75 店主急病のため
昼間のうちに通常業務を終わらせ、社長である池田祥子から残業の許可を貰い、机の上に書き連ねた何冊ものノートを広げると、しきりに腕組みの左右の位置を変えながら頭をひねる藤巻。
マンションの幽霊騒動で遭遇し、藤巻に「私は殺された」と告白して自殺を否定した幽霊の臼井圭子。その彼女の名誉を回復し殺人事件のす犯人を探していた藤巻は、臼井圭子の死の真相に一番近い人物として、彼女が生前働いていたスナック「みすず」のママである、牧野チエについて考察を重ねていたのだ。
自分以外誰も居なくなり、冷たい空気とともにシンと静まり返る事務所で、自分の机がある場所だけ照明を付けた、ひどく心細い暗がりの中、帰社する際に買っておいたコンビニサンドイッチを口にしながら缶コーヒーでそれを胃に流し込む藤巻。
簡単な夕食を摂りながらも視線はしっかりとノートの順を追っており、食べながら追いながら考えながらと、まことに忙しい時間を過ごしている。
死亡当時の臼井圭子は二十九歳
昼間は建設会社の事務員として働き、夜はスナックみすずで働きながら、寝たきりになってしまった母の介護に追われる日々を過ごしていた。
もう二十年以上前の話なのだが、当時の建設会社作業員や経営者にあたってみたところ、母親の話は聞いていたがスナックで働いていた事は知らなかったそうで、つまりそれは、昼の臼井圭子は知っていても夜の臼井圭子は知らなかった事に繋がる。意図したかどうかは別として、プライベートの見えない女性であったのは間違いないのだ。
やはり、臼井圭子の近辺で彼女に生命の危機が訪れるとするなら、スナックみすずに接点のある者なのであろう。それはママの牧村チエなのか? それとも最近得た情報で浮き上がった人物で、同時期に働いていた小林節子(仮)なのか? それとも、臼井圭子に殺意を覚えるほどに近しい、スナックみすずの常連客だったのであろうかーー
いずれにしても、牧村チエは一枚噛んでいると藤巻は考えている。
地獄放送事件の際に、奈津子の弟である木内浩太郎が、牧村チエの断末魔らしき霊と遭遇している。そして彼女は臼井圭子殺しを告白しながらも、牧村チエ本人以外の、第三者の存在を匂わせたのだ。
霊の証言を信用して考察の1ピースにしてしまうのもひどく危機な話ではあるのだが、元々は臼井圭子の霊が告白した事で始まった話。だから藤巻は心霊関係の胡散臭い流れとは思わずに、大胆に考察の一部に取り入れていた。だがこの夏に起きた桐子事件の続報が、痛く藤巻をざわつかせるのだ。
“廃墟の土蔵にあったホームレスの遺体は牧村チエと確認された”
バブル経済の崩壊、そして長野オリンピック不況の影響を受け、店をたたんだ牧村チエの足取りを追っていた藤巻は目ん玉が飛び出るほどに驚き、そして巡らせたくもない思いを巡らせる。
ーー牧村チエは自然死でも自殺でもなく、状況証拠からして他殺の可能性が高い。それが何を意味するかと言えば、臼井圭子に続き牧村チエも殺された。殺した奴が今も法を逃れてのうのうと暮らしているーー
牧村チエを追っていた藤巻は、約五年前までの足取りまでは掴んでいる。
牧村チエ 七十六歳
秋田県の某所、農家の三女として生まれた彼女は、あまり裕福ではない家計を支えるためにと、高校卒業後に単身で東京に出る。
昼間はビルメンテナンス会社の清掃班として、夜は華やかなネオン街の下で働く内に、いつしか羽振りの良い夜の街で稼ぐ方へと傾倒し、そこで出会った男性と結婚。男性側の実家がある長野に渡って来た。
しかし高度経済成長が終わりを告げる頃に夫婦仲が悪化。子供も出来ない不運さも相まって牧村は離婚してしまう。
実家の秋田に戻る訳にもいかず、生活のためにと長野の地で開いたのが、「スナックみすず」だったのだ。
「……そして臼井圭子の死後、不況の煽りを受けてスナックを閉じた牧村は、長野の地を後に再び東京で働き出すも、自分の店を持つだけの手腕を振るえず、やがて都落ちするように流れて行った」
赤羽のスナック、群馬県前橋市の繁華街、そして群馬県某所の温泉宿住み込み、、、
この温泉宿の従業員たちが、牧村チエについて証言してくれる最後の人々であった。
「チャキチャキした感じの明るい性格で、彼女の闇や二面性に気付いた者はいなかった。ならば、牧村チエはどう言う人物相関図をもって、殺し殺されの人生を歩んだのか」
もし第三者が本当に存在するならば、牧村チエの人生の中で長い間接点があった人物だと言える。何故ならばその者は臼井圭子殺しに関係し、そして牧村チエ殺しにも影響を与えているであろうからだ。
右手で髪の毛をガシガシとかきむしる。
今まで聞いて回った証言者の中に、もしかしたらビンゴがあるのではないか、それともビンゴはまだ見ぬ世界に存在するのだろうかと、突破口がまるで見えなくなってしまったからだ。
その時、自分の世界に没していた藤巻がビクリと身体を震わせる。
いきなり机の上に置いていたスマートフォンが輝き出し、着信を知らせながらブゥンブゥンと暴れ出したのだ。
“着信 池田祥子”
業務中以外は絶対に電話をかけて来ない人がかけて来ると言う事は、それなりの要件がある。
そう感じた藤巻は唸るスマートフォンを忌避せずに通話ボタンを押した。
『藤巻君、お疲れのところ急なんだけど、仕事切り上げられる? 』
キリリとした祥子の声と、祥子の声に反応したのか、愛犬「ジャガー」のバフバフと吠える声が聞こえて来る。どうやら散歩しながら通話している様だ。
「まあ、今日中に結論出す話でも無いんで……」
『それなら丁度良い。今からコーヒータイムに行って来なさい』
「コーヒータイムに? 」
『そ、行けば分かるから。仕事なんか放り出して今すぐコーヒータイムに行きなさい』
そう告げるだけ告げて祥子は通話を切ってしまった。
突然の命令口調で首を傾げる藤巻は、あの人社長になった途端に急にお姉さんみたいな話し方になったなーーとブツブツ言いながら、それでも火急の要件なのだろうと、嫌々席を立ち帰り支度を始めた。
夕飯と団欒を終えた家族が各々の時間を過ごし始めたり、明日のためにとテレビやゲームの誘惑に打ち勝って机に向かう時間帯。
探偵藤巻は愛車の二代目ポンコツワーゲンゴルフを走らせ、残業していた探偵事務所を後に長野市北部団地群にあるコーヒータイムへと向かうのだが、店が近づけば近づくほどに疑問は膨らんで行く。
二週間ほど前の夕方、コーヒータイムのマスターである江森洋介は厨房で突如倒れた。
ちょうど夕方から勤務する予定だった姪の美央がそれを発見し、マスターは病院に救急搬送されたのだが、脳動脈瘤破裂……つまりクモ膜下出血と診断され、緊急の開頭手術が行われた。
手術は無事成功し、術後の経過も順調ではあるのだが、依然本人の意識は戻っていない。また、意識が戻ったとしても、半身不随などの後遺症は覚悟するようにと医師からは言われている。
つまり、リハビリ期間を考慮したとしてもコーヒータイムが復活する事は難しいーーこれは江森美央からしっかりと説明を受けた話だ。
だから、池田祥子からコーヒータイムに行けと言われても藤巻には全くピンと来ない話で、一体何が起きているのか皆目見当がつかなかったのだ。
ーーいや、心のどこかで期待していないと言えば嘘になるし、そうなったとしても掛けてあげられる言葉があるのかと言う思いもあったーー
道路沿いにある木目調の大きな看板には電気が灯されていない、つまりはコーヒータイムは営業していないと言う事は馬鹿でも分かる。だが、店の前の駐車場に車を止めた際に藤巻は「ウソだろ! 」と声を張り上げる。
看板やホール内の照明は点いていないのだが、カウンター席の奥と厨房に照明が灯され、そしてそこには江森美央の姿が見えたのだ。
「……美央ちゃん……」
駐車場に車が停まった事すら気付かない彼女は、今にも泣き出しそうな悲愴感漂う表情で、調理台を前に必死になっている。
池田祥子が行けば分かると言った理由が見えた藤巻は、突如胸が締め付けられる様な感覚に襲われ、居ても立っても居られなくなったのか、「店主急病のためしばらくお休みします」と張り紙が貼られた店のドアを、激しい勢いで開けたのであった。




