69 パンドラの箱の底
ーー甘かった。自分の力を過信した訳ではないのだが、こうもあてが外れるとはーー
地面にぺたりと腰を下ろし、土蔵の干からびた壁に背中を預けながら、藤巻はがっくりとうなだれている。
美央の後輩たちに差し伸べた救いの手
理屈通りに、理論構築通りに……美咲から聞いた証言と自分の体験、そして探偵としての考察から導き出した答えが“ここにある”と結論を出し、勇んで赴いた結果がこれ。
【 何も見つけられず 】
これが局面を打開するポイントであった
と言うか、昨晩暗闇の中で見落とした可能性があるものを、今白日の下に晒す意味で昼間に訪れたのに、それらしいものが何も見つからないのだ。
埃とカビ臭さが漂う土蔵の中は、土で締め固められた土間に古びた棚が並び、その棚にはもはや物と言うものが一切存在しないほどに空っぽで、むしろ逆に何か物があれば目立ちに目立ち、よほどの愚か者でも見逃す事はあり得ない状況だ。
つまり空っぽ
強いて言えば、ホームレスの遺体があったであろう場所の土の色が変わっているだけ。
人の形に影が出来上がっているのだが、腐敗した遺体の体液が土に染みただけの事で、そこに秘密がある訳でも無い。
藤巻博昭は結果として、失敗したのである。
“会社の金に手を付けてしまった。もう逃げ場所は無いし、借金取りの取り立てにも疲れた”
“来週、二度目の不渡り手形が発生してしまう。そうなれば会社は終わるし、抵当に入れてる家や財産……全てが持っていかれる”
“お父さん、お母さんごめん。もう一度頑張るって言ったけど、やっぱりダメ。もうイジメには耐えられない”
“もう……四十歳も過ぎたと言うのに、家無し土地無し家族無しの契約社員生活から脱却出来ない。さらに利用するだけ利用しておいて来年契約しないとか、いよいよ俺……終わったな”
“休めない……休めない! 店長なんて聞こえのいい事言ってるけど、残業代を払わなくて済む都合の良い奴隷じゃないか! 家に帰れない店長って何だよ!? ”
土蔵の前で座り込む藤巻の耳に、いや鼓膜ではなく直接脳に響くように、死者たちの怨嗟の声が聞こえて来た。ちょっとでも気を許すと自分自身を死に誘ってしまう自殺衝動の波だ。
「律儀なこって。俺を仲間にしても、そんなに良い事無いぞ」
太陽は西に傾き、日照時間の少ない山あいは、空は真っ青に輝いているのに陰って来ている。
がっくりとうなだれる藤巻を笑うように、シシシシ、ヒヒヒヒとひぐらしも合唱を始めた。
このまま何ら解決策を見出すきっかけもないまま、藤巻の目の前をズラリと囲み始めた「亡者」の群れに取り囲まれれば、いよいよ藤巻も自らの腹の底に湧き始めた自殺衝動にあらがえなくなるのは必然。
だが、命の危険がすぐそこまで迫っていると言うのに、当の本人が完全な諦めムードで、迫り来る負の気配を追い払おうともしないのだ。
「呪いなのか、祟りなのか、それとも障りなのか……。それすら分からなかったな」
まるで執行を目前に控え、どうにもならない事を悟り悪あがきをやめた死刑囚が、開き直って態度をふてぶてしくさせるような、そんな雰囲気を醸し出しながら藤巻はマルボロメンソールをくわえる。
「俺の何がダメだったんだろうな? 理論構築か? それとも状況把握か? いや、俺なら解決出来ると勝手に考えた……驕りなのかも知れないな」
カチリと百円ライターの火を灯し、山から吹き降ろして来る午後の涼しげな風に揺られた炎を、上手にタバコの先にあてる。
すうっと一気に息を吸い、喉や鼻の肺がメンソールの清涼感に満たされた後に、ぶわあっと真っ白な煙を吐き出す。
「マズイな、お前らのその誘いに、抗えるだけの気力が無い」
やっと、やっと俯いていた顔を上げて、自分を取り囲んだ亡者たちの姿を真正面に見据える。それは徹底抗戦の意志表示ではなく、支配されつつあった自殺衝動からなる迎合の感情であったのだが、思わぬところで風向きが変わった。
ーー藤巻を取り囲んだ多種多様な亡者たちの群れ。サラリーマンや老人や主婦や子供たちの中に、藤巻が凝視したまま目を離せなくなってしまった人物がいたのである。
それは亡者の人垣の隙間から見えたセーラー服姿の少女。柔らかな髪質のショートカットが印象的な、凛々しく美しい少女。
その少女に釘付けになっていた藤巻は、口からポロリとタバコを落とすほど呆けながら、やがてその少女にまつわる記憶の全てを思い出し、驚愕と怒気を過分に含んだ声で叫んだのだ。
「智絵? ……お前智絵だろ? 何で、何でお前はコイツらと一緒にいるんだよ!」
藤巻が怒鳴り上げた先にいる少女の名前は水沢智絵。藤巻にとっては高校時代の彼女であり、藤巻の人生においてこれほど人を想い、これほどに人を愛したのは彼女が最初で最期。
一家心中で亡き人になってしまったが、「こんなところ」で偶然にも遭遇してしまったのだ。
「お前、お前……何やってんだよ! 何で……何で!? 」
彼女を救うためと言う大義名分もあったが、心から彼女との結婚を望んだのは嘘偽りの無い事実であり、彼女と歩む人生しか考えていなかった当時の藤巻は、何ら答えを貰う事無く一家心中の報道を目にして、そのまま彼の中で時間が止まっていた。
何故自分を選んでくれなかったのだ、何故一家心中と言う最悪の手段を選んでしまったのだ……聞きたい事が一気に藤巻の胸に溢れ、逆に藤巻は言葉が詰まってしまったのである。
だが
藤巻の心の片隅に良からぬ思いが小さく芽吹く
【自殺衝動に抗えぬ今、自分に今トドメを刺せば、智絵と再び一緒になれる】
愛しい人がいない今を苦しく生きるよりも、それもありかなーー
藤巻が流されるようにその決断をしようとした時だ。
水沢智絵は藤巻の決断を悟ったのか、いや悟らなければこんな行動はしないだろうと思われる、驚愕の行動を起こす。
濁った死者の瞳でうつむきながら立ち尽くす亡者の群れの中で、水沢智絵はたった一人、右腕を上げてとある方向を指差したのだ。
「どうした智絵、何が言いたい? 」
智絵が指差す方向は、藤巻が寄りかかる土蔵に向かっており、それも、地面や屋内を指し示しているのではなく、幾分上方を指定している。
「土蔵には天井裏なんか無かったぞ。屋根の骨組みが剥き出しになってて、柱と梁も剥き出しに……! 」
何かに気付いた藤巻は、がばっと埃が舞うほどの勢いで翻り、土蔵の中にダッシュで入って行く。
まるで迷いが無いように動き出した藤巻は、乱暴に棚を移動させ土蔵の中央に集め、足場を作り、棚をはしごの様に登り棚のてっぺんへ。
屋内を東西南北に走る梁に手を伸ばして懸垂よろしく梁の上に身を置くと、壮絶な土埃など御構い無しに梁の上に何か無いかと探し始めたのだ。
「あった、あった! これだな」
柱と梁の交差する場所で見つけたのは、手のひらに収まるほどの古びた小さな木箱。木箱と言うよりも細い長方形の木材を組み上げたような立体パズルのような代物であり、どれが蓋でどこが開け口なのかさっぱり分からないのだが、それが怪しいと言うのは素人の藤巻にとっても感覚で分かるーー人間の死に直結するような、負の気配に満ち満ちた木箱だったのだ。
「智絵、これだろ! これが根源なんだな、これを善光寺さんでお焚き上げして貰えば、全てが救われるんだな! 」
さっきの諦めムードとは打って変わり、瞳を爛々と輝かせながら土蔵から飛び出して来た藤巻。
だが、彼を迎えるべき亡者たちの姿は無く、水沢智絵の姿も無かった。藤巻が土蔵から出て来た時には誰もかれもが跡形もなく姿を消していたのである。
……リィリィリィリィリィ……
ひぐらしの透き通った鳴き声が夕暮れを知らせる、山間地の田舎の風景だけが、そこに残っていた。




