやすくなる日まで会えないだと。妻は子供を産む機械か? 娘に至っては何だ? たった四歳で親元を離れる子がどこにいる?」
執事は大きな溜息を吐くと、私の足元まで近づくと膝まづいた。
「陛下」
「な、何だ?」
「思いのほかお疲れの様子。ですが、この場にいたのが、このジャンだったことが不幸中の幸い。他の者には決して今のようなことを申されるな」
「むっ、むむむ」
「陛下の疑問、このジャン。忠心より真摯にお答え申す。当たり前でござるが、王妃殿下は子供を産む機械ではござらん」
「そうだろう」
「王妃殿下には王室外交を担うという大事な役割があり申す。ご懐妊の可能性が低い時期はそちらの仕事をやっていただかねばなりませぬ」
「何だと」
「ただ、王国の安泰のために多くの子が必要であるという陛下のお気持ち。このジャン。痛いほど分かり申す。ですが、そのために多くの側室がおるのでござろう」
まっ、待て。私の言いたいのはそういうことではない。
「また、四歳といえど、王女殿下。今後、国家の安泰のために嫁いでいく身。立派な淑女になっていただかねばなりませぬ」
「いや、淑女教育と親元を離れるのは話が別だろう」
「陛下っ!」
執事のジャンはその言葉と共に土下座した。
「なっ、ジャン。やめろっ!」
「やめませぬ。このジャン。国家百年の大計のため、陛下の王位の安泰のためにもやめませぬっ!」
「くっ」
「どうかっ! どうかっ! 陛下におかれましては、このジャンめの言葉をお聞きあそばし、今度こそ王太子たる男子を王妃殿下にはご出産いただけるよう」
馬鹿を言うな。男だろうが女だろうが、同じ子宝だろうがと言う気力はもう既に私にはなかった。
それからは私的にはひどいものだった。
「国家百年の大計」とか言う割には、国の要職についているのは門閥貴族ばかり。
それが有能ならいいが、元平社員の私から見ても、どいつもこいつも城内の政治ばかり達者で、去年の小麦の生産量も答えられない無能ぶり。
「小麦の生産量も答えられない大臣は更迭しろ」という私の言葉に、ジャンは土下座して「どうか、どうか、ご忍耐のほどを」と言い続け、私が許すまで頭を上げない。
別の時には「人材育成のための学校を作れ。予算は宮廷費を削って捻出しろ。学校には貴族以外の庶民も入学させろ」と言った。
それを聞いたジャンの奴、また土下座を始めやがったので言ってやった。「もうお前の土下座で指示を変えることは一切しない」。
すると、ジャンはおもむろに抜刀すると、己が首筋に刃を押し当てた。
「宮廷費は王室と貴族の絆を深める大切なもの。削れませぬ。庶民はよらしむべく、知らしめることは国家大乱の基、どうかどうか、指示のお取り下げを」
私はしぶしぶ指示を取り下げた。
私は、ほとほと嫌になった。
一体、誰が何の目的で私をこの国に国王として送り込んだのか。
それも分からない。
いかに美食と(形だけだろうが)百官の敬礼を受けられるとはいえ、日々虚しく、妻子にも会えない寂しさ。
それは耐えられるものではなかった。
王座に座り、漫然と百官の姿をながめる私に聞きなれた声が聞こえて来た。
「パパッ、パパッ」
◇◇◇
「あっ、ああ」
思わず声を出す私に四歳の娘は心配そうに言ってくれる。
「大丈夫? 結構長い時間寝ていたよ。ママも起きたよ。熱も下がったみたい」
「ああ。ありがとう。大丈夫だよ」
見回すといつもと変わらない風景。
「ふうっ」
思わず息を吐く。あれは「夢」。「夢」だったか。良かった。本当に良かった。
妻は布団から起き上がっていた。
娘は妻に飛び付き、妻は娘を力強く抱きしめた。
そして、涙を流し始めたのである。
さすがに私は驚き、思わず問うた。
「どっ、どうしたの?」
「うん。あのね……」
妻は涙を流しながら、答えてくれた。
「とても長くて悲しい夢を見てたの。目が覚めたらいつも通りで嬉しくて……」
「え? 長くて悲しい夢?」
「うん。夢の中で私はファンタジーの国の王妃様になっているの。毎日、美味しいものが食べられて、きれいな服も着られるんだけど、肩の凝る王室外交とかいうのやらされて、パパにも絵麻ちゃんにも会わせてもらえないの」
え? それって……
娘も話した。
「絵麻もねさっきちょっと寝ちゃったんだけど。大きなお城で暮らしている夢を見たの。そしたら、大人の人から『もう四歳になったから、しゅくじょきょういくを受けてもらいます』と言われて、パパにもママにも会えなくなっちゃって、泣いちゃったの」
おっ、おいおい。
妻は驚いた顔で娘を見た後、私の方を向いた。
「パパは何か夢を見たの?」
私は反射的にこう答えた。
「い、いや。私は夢は見なかった。そして、ママと絵麻の夢が似ていたのはきっとただの偶然だよ」
「そ、そうね」
妻は娘の方を向き直し、もう一度娘を抱きしめた。
「私はパパと絵麻ちゃんと暮らしている今が幸せ。いくら美味しいものが食べられても、あんなお城での生活はまっぴらだわ」
私はその言葉に答えなかったが、自分に言い聞かせていた。
(そう。夢の内容が似ていたのはただの偶然。この世界が現実なのだ。そうに決まっているのだ)
◇◇◇
その晩、私は寝たくないと思った。だが、そういう時に限って、強い睡魔が襲ってくる。
眠りに落ちた私は声を聞いた。
「陛下」
それはジャンの声だった。
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」(江戸川乱歩)
©秋の桜子様