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通気口這進は兵士の基礎訓練に含まれる。こうした有事の際にはダクトでの移動が生命線になるからだ。
訓練の通称は雑巾がけ。煤、埃、暗闇に巣くう得たいの知れない虫。訓練終わりにはそれら汚物まみれになる。
経験済みだからといっても楽なわけじゃない。きっと慣れることは一生ない。
小銃に基本装備が詰まった防護服でおよそ十五キロ。それらの重りを担いで六十センチ四方のダクトのなかをヘッドライトのあかりを頼りに数時間かけて這いまわる。
しかも今回は物資回収が目的であるためでかい背嚢まで背負っていた。こいつがそこらじゅうに引っかかる。
今はまだ空っぽだから進めるが、首尾よく物資を確保できた場合は満杯のこいつを引きずって戻らなければならない。気が重いどころの話ではなく、体力的にも物理的にもそんなことが可能なのか疑わしい。
「止まれ」先頭の軍曹が鋭く静止を命令した。
わたしたちは息を殺して耳を澄ませた。かすかな物音が聞こえる。おそらくアバドンのものではない。ふたたび進み始める。
アバドンは通気口に進入することはできないが天井ごとダクトを壊すことはできる。全身が鋭利な凶器であり、戦車も破壊する桁違いの膂力をもった怪物なのだ。
もし下にいるアバドンに発見されたらわたしたちはダクトもろともひねり潰される。
神経と膝と肘をすり減らしながらダクトのなかをよちよち進むこと二時間。目標の倉庫エリアに到達した。
充電ドライバーでダクトハッチのねじをはずして慎重に外にでた。
ようやく閉塞感から解放される。訓練のときとおなじで冷たい空気と広い空間を愛おしく感じる。しかし訓練と違って背すじを伸ばす気にはなれない。
自由の代償は死の危険だ。これより先は完全な死地になる。
非常燈の光が棚と乱雑に積まれた段ボール箱の密林をうかびあがらせていた。
「エリアの安全を確認しよう」軍曹が押し殺した声で告げた。
わたしたち七人は密集してすり足で進んだ。
調達班の兵員は分隊長である軍曹、兵長であるわたし、あとは二等兵が五人。
経験上、中距離でアバドン一頭に対抗できるぎりぎりの人数だ。
今この場で二頭以上と戦闘になったらまず勝ち目はない。半狂乱で弾をばらまくしか能がないわたしたちにこの空間は見通しが悪すぎる。そしてアバドンと戦闘になったときにたったの一頭で済んだためしがない。
すぐ近くで段ボールにぶつかるような物音がした。心臓が凍りつく。みながそちらに銃口をむけた。
ねばりつくようにゆっくりと明滅する非常燈は照明としては頼りないくせに嫌にはっきりと影をつくる。光の往来のたびに縮小と膨張を繰りかえす無数の影は何かよくないものがわたしたちを狙って跳梁しているように見えた。
永遠のように感じられた一拍を経て、棚の角でフラッシュライトが二回点滅した。
人間だ。アバドンはライトで合図を寄こしたりしない。
「誰だ。姿を見せろ」軍曹が誰何した。
「今でていく。撃つな」
五人の兵士が物陰から現れた。
見覚えのある顔もあったが名前はわからない。
「セムロックだ」こけた頬にぼさぼさの髭をたくわえた最年長の兵士が名乗った。
防護服の肩章から軍曹のようだ。またその番号からほかの中隊の兵士たちだとわかった。
こちらの軍曹が名乗り、握手のために手を伸ばした。
セムロックはぎょろりとした目で軍曹を瞥見しただけで応じなかった。友好的な性格ではないらしい。
「五人だけか?」軍曹はめげずに柔和な口調で話しかけた。
「兵士はな。あとは民間人が六人」
計十一人の生き残り。軍曹がいっていたようにこのシェルターは大きい。わたしたち以外に生存者がいても不思議ではない。
そして生存者が隠れて生活していたということは、少なくともこのエリアの閉鎖は成功したということだ。
安全だと知れて民間人がぽつりぽつりと顔をだし始めた。年寄りと女子供ばかりだ。いちおう避難の際には弱者が優先される。
小さい男の子の手をひいた女がふらふらと近づいてきた。「あなた……?」
軍曹は呆然と何事かを呟き、女に抱きついた。女と子供も必死にしがみついてむせび泣いている。
驚いた。どうやら軍曹の家族のようだ。
まさかほんとうに再会がかなうとは。しかもこんなに早くに。奇跡といってもいい確率だろう。
「感動の再会というわけか。あんたはついてるな」セムロックがぶっきらぼうにいった。“あんたは”という響きにはどこか含みがあった。
軍曹は話どころではないとみて、セムロックがわたしを見る。「兵長、お前らはどこからきた?」
「格納庫エリアからです」
「そこから這ってきたのか。ご苦労なことだ。生存者は?」
「兵士が三十一名。民間人がおよそ百七十人です」
「二百か。多めに見積もっても三百は超えないな。それが多いか少ないかわからんが……壊滅といっていいのは間違いない」
セムロックは生存者の総員のことをいっているようだった。
アバドンの出現が最初に報告されたエリアの位置関係から、わたしたちが避難した格納庫エリアにもっとも多くの生存者がいることは予想されていた。ほかに生き残りがいてもここと似たり寄ったり、すべて足しても三百人は超えないだろう。
意味は理解できたけれど、壊滅という言葉を自身にいい聞かせるように呟いたセムロックの真意はわからない。
「それでわざわざなにをしにきた? おおかた予想はつくが」セムロックはわたしたちが背負ったぺちゃんこの背嚢を見やった。
「物資の確保にきました。あと生存者の捜索と救出も命じられています」
「救出? どこへ助けだしてくれるっていうんだ」
「格納庫エリアに集合せよとのことでした」
「おいおい。檻を引っ越しても助かったことにはならんだろう。しかもそっちの檻は定員いっぱいで餌もない。だからお前らは半日もダクトを這ってここにきた。違うか?」
かえす言葉はない。一理あるどころか正鵠を射ていると思う。
家族とひとしきり歓びをわかちあった軍曹が割ってはいった。「セムロック軍曹。まずはわたしの家族を助けてくれたことに感謝する」
「必要ない。たまたまおなじ檻の同居人になったというだけだ」
「それでもありがとう」あくまでもつれないセムロックに軍曹は律儀に礼を述べた。さて、と間をおいて分隊長として務めにもどる。「さきほどのセヴィ兵長の話だが、格納庫エリアには中尉がいる。現状では中尉が指揮官であり、生存者の招集は中尉の命令だ」
「お前たちの中隊の中尉というと、あのぼっちゃんか? なおさらお断りだな」
中尉はほかの中隊でも評判がわるい。歳がわたしと一回りも変わらず、尉官を務めるには若すぎると陰口をたたかれていた。
少尉あたりがいれば大激怒して銃をつきつけてでも命じていたかもしれないけれど、セムロックに恩義を感じている軍曹にそこまでの強行は期待できない。
「別動隊が他のシェルターへの救助要請と避難経路の偵察をそれぞれおこなっている。成功したときのことを考えれば一か所にまとまっていたほうがいいだろう」
「そうかい。奇跡的にうまくいったときはここにも生存者がいると伝えてくれ。期待しないで待ってるよ」
なにより、たとえそうされてもセムロックは動じそうになかった。軍曹が辛抱強く説得しても取りつく島もない。
「わかった。この件についてはもう少し慎重に話しあおう。とりあえず部下たちに物資を確保させたい」
わたしは医療品の収集に名乗りをあげた。
正直、彼らが命令に従うかどうかはどうでもいい。わたしは薬を持ちかえれればそれでよかった。
「医薬品があるのは医療エリアに隣接した倉庫だ。安全は確認しているがここからもっとも遠い。おれのところから二人、同行させよう」セムロックが配下の兵士に目くばせした。「お前ら、レディをエスコートしてやれ」
レディ扱いされるがらじゃないし、このあたりのエリアには詳しいので迷うことはないけれど、単独行動は避けるべきだろう。わたしは素直に従った。
雑品倉庫を離れる間際、軍曹の奥さんと目があった。
かすかな違和感を覚える。
不安そうな瞳はなにかを訴えようとしているようだった。