8
中尉はわたしたちの呼びかけにいっさいこたえなかった。
喉になにかがつまったような鬼気迫る表情で一点を見つめたまま歩きつづけ、作戦本部と呼ばれる仮設天幕のなかに閉じこもった。
残存戦力を三班にわけた延命作戦。中尉は通信確保班の班長だった。それがたった一人で帰還したのだ。
ほかの兵士はめげずに唯一の尉官であり指揮官である中尉に声をかけつづけていたが、わたしはすぐにはなれた。
あの様子を見れば結果は聞くまでもないし指揮などとれるわけがない。
群衆は三三五五になってそれぞれのねぐらに散っていった。地獄からの使者による解放を待ち望んでいた彼らは拍子ぬけし、毒気もぬかれたのだろう。アバドンの供物になるためにここからでていくほどの気概を持ちあわせるものもいなかった。
狂気は突発的な発作のようなもので熱しやすく冷めやすいようだ。だからこそ御しがたいのだが。
正直、死にたいやつだけでこのエリアから消えてくれたほうがよかった。
ふたたび閉ざされてだれもいなくなった隔壁のわき、シックスは一人腰をおろしていた。膝をたてて壁に背をあずけている。
「ヘカトンケイル、H06。こんなにはやく再会するとは思わなかった」
「兵長。可能なら合流するといっただろう」
わたしの皮肉こみの軽口に、シックスはあいかわらず平坦な口調でこたえた。
「なにがあった? どうしてうちの中尉といっしょなんだ」
「倉庫エリアをはなれてすぐに中尉の部隊と合流した。彼らは司令部にむかう途中でアバドンの群れと遭遇したらしい。ダクトに戻ることもかなわず、退却戦のさなかだった」
「退却戦? それで大騒ぎしながら倉庫エリアにまで逃げてきたっていうのか?」
兵士の不文律として座して死すべしという言葉がある。敗走によって他者を巻き添えにする可能性がある場合はいさぎよく討ち死にせよという意味だ。
表だった軍規ではないし守られない状況も多分にある。現にわたしたちはシェルターはずれの車輛格納庫エリアまで逃げてきた。しかしそれは背後に護るべき民間人が大勢いたからだ。
中尉たちの場合は民間人のいない兵士だけの少数部隊だ。全滅しても死ぬのは兵だけ。逃亡の途中にある倉庫エリアにわたしたち調達班がいることを考えたら、ありえない選択肢だった。
「倉庫エリアにアバドンがきたのはセムロックの銃声のせいじゃなかったということか」
「それはわからない。どちらにせよ火薬式の銃声を察知された可能性は高い。そもそも因果関係を探るのは無意味だ」
シックスはわたしの憤りを無意味の一言で一蹴した。
無策のまま退却を指示したであろう中尉にも、目の前で冷静に語る機械化兵装にも腹がたつ。しかし今さら責任を糾弾してもむなしいだけなのは事実だった。
シックスは端的な報告をつづける。
「ここの手前のエリアでアバドンの群れを殲滅させることは成功した。しかし生存できたのは中尉とわたしだけであり、中尉は平静をうしなった」
そして惨めな若い尉官は隔壁を叩きはじめたということか。以前は封鎖に成功したと自慢げにのべていたのに、今は開けてくれと懇願しながら。
「それでも群れを殲滅できたのか」混乱をきわめたであろう退却戦でそれができたのはひとえにシックスのおかげなのだろう。
「群れといっても四頭だけだ。シェルターに残存するアバドンのごく一部だろう。十名以上の戦力をうしなってこの結果では、喜ばしいものではない」
「ちょっと待て。十名以上といったか?」
「わたしが合流した時点では十一名の兵士がいた」
中尉の通信確保班の人数は六名だったはずだ。
セムロックたちのようにほかのエリアに避難していた兵士が偶然合流した可能性も考えられる。しかしもっと現実的でよくない可能性のほうが濃厚だ。
「その兵士のなかに少尉はいた?」
「いた。老齢の少尉だ。中尉の部下のようだった」
「くそ。最悪だ」わたしは力なくうめいた。声を荒らげてののしる気力もわかない。
延命作戦の三班の一つ、避難通路偵察班。もっとも移動距離が長くリスクが大きかったその分隊の班長は老練の少尉だった。
彼らの任務はダクトと連絡通路を駆使して隣接するシェルターへの避難が可能か探ることだった。
中尉の逃避行に少尉の班も巻きこまれたのだろう。他所への避難という一縷の望みは断たれ、残された戦力は今この格納庫エリアにいる五名たらずの兵士ということになる。
いよいよ打つ手がなくなった。絶望的というほかない。
ここで干からびるのが先か。アバドンに見つかるのが先か。
マリアの昏い笑みが脳裡にちらつく。わたしはこぶしを握りしめた。
「わたしからも一ついいか。なぜ隔壁を開けた」シックスが訊いてきた。
当然の疑問だろう。隔壁のむこうにいたシックスからしたら錯乱した人間がノックしただけで封鎖が解かれるとは思いもよらなかったはずだ。
わたしはのっぴきならない現状を簡単に説明した。
例によって相槌一つうたずに聞いていたシックスは、わたしが話し終えたらぼそりと呟いた。
「そうか。理解できない」
それはそうだろう。冷酷で合理的な機械化兵装に死に救いをもとめる人間の精神を理解できるとは思えない。
しかしシックスの疑問はそこではなかった。
「なぜ撃たなかった。その民間人たちを殺せば事態は収まっただろう」
わたしは硬直した。胸のなかに冷水を流しこまれたように心臓がびくりとはねた。
そう。わたしはマリアに洗脳された避難民たちを射殺しようとしていた。
いつからこんなことを考える人間になった。アムがいっていたように少女がおねえちゃんと慕うセヴィはどこかにいってしまったのか。
いや、自分が変貌したとは思えない。では最初からこういう人間だったのか。アバドンと戦うためだけの人型兵器とおなじ考えかたをする怪物なのか。
どうであってもわたしにシックスの冷酷さを責める資格はない。
知らず、わたしは自分の顔をぺたぺたと撫でていた。悪夢のなかで怪物になりかけていたわたしの貌。額や頭髪の生え際を指先で探り、まだ人間であることを確かめずにはいられなかった。
シックスはそんなわたしの奇行をじっと見つめていた。無機質なバイザーに心のなかを見すかされているきがして、わたしは顔をそむけて隔壁の制御盤に近づいた。
「なにをするつもりだ」シックスは座ったままわたしの動きを目で追っていた。
「破壊しようと思う」
マリアと彼女のシンパは健在なのだ。またおなじことが起こらないとはかぎらない。
しかし制御盤の破壊は脱出の放棄を意味する。通路が使えない場合、他エリアへの移動はダクトに頼るしかないのだが負傷者や民間人には難しいだろう。
作戦が失敗し救援も脱出も不可能となった今、延命のためにはそれが最善であるように思えた。たとえ干からびる未来しかないにしても。
「一つ、提案がある」シックスは装甲された太い人差し指をたてた。