82 呪詛返し
長野盆地
長野市や周辺の市町村をぐるりと取り囲むこの天然の要塞の中心に、長野県の県庁所在地であり「牛に引かれて善光寺参り」で有名な長野市がある。
その長野市の中心街を三十分ほど車で北方に向かうと、盆地を囲む北側の山々の麓にたどり着く。
北西を見れば修験道で有名な飯綱山が見え、その後ろには「鬼女・紅葉伝説」で有名な戸隠山が控え、そこから東側を見渡すとウィンタースポーツで有名な志賀高原の山々が南北にズラリと並ぶ。
ここは古くから山々と共存して来たのだと実感するのが長野市の北部。様々な団地と造成地が北国街道沿いに形成されて「群」となった、長野市北部の巨大団地群だ。
その巨大な団地を東西南北に縦断するの県道とバイパスの交差点。ここを中心に郊外型の商業施設が東西南北へと沿線上に広がり、「大味な田舎の都会」を形作っていた。
大型書店、ファストフード店、自動車ディーラー、ファミリーレストラン、カレーや大衆和食のフランチャイズ店舗など、それこそ様々な店が並ぶのだが、全国展開するスーパーのチェーン店ももちろんそこにある。
休日日曜日の朝、時間は八時前。
まだアルバイトやパートの奥様方がほとんど出社して来ないこの時間帯……物流のトラックがその日の生鮮食材を裏口から店に入れて、担当の職員だけが忙しくその梱包を振り分けている時間帯。
秋晴れで爽やかな風が頬を撫でる誰もいない駐車場に、何故か藤巻のポンコツワーゲンゴルフが停まっている。
車の中には藤巻の姿は無く、スーパーの固く閉じられた入り口に彼は立っている。そして、その入り口には藤巻だけでなく、心霊探偵の都住夏織と、刈田神社の巫女である都住姫子も逸る気持ちを抑えながら、心配そうに店内を覗いていたのだ。
「藤巻君、悪いね! だいぶ待たせてしまった! 」
店内から藤巻に詫びる声が届くとともに、カチャカチャと入り口自動ドアの鍵を開ける音がする。手動でぐぐぐと扉が開き、出て来たのはこの店の店長だ。
「無理言ってすみません! ……俺の家のお隣りさんでね、地権者店長さんなんだ」
店長に挨拶しつつも振り返り夏織と姫子にそう説明する藤巻。あらためて店長に夏織と姫子を紹介すると、店長は目をまん丸にして驚いた。やはり地元の「都住」は名が知れているようだ。
「君たちが刈田さんのねえ。と言う事は、君が征吾の妹さんで、君が説明の娘さんか」
刈田神社の神主で宮司、都住征吾の名前を呼び捨てに出来ると言う事は、それだけ征吾と近しい関係で尚且つ征吾より歳上又は先輩である証拠なのだが、「征吾」と言う若かりし頃を思い出させる懐かしいキーワードが脳内に湧き出した途端、征吾の妹である夏織の顔をマジマジと見つめながら何かに気付き「ハッ! 」とする。
(そう言えば征吾の妹って、あのキリングマシーン池田祥子とガチでタイマンやって、唯一五分五分に持ち込んだ一匹狼のレディース。確か虐殺天使の夏織だったよな……)
懐古の憧憬をたどる内に、とんでもない記憶を掘り当ててしまった店長は笑顔があっという間に青ざめてしまった。だが幸いな事に「虐殺天使」の言葉が喉まで出かかっていたのだが全力でそれを飲み込み事無きを得た。
どうやら夏織も店長とは直接の関わりが無かったものの、店長が地元の人間で自分の兄を呼び捨てに出来る人物である事に酷く警戒感を抱いていたのか、終始ニコニコと笑顔は絶やさないものの、その引きつった仮面の裏からは「お前、その言葉を口にしたら後悔するぞ」と、無言のプレッシャーをかけていた。
【かごめかごめの呪い、この呪いの根源がここにある】
姫子が物心がついた頃から、まるで力の無い父・征吾の代わりに、様々な怪異と相対して来た姫子。夏織が読み、姫子が滅すると言う黄金バッテリーは今回も健在で、姫子は大麻の中でも白木の先に和紙を切り刻んだ束をまとめた【祓串】を手に準備万端。
日曜日なのにセーラー服を着ているのは、外で巫女服を着るのを嫌がる姫子に対して、遊びじゃないのだから私服は許さんと言う父の教えに従っているのだが、協力者として隣に立つ者が珍しくて珍しくてしょうがない。
ーー生まれて初めて接する「男性」。姫子は探偵の藤巻博昭をそう見ている。
父親や親戚やご近所様や参拝客によくいる「おっちゃん」「おじさん」よりも若く、そして高校の同級生や上級生・下級生よりも歳上の存在である藤巻を前にして、ヤングでありながらダンディも兼ね備える大人の色気を感じていたのだ。
紺色のスーツ上下にヨレたワイシャツ、そして程よくほどいたネクタイ姿の藤巻をチラチラと横目で見る姫子。
世俗とちょっと距離を置き、巫女として修験者としての修行に明け暮れて来た自分の胸に、生まれて初めての異性に対する意識が芽生えていたのだ。
だがそれが初恋であると断言出来るほどの想いが育っていなかったのも事実。
結局姫子は何が何だか分からない高揚感を抱きながら、干支が一回り以上も歳上のこの男性を気にする事よりも、やがて本来の「お務め」へと集中して行く。
「商品を手荒に扱わないで貰えるのであれば構いません。そんな呪いがあるなら早く見つけて欲しい、ウチの店がばら撒いてたなんて、とてもじゃないが……」
藤巻そして都住夏織と姫子に深々と頭を下げる店長。
スーパーのフロアに立った三人は、呪いの根源を手分けして探す事で一致した。
「俺は生鮮食品の売り場見る、都住さんはお菓子のコーナーを。姫子ちゃんはテナントの生花店を見てくれないか? 」
藤巻の提案で別れる夏織たち
タイムリミットは開店の十時ではない。
アルバイトやパートさんたちが出社して来る九時半以降であり、もし時間に間に合わず彼らに見られてしまえば、これまた大きな噂となって店側に風評被害を及ぼす事となる。
ガランとして人気の無いスーパーで、静けさが漂う内に問題の呪詛を見つけ出して祓い、何もなかったかのように脱兎のごとく立ち去らなければならないのだ。
キビキビと動くと言うより、時間に追われているかのような乱暴な足取りで生鮮食品売り場に入った藤巻。
素手で触ってはいけないとビニールの使い捨て手袋を店長から貰い、売り場に並んだキャベツやピーマン、もやしやカボチャを移動させながら、陳列棚の隅々にまで目を光らせている。
夏織も丁寧にお菓子を移動させては陳列棚の奥に眼を凝らし、姫子はバケツに活けられた花々を丁寧に取り出しては、バケツの底に目を凝らしていた。
三人が「それ」を探し始めてから、十分、二十分と時間だけが過ぎて行く
野菜売り場を全て見尽くした藤巻は肉売り場へ。陳列棚の中だけでは心配だと、床に寝そべり棚の隙間を覗く姿はパニック寸前。
そして生花のコーナーを全て見尽くした姫子は叔母の夏織に合流し、お菓子売り場の棚を探し始めている。丁寧に扱わなければならず、思いのほか進まないのだ。
「都住さんは呪詛と言っていた。束ねた長い髪だったり呪いの真言が書かれた呪符だったり、人の形に切られた和紙だったりと……。クソ、どこだ、どこにある! 」
額から油のような汗を滴らせながら捜索に没頭する藤巻は、顔を引きつらせながら充血した眼を右へ左へと走らせる。
もはや笑っているのか怒っているのかすら判別出来ない……まるで猟犬のような狂気に満ちた動きで探し続ける藤巻の鼓膜が突如、女性の惨たらしい悲鳴で大きく振動した。
ギャアアア! ーー間違いなくそれは女性の悲鳴なのだが、彼氏とホラー映画を見に行ったり、夢の国のアトラクションに乗った時の「可愛げ」のある悲鳴ではない。
猟奇殺人犯の餌食になってしまい、椅子に縛られたままペンチで指の爪を全部抜かれたり、真っ赤に焼けた鉄の棒を背中に押し付けられた時のような、我慢出来ない強烈な苦痛と苦悶が入り混じった断末魔の叫び。
その叫びを耳にした途端、電気ショックで爆ぜたかのように飛び上がった藤巻は、何が起きたのか考える時間すらももったいないと身体が勝手に動き出し、店内を全力で駆け始めた。
悲鳴が聞こえた方向はお菓子売り場、夏織が先頭に立って捜索しており、姫子が遅れて合流している。二人の身に何か起きたかとコーナーを曲がりお菓子売り場に入った途端、藤巻は目前に広がったその恐ろしい光景にたまらず硬直し、立ち止まってしまった。
「都住さん、都住さん! 」
藤巻の視界に飛び込んで来たのは何と、都住夏織がフロアの冷たい床に崩れ落ち、口から大量の吐血をしながらのたうち回っている様。
そしてその光景に驚いた姫子も腰を抜かしているのか、ズルズルと藤巻の方に向かってガタガタと身体を震わせながら後ずさりして来る。
ゲエゲエと吐血を繰り返す夏織は、もしかしたら呪いの根源を見つけたのかも知れない。そしてその根源から反撃を受けているのかもーー
直感が藤巻の脳内を走り抜けた時、夏織の右手に掴んでいる物に眼を奪われる。
見た事のある小さな四角い物体
細い長方形の木材を組み込んで作られた正六面体
それが傍らにあるだけで不幸を呼び込む不吉な存在
人を不幸のどん底に叩き落とす事のみを目的に作られた物
「手から離すんだ、それは……桐子だ! 」
藤巻の叫びに身体をビクリと揺らす姫子は、藤巻の叫びが腹に効いたのか大きく肩と胸を揺らして深呼吸を始め、過呼吸気味だった自分の制御をを行う事で、我を取り戻しつつある。
藤巻は叫んだと同時に姫子の傍らを走り抜けて夏織の元に。彼女と桐子の相性が最悪ならば……それなら俺がと、彼女ががっしりと右手に掴んだ桐子を強引に奪い取り、そのままスーパーの外へと駆け出した。
「藤巻さん!? 藤巻さん!! 」
どこへ行くのかと大声で叫ぶ姫子を置き去りに駐車場へ飛び出した藤巻は、桐子を自分の車のボンネットに置き、再び店内へと戻って来る。
「都住さん、都住さん! 大丈夫か、返事をしろ! 」
桐子が手から離れ、チャンネルが途絶した事で落ち着いたのか、か細い声で大丈夫だと藤巻に答えるも息は絶え絶えで自力で起き上がれない。
今救急車を呼ぶから安心しろと、藤巻は夏織を抱き上げて走り出しスーパーの出入り口から出て日陰のテラスに横たえる。
あまりの悲鳴に驚いたのか慌てて駆け付けた店長に救急車を呼ぶようお願いすると、藤巻は横たわる夏織のブラウスのボタンを上から二つだけ外し、そして腰のベルトも外して自分の上着をかけてやる。
「都住さん、どうする? どうやれば桐子を無害化出来る? 」
「おば様、おば様……大丈夫ですか? 」
藤巻の背後から覗き込むように、姫子も心配そうに夏織を見つめている。どうやら恐怖で爆発的に回転を早めていた心臓の鼓動も落ち着いたようだ。
「おバカ、夏織お姉さんでしょ。……姫ちゃん良く聞いて。厄払いの真言や不動明王真言の呪詛祓いだと、桐子を滅っする事は出来ても広がってしまった呪詛はそのままになる。広がった呪詛を戻して桐子を無力化するならば……」
『おば様、分かってます。不動王生霊返し(ふどうおういきりょうがえし)ですね。私やります、決着つけます』
姫子の覚悟が篭るその言葉を聞いた瞬間、藤巻は「おや? 」と違和感を抱く。
初対面の朝から今の今まで、姫子とは全く会話が無かった訳ではなく、この呪いの根源を断つ作業についての打ち合わせは重ねて来た。
その時は年相応の明るさを持ちながら、思春期の恥じらいが邪魔して会話に弾みをつけられない、一歩引いた普通の少女に思え、そしてその声もどこにでもいる少女の声だと認識していた。
だが、姫子が祓いの覚悟を決めた時のその言葉その声が、何かしらの神秘性を感じさせるように聞こえたのである。
そう、藤巻も言葉にして表現するのはなかなかに苦しいのだが、姫子の言葉・声に神聖な力が宿り、温かくも厳しくそれでいて神々しい存在へと変化したような感覚に襲われたのである。ーーまるで姫子が天女のように人の領域から高みに上がったかのように
祓串を手に背を伸ばした姫子は、藤巻がそう思うのも不思議ではないほどに変わっていた。それまでの少女の顔がガラリと変わり、神に仕える巫女の顔になっていたからだ。
「姫ちゃん……分かってるわね。不動王生霊返しは呪詛を作った者に丸ごと返す術……」
『分かってますおば様、呪詛を広めた者に全ての呪詛が帰って行く。つまり呪った者の生死に責任は持てない』
「もしかしたら……相手は死ぬかも知れないのよ」
藤巻の車に乗った桐子に振り向き、歩き始めた姫子。
瀕死になって横たわる叔母の質問に、このまま答えず標的に向かうのかと思ったら、ピタリと一度足を止めながら夏織に振り向いた。神々しい顔付きでだ。
『人を侮辱する者は、人に侮辱される覚悟を持たなければならない。人を殺す者は、人に殺される覚悟を持たなければならない。人をあざむく者も、そして人に闘争を仕掛ける者も』
ーー人を呪おうとする者は、呪い返される覚悟を持たねばならぬ。因果応報、人を呪わば穴二つーー
何だこの子はと、何だこの変わりようはと、藤巻は呆気に取られるのだが、夏織は血だらけの口元に笑みを浮かべていた。無言ではあるが、姫子に対して絶対的な信頼感を寄せていたからだ。
……もえんふどうみょうおう、かえんふどうおう、なみきりふどうおう、おおやまふどうおう……
……燃えゆけ、絶えゆけ、枯れゆけ。生霊、狗神、猿神、水官、長縄、飛ぶ火、変火……
……向こうは知るまい、こちらは知り取る、向こうは青血、黒血、赤血、真血を吐け! 泡を吐け!……
姫子や夏織や刈田神社の血族は、長野市外縁にある戸隠山、飯綱山発祥の土着修験道を祖として今の世にあるのだが、この『不動王生霊返し』の術は高知県の土着陰陽道「いざなぎ流」が伝える術で、呪い返しの最高峰と言われている。
元々が修験道は密教や陰陽道や神道・仏教を貪欲に飲み込んで経典に昇華させた、言わばハイブリッドな世界。
姫子が不動王生霊返しの術を知っていて、会得して、駆使していても、何ら不思議ではないのだ。
……打ち式、返し式、まかだんごく、計反国と七つの地獄へ打ち落とす……
……おん、あびらうんけんそわか!……
祓串のシャシャと和紙の擦れる音ともに姫子の祈念が秋空に響く。
呪詛の塊であった桐子やがて、単なる桐細工の箱へと変わったのであった。




