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70 桐子(きりこ)



 善光寺の正面奥にある本堂とは棟を別にし、本堂西側には「大勧進」と呼ばれる施設がある。それは天台宗から派生した密教を行う施設であり、善光寺と呼ばれる仏門の施設では非常に珍しい護摩焚き修行を行う場である。

 不動明王を祀る大勧進は、全国でも三本の指に入る日本三大不動尊と讃えられ、大勧進を訪れた者たちのために家内安全から厄除祈願や交通安全など、古い時代からありとあらゆる安全を祈り続けて来た歴史がある。

 宗派に如何に関わらず、来る者を拒まない善光寺のスタイルは日本でも非常に珍しく、更には古くから山岳密教すらも取り込んだその姿勢は、全国的に“一生に一度は善光寺参り”と言われる所以でもあった。


 夕暮れ時、雲一つ無い真夏の空が夕焼けに真っ赤に燃えて、長野市を囲む西側の山々がその赤い空の逆光を受けて真っ黒に染まる時間帯。赤と黒の見事なコントラストに彩られた長野市の善光寺、その大勧進の入り口の前に、藤巻博昭はそこにいた。


 何かを待つように大勧進の中をチラリチラリと眺めては、さすがにタバコを吸える場所でもないので、飲みたくもないしょっぱい味の無糖缶コーヒーを口にしながら、何かの結果が訪れるのを待っている。


 セミとひぐらしが鳴き続ける夕暮れ時、観光客や参拝客の数も減って辺りが感傷的な空気に包まれた頃、壮年の僧侶が汗びっしょりの姿で大勧進の入り口から出て来た。藤巻が待ち続けていた人物だ。

 灼熱の護摩祈祷をやり終えた充足感に満ちたその僧侶は、古びた手ぬぐいで剃り上げだ頭や顔や腕をゴシゴシと擦って汗をぬぐいつつ、視界に入って来た藤巻に自らも歩み寄り、ごっつい笑顔で言葉を切り出した。


「待たせたね藤巻君、無事お焚き上げは成功した」

「木下さん、ありがとうございます。無理言ってすみませんでした」


 いつでもどこでも、誰に対しても不敵な態度を取る藤巻が、これでもかと襟を糺して頭を下げる。

 それだけ彼にとってこの僧侶が重要な人物である事が伺えるのだが、この木下と呼ばれた僧侶は善光寺の本堂に務める僧侶ではなく、この大勧進でお焚き上げなどの密教を行う事とその風貌の荒々しさから、天台宗に身を置きながらも修験道に通じる秘教を行える立場の人物であるのが伺えた。


「なあに、気にせんで良いよ。君が持ち込んだアレは世にあってはならぬ物。仏法の外にある外法を正すのもまた、我らの修行でもある」

「そう言っていただけると助かります」


 最敬礼に近い形で再び頭を下げる藤巻。どうやらこの僧侶には全面的な信頼を寄せているように見える。

 しかし、その木下と呼ばれた僧侶の表情がおかしい。藤巻の謝意を受けて頃合いを見計らうと、急に表情を変えたのだ。

 ーー護摩祈祷をやり終えた充足感と疲労の混ざった笑顔がガラリと変わり、まだ全てが済んでいないかのような巌のような顔付きへと変わったのである。


「この木下宗雲、この歳になるまで様々な呪詛と相対して来たがアレはマズイ。アレは今まで見て来た中で一番タチの悪い代物だった」

「あの木箱は一体、どんな物なのですか? 」


 藤巻の質問に対して回答する前に、木下宗雲は右手の人差し指と中指をチョイチョイと軽く立てて、藤巻にタバコをねだる。

 口元に多少の苦笑を浮かべた藤巻はマルボロメンソールを取り出して一本渡し、百円ライターで火をつけてやる。


「あれはね、桐子(きりこ)と言う呪いの道具……呪具だ」


 肺までたっぷり入れた煙を口からプカアと吐き出しながら、宗雲は説明を始めた。


 ーー桐の木を細く切って組み上げた組子細工、だから桐子と呼ばれるのだが、この世と人の縁を切る【切り子】と言う意味も含まれた呪いの道具であり、もちろんこの世にあってはならない外法の物である。

 古くは平安時代の修験道の外法に登場するのだが、桐の木で組み上げる際に、中の空洞に呪符や呪物や蠱毒などを入れる事で様々な負の力が発生される。例えば恨んだ人を呪い殺すために、例えば憎んだ者の血族代々に不幸をもたらすためと、中に組み込んだ呪物の種類によって様々な効果が発現するのだが、君が持ち込んだアレは最悪だ。無差別殺人を狙った呪詛なんざ初めて見たよ。入っていた呪符がね……アレはダメ、アレはダメだーー


 木下宗雲はそう一通り説明したのち、宗雲の話に真剣に耳を傾けていた藤巻の顔をマジマジと覗き込む。


「藤巻君、持ち込んだ君自身も危なかったのではないかね? 」

「虚勢は張りません、俺もヤバかったです」

「うん、そうだろうね。だが打ち勝って私の元へとたどり着いた、大した胆力じゃないか」


 木下宗雲に褒められた……

 修験道の道にいる者、密教をもって人々の安寧に寄与する者から褒められる事は、非常に喜ばしい事ではあるのだが、そう言われても素直に喜べない藤巻。何故喜べないのかは自分自身が分かっている、痛いほど理解している。


 ……何故なら、藤巻博昭は負けそうになったのだから……


 これが、ここら辺が限界だと思った

 ただ単に頭のキレる程度のスキルでは、太刀打ち出来ない世界がある事を知った

 専門家ですら怯えるほどの深い深い闇に、探偵風情がしゃしゃり出る危険性に気付いた


 調子に乗っていた訳ではないのだが、いつ転落してもおかしくはない、命がけの綱渡りをしていた事に、藤巻は気付いたのである。


 ーーあの時

 圧倒的な絶望感に包まれ「俺はもう充分やったよな」と、勝手に自分に幕を下ろそうとした時に、群らがる亡者の中に水沢智絵の姿を見つけた。

 そして予想だにしなかった十四年ぶりの再会に智絵は藤巻に向かって進むべき道を示した。桐子に囚われた亡者の姿のままでだ。


 智絵が示す先に何かの光明を見出したのか、脱兎の如くその場から離れて土蔵の中に飛び込んだ藤巻。

 【水沢智絵の魂を解放させる】そう思って土蔵の内部で再び負の根源を探していたはずの藤巻であったが、自分でも認めたくない現実が現れていた。


 土蔵の中に足場を作って梁に掴まろうと必死にもがいていた時、智絵との甘くて悲劇的な思い出以外に……別の人々の笑顔が、彼の脳裏をよぎっていたのだ。


 コーヒータイムでマスターが丁寧に淹れてくれるマンデリンの苦くて上品な香りと、自分に語りかけてくれるマスターの笑顔

 その隣で特別天然記念物や絶滅危惧種を見るような、細心の注意を払うような視線で自分を見詰める江森美央の姿。それはもちろん、藤巻に語りかけてくれとねだっている姿ではあるのだが、語りかけた時の彼女の笑顔……一点の曇りもない彼女の笑顔


 水沢智絵の一家心中事件以降、答えも聞かせて貰えないまま逝ってしまった彼女を想うと“俺は見捨てられてしまったのだ”と逆に考えるようになり、大学進学を諦め、仲の悪かった親とも袂を分かち、逃げるように自衛隊に入隊した藤巻が任期を終えて除隊した後の事。

 長野に帰って来て働きもせずに独りだけの実家に引きこもっていた時、突如自宅に殴り込んで来た池田祥子と三輪秀一の自分を怒る顔。今を生きろ、立ち上がって自分の人生と闘えと激怒しながら心配する顔。

 そして三輪と祥子が出資して立ち上げた【藤巻探偵事務所】の代表に勝手に据えられて探偵稼業がスタートしたのだが、依頼人とそれらを取り囲む人生模様に興味を示し、真剣に働き出した時の三輪と祥子の笑顔。


 美央と彼女を取り巻く友人・知人たちの屈託の無い笑顔

 祥子や三輪、そして探偵事務所の職員たちの笑顔、更にはトラブルが解決した時の依頼人の笑顔


 ただ、ただひたすら水沢智絵の笑顔だけを追いかけて来た“見捨てられた者”が顧みて思い出すと、何と自分の身の回りは笑顔で溢れていたのだとーー感心してしまうほどに、そんな簡単な事実にあらためて気付き、そして戦慄を覚えたのだ。



「藤巻君、今君は考えているね? 専門家でも無い自分が、果たしてこのまま闇と向き合って良いのかと。リスクを気にする君ではないが、周りの人たちにいつか不幸を伝播させるのではないかと」

「木下さん、笑って誤魔化せないほどに核心を突いて来ますね。まあ、その通りです」

「二年前だったね、君が初めて私を頼ったのは。丑の刻詣りのワラ人形を持ち込んで来て、助けて欲しい人たちがいると」

「もうそんなに経ちますか……。何だかんだ言っても俺はただの探偵なんです、せいぜい人の闇をあぶり出す程度の男です」

「ウワハハハ! そこまで卑下せんでもよろしい」


 豪快に笑った木下宗雲は、バンバンと藤巻の背中をこれまた豪快に叩き、藤巻の肺から一気に空気を抜いて鼻白ませるのだが、あっという間に巌のような顔へと戻る。


「人を助けたいと思う気持ちに高尚も野卑も無い。つまり君は人を助けたいと思い、それを行動に起こせる男だと言う事実だけがある」


 ーーただ、これだけは言っておくよ。あの桐子は新しい、その意味が分からない君ではあるまい? ーー


 木下宗雲が今まで護摩祈祷を行って来た中で、まれに呪物・呪詛の浄化を依頼された経緯がある。

 「家の土蔵から出て来た」「引っ越し先の天井裏から出て来た」と持ち込まれた物は、どれもが数百年の時を感じさせる古ぼけた代物で、呪物と言うよりも歴史的価値を感じてしまうような色褪せた物であった。

 だが、藤巻が持ち込んで来たそれは、数十年が経過した程度の非常に新しい物であったのだ。そして桐子に内包された呪符……特定の人物の不幸を願う呪符ではなく、無差別に人を死に追いやる呪符を入れるなど言語道断中の言語道断。

 木下はその真新しい桐子を前に、人間社会の暗部を今も蠢いている、強烈で痛烈な悪意を汲み取ったのである。


 誰があの桐子を作ったのか

 何を最終目的としてあの呪符を入れたのか

 無差別心霊テロを目的とした桐子は、あれが最初で最期の一個なのか

 何故あの家に置かれているのか


 ーー今回は対処療法を行っただけで、根源にたどり着いていない


 木下と別れ、善光寺の参道を帰路についた藤巻は、彼の言葉を噛み締めつつ、今後の自分の立ち位置に想いを馳せていた。



 ……退くか進むか……



 その表情は沈鬱であり、事件を解決させた清々しい笑みなど、欠片も浮かんでいなかったのだ。




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