74 かごめかごめ
平日、ある日の午後
秋雨前線が列島上空に停滞し、ここ長野県も昨晩から霧のような雨が降り続いている。
手が届きそうなほどに高度が低く、それでいて重ねたパンケーキのように層の分厚い雲に包まれてしまった長野盆地に爽やかな初秋は存在せず、暗くて沈鬱な光景はやがて、傘を持って街行く人々の表情にも如実に影響を与えていた。
「まだしばらく雨は降り続く」
「週間予報だと来週まで傘マークだらけ」
気だるい午後を雑談で乗り切ろうとしていた奥様方は、口々に天気が悪いのを理由に、洗濯物が買い物がはかどらないと互いに愚痴をこぼしつつ、コーヒータイムでお茶を楽しんでいた。
そんな時間も終わり、いよいよ賑やかだった店内もジャズミュージックだけが静かに時を刻む静寂に包まれ、夜営業のための仕込みの準備が始まる。
大学の講義を終えて、美央が出勤して来る前にと、サラダやサンドイッチ用の野菜を洗ってカットし、オニオングラタンスープ用のタマネギを調理しながら、最近やけに藤巻が好んで注文して来るドライカレーのソースを仕込むマスター。
野菜や鶏ガラなどで作ったスープを、ひき肉やカット野菜とともに炒めたカレースパイスを合わせて水分が飛ぶまでにじっくり火にかけていた時の事。
何やら店内に流れるジャズの調べに重なるように、マスターの鼓膜に聴き慣れない声が聞こえて来たのだ。
“ ……かごめ かごめ…… ”
「うん?」と、耳慣れないメロディに手の動きを止めて辺りを見回す。
店の随所に置かれたスピーカーからは、マスターお気に入りの一つでもあるパット・メセニーのギターサウンドが流れているのだが、スピーカーから聞こえて来たのか、はたまた店の外から聞こえて来たのかが判別出来ない謎の声。
“……かごのなかのとりは いついつでやる……”
仕込みの作業を止めて耳を澄ますと、微かに聞こえるそれは子供たちの声。スピーカーから流れる「音楽」とは違い、ビブラートもきかせない高めの単音を重ねたような、幼い子供たちの声だ。
“……よあけのばんに つるとかめがすべた……”
いよいよ不思議に思うマスター。
近所にこれだけの数の子供たちはいたかな、広場や公園も無いのに良く集まったなと、首をひねりながらも「まあ子供のやる事だから」と、止めていた手を再び動かし仕込み作業に戻ろうとする。
その時だ
マスターが左側頭部に手を充てたと思いきや、ぐううと唸り声を上げ、苦悶の表情のままぺちゃりと床に沈み込んでしまう。
そしてあまりの激痛にのたうち回る事すら出来ないのか、ぐうう、ふううと唸ったまま、その場で意識を失ってしまったのである。
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべた
うしろの少年だあれ
倒れ込み、気を失ってピクリとも動かないマスター
その背後にはいつの間にか少年が立っており
安いガラス玉のように濁った瞳でマスターを見詰めながら、白い歯を剥き出しにニヤリと不気味な笑みを浮かべ、そしてその場から霧散するように消えてしまった。




