77 思い出がいっぱい
「美央ちゃん、一体どうしたんだよ? 」
厨房以外真っ暗になったコーヒータイムの扉を開ける。カランコロンとドアベルが軽快に鳴りながら来客を店内に知らせるのだが、それが返って寂寥感を増幅させるのは確か。
このドアベルが鳴り響き、来訪者を知った江森美央が入り口側に視線を投げた際に、藤巻は唐突にそう言ったのである。
一体どうしたんだと問いかけながらも、美央が何を想い何を行動に移していたのを悟りながら。
「あっ、藤巻さん、ちょうど良いところに来た。ちょっとそこに座ってください」
問いかけをあえて無視した美央は、藤巻に対していつも通りの場所に座れと言い出す。表情は普段通りの彼女なのだが、問答無用と言う意志が見えている。
「コーヒー淹れてみたんです、味見……してもらえないでしょうか? 」
怪訝な表情のまま口を閉ざした藤巻は、言われるがままにカウンター席に座り、カウンターを挟んで美央と対峙する。
すると美央は、藤巻がいつも注文していたマンデリンのコーヒーをちょうど淹れていたのか、コーヒーカップをソーサーに乗せて目の前に置く。
美央は何かがあって思い詰めている
意識不明だったマスターの身に何かあったのかも知れない
そうでなければ、彼女とマスターを繋ぐこの店に、彼女がいる訳がない
そう腹の底で思いながらも顔には出さず、出されたコーヒーを一口含んで喉に流す
そしてもう一口、もう一口とちょっとづつ口に含みながら、舌による味覚と鼻腔を吹き抜ける風味を確認した。
「美央ちゃん、ごめん。これ不味いよ」
こんな事言いたくなかった。
出来る事ならば美味いよと褒めてあげ、彼女の中に蠢く溜飲を下げさせてやれれば良かったのに、傷口に塩を塗るような事しか言えない自分が何とも情け無い。
だが、ここで嘘を言って彼女を持ち上げたところで、何ら後に希望が見えるような心理変化が起こる訳ではないし、長年丁寧にコーヒーを淹れ続けたマスターの技術にも泥を塗ってしまう。
心を鬼にした藤巻は、彼女の淹れたコーヒーを嘘偽り無く感じたままに不味いと評し、その答えで固まってしまった美央の表情を伺う。
「……今日の昼過ぎなんですが、マスターの奥さんから連絡がありまして……」
藤巻と視線を合わせると堪えていたものが堪えられなくなるのか、美央はうつむいたままマスターについて話し出す。
コーヒータイムのマスターこと江森洋介は、脳動脈瘤破裂で緊急手術後は意識不明の状態を続けていたが、本日昼ごろ意識が戻った。
回復基調にあるのは不幸中の幸いとして喜ばしい限りなのだが、医師が危惧していた通り左半身不随となってしまった。
脳動脈瘤破裂を起こした脳は、他にも動脈瘤がある恐れもあり、一ヶ月以上の長期経過観察を含めながら傷の治療にあたる。
そして……完治が医師から告げられて初めて半身不随のリハビリを行う事から、彼が再び自分の足で立つ事が出来るのは、三年後になるだろうか五年後になるだろうか……
「……叔母さんも電話口で泣いてましたが、維持管理費がかさむ以上、もうこのお店は……」
うつむいたままの美央、その肩がふるふると震えだすといよいよ我慢出来なくなったのか、大粒の涙をポロポロと零し始めた。それはもう玉のような涙で、頬を伝う暇など無くまつ毛に弾かれ床へと落ちて行く。
「だから君が店を継ごうと考えたのかい? 美央ちゃん自分で分かってるだろ? 」
「分かってます! 自分でも分かってるんです! だけどこの店には思い出が、たくさんの思い出が……」
涙の量が半端ではないのか、鼻水まで垂らし始めた美央は、止まらない嗚咽をそのままに両手で顔を隠した。
将来に夢をもって大学に進んだ者が、簡単に夢を諦め、付け焼き刃のスキルで個人経営の飲食店など切り盛り出来る訳が無い。
分別はついて全て理解はしているのだが、感情がそれを許さないんだなーーと、いたたまれなくなった藤巻は席を立ち、胸ポケットからハンカチを取り出してカウンターの扉をくぐる。
「この店はマスターの店だ、閉めるも続けるもマスターの判断だと俺は思う。マスターを信じるならば、彼が元気になって再びカウンターに立つのを、静かに待つべきなんじゃないかな」
ーーありきたりで当たり前の事しか言えないーー
もっと気の利いた言い回しは出来んのかと、苦虫を噛み潰したような表情で自分を責める藤巻は、泣きじゃくる美央の目の前にハンカチを差し出す。
まるで水に溺れているかのような、潤んだ視界の中でハンカチを見た美央は、そのままハンカチを受け取らずに藤巻の胸へとドカンと飛び込んだ。
「み、美央ちゃん……」
悲しみを共有した事で、甘い空気が二人の間に流れた結果……ではない。
あまりの悲しみに美央は嗚咽どころか藤巻の胸の中で号泣を始めている。
まるで自分を我が子のように可愛がってくれる叔父に見守られての人生初めてのアルバイト
そのアルバイトする事で得た社会との接点
そして知り合った人々と過ごした充実した時間
高校時代から今の今まで、この店で過ごして来た思い出が溢れんばかりに蘇っていたのだ。
「マスターは意識を取り戻したんだろ? それを幸いだと思わなきゃダメだ。君が希望を抱かないでどうする、マスターが余計悲しむじゃないか」
横隔膜が痙攣し、呼吸もままならないまま嗚咽し続ける美央。藤巻はそんな彼女を抱きしめてやりながらも背中をさすってやる。
その時、店の外からバウバウ! と、どこかで聞き慣れた小型犬の鳴き声が轟いた。
その、けたたましく吠える犬の飼い主について、藤巻や美央には思い当たる節が過分にあり、二人は電気信号的に離れて距離を取る。
すると、その吠える犬から距離を置こうとしているのか、コーヒータイムの出入り口扉のドアベルがガランゴロン! と盛大な音を立てて、見知らぬ女性が慌てて入って来た。
「ああ、びっくりした! びっくりした! 私って犬苦手なのよね……」
池田祥子と愛犬のパグ「ジャガー」が入って来たと思った藤巻と美央は、見覚えの無いその女性を頭から足の先まで何度も見回しながら、おたくは一体どちら様でしょ? と呆けている。
「あの……休業中に突然申し訳ありません、お店の方々ですか? 」
瞳と頬を涙でべしょべしょにさせて、鼻の頭を真っ赤にさせた美央は肩を震わせながらも何とか自制して従業員ですと答え、彼女にハンカチを渡しながら藤巻は関係者ですがと答えた。
すると、突然入店して来た女性は自らを「私こう言う者です」とショルダーバッグから名刺を出して二人に渡す。
名前は都住夏織、東京都の荒川区にある「都住探偵社」の代表だと表記されており、美央と藤巻は驚いたのだが、夏織は間髪入れずにこう切り出したのである。
「私はしばらく前に来店して、美味しいコーヒーを頂いた者です、怪しい者ではございません。差し出がまし話ですが、もしかして店主様は頭に病を抱えて……お倒れになられたのでしょうか? 」
ーー充分怪しいんだけどなあ
藤巻は表情を変えないまま、腹の底で警戒感のレベルを引き上げた




