67 好きなもの 好きな曲 好きな人
長野市の北部に広がる巨大な団地群の中心を南北に縦断する主要幹線道路は、正式には県道荒瀬原線と名前が付いているのだが、住民たちはその正式名称を口にする事は無く、単に「バイパス」と呼んで日々を過ごしている。
それだけ地域に密接な関わりのある、あって当たり前の道路だと言えるし、ただ単に長野市の中心街に向かう道だからと言う、淡々とした理由だとも言えた。
いずれにしても、往来の多い道路には商業施設が立ち並ぶのは必然であり、道沿いにズラリと様々な店舗の中の一つに古びたラーメン屋があるのだが、藤巻博昭はそこにいた。
“つけ麺の元祖”“ラーメンの神様”と呼ばれて長年親しまれた池袋「大勝軒」の故・山岸一雄氏。
その山岸氏が肩を並べて切磋琢磨して「つけ麺」を世に出して普及させた、氏のルーツでもある丸長グループと言う暖簾仲間がいる。
店名はあえて言わないが、その暖簾仲間が営む昭和の雰囲気をたっぷりと残したラーメン屋のひとつがこの北部団地にもあり、古くから藤巻お気に入りの店……彼の中では歩いて通える食堂ナンバーワンに君臨し続けていたのであった。
普段はつけ麺大盛りのみを頼んで、一心不乱に食べきるのが彼のスタイルなのだが、何故か今日だけは違う。
違うと言っても、「先ずは小麦の風味を確認しましょう」と言い出して、つけ汁に麺を浸さないまま食べて講釈を垂れている訳でもなく、左手に新聞やコミックを持ってチンタラ咀嚼を繰り返している訳でもない。
今日はつけ麺大盛りを頼んでいないのだ
あの酸味の効いた醤油ベースの、昔ながらのつけ麺を食べていないのである
今、藤巻の目の前にあるのは醤油ラーメンとチャーハン、そして餃子のド定番料理。側から見れば可も不可も無いラーメン屋さんでのちょっと豪勢な注文内容にしかならないのだが、つけ麺大盛りしか注文して来なかった藤巻を知る者にとっては、大事件に近い事象だと言える。
熱々のラーメンを箸ですくい上げ、ズルズルッ! と勢いよくすする間に、箸は既に次の麺をすくい上げで口に入れるタイミングを見計らっている。
ひとしきり麺をすすったら次はギョーザ、ビショビショになるまでつけダレに浸したギョーザを一度チャーハンの上にトントンと乗せてタレ切りを行なって一口で貪る。するとギョーザの中の灼熱の肉汁がプチッと口内に溢れ、口内が火傷するのではと錯覚を起こすのだが、慌てて氷の入ったお冷をごくりと飲んで口の中の“お祭り”を沈める。
すると、熱さだけでなく油分もリフレッシュされた口内の環境を脳が「今だ」と判断したのか、今度は右手が自動的に箸からレンゲに持ち替えられる。まだ仄かに湯気を立ち上げているチャーハンをかき込むのである。
チャーハンはパラパラが好まれるが、あまりにも水分が飛んだチャーハンを藤巻は“ミイラ”と呼ぶ。そう言うチャーハンに限って味付けが濃く、それが米の甘さすら消しているため、藤巻は昔ながらの薄味でしっとりさが残るチャーハンを好んでいる。あの玉子の甘さすら感じられるチャーハンが好きなのだ。
そのお気に入りのチャーハンを、ろくに噛まずにガツガツと口に放り込むが、口に入れたチャーハンの量と唾液のバランスが取れなくなったのか、今度は醤油ラーメンのスープを無造作にすすって口内と喉を潤し、レンゲを箸に持ち替え再び醤油ラーメンにアタックを仕掛ける。
まるで喧嘩腰のような藤巻の食事風景。
まるで親に怒られてヘソを曲げた少年の夕食の一コマのようにも見えるのだが、悪どい伯爵から姫を救い出そうとして失敗し、重傷の身体をおしてリベンジに挑むアルセーヌ・ルパンの孫のようにも見えるーー血が足りねえ! と言うやつだ
実のところ、藤巻博昭は焦っていた
日付けの変わった盆休み直前の月曜日
深沢美咲とその友人たちを助けるために、異変の発端となった廃墟を調査した。
だがしかし、異変は確認出来たものの原因を突き止めるまでには至らず、藤巻も現象の大きな渦に巻き込まれてしまったのである。
現象とはもちろん、ホームレスの遺体が発見された場所が確認出来た事や、大勢の幽霊に取り囲まれた事を言う言葉ではない。その後に起こる……その後に起こるであろう自殺の連鎖に巻き込まれたと自覚した事である。
“自殺衝動”
今この気持ちが藤巻の心の底からとめどなく溢れ出て来る。
ちょっとでも気を許してしまうと、いつの間にかネガティブな思考に占領されて、死んでしまいたいと簡単に結論付けてしまう。
昨夜の廃墟調査で夜間調査は非常に危険だと感じた藤巻は、帰宅して一旦仮眠を取り、太陽の光が燦々と降りしきる明るい時間帯を狙って再調査に赴こうとしていた。
だが、仮眠から起きると再調査に赴こうとする気力が全く湧いて来ないのだ。もっと言えば、朝食を作る気力も無ければ空腹を癒そうとする気力も無く、気力が湧かないなら寝直そうかと言う内向きの気力すら失せてしまったのである。
気持ちが乗らないだけならまだ良い。事あるごと、もの思う度に思考はどんどんと悲観的な方向へと足取りを早め、いちいち脳裏と瞼に“死”がチラつくのである。
ーーダメだ、廃墟の再調査に行くだけの気持ちが湧いて来ない。このままでは深沢さんとその仲間たちの命が失われてしまう。そうなったらもう、死んで詫びるしかないんじゃないかーー
ーー朝、祥子さんには会社を休むと連絡したが、酷く心配している様子だった。簡単に会社を休むなんて経営者失格だ、万死に値する! ……本当に死んだ方が良いんじゃねえか俺ーー
バチン、バチンと自分の頬を張った。ほっぺを思い切りツネって安易に出て来る結論を諌めた。
必死に抵抗する藤巻だが、抵抗すればする程に、死の誘惑はその力を増して、大勢の仲間を連れながらヒートアップして来るのである。
白昼、自宅の廊下に突如現れた棒立ちの幽霊
庭の隅に立つ老人、電柱の隣に立つ若い女性、お向かいさんの家の屋根に立ち並ぶ少年やサラリーマンなど……【自殺したであろう人々】が藤巻を誘い始めたのだ。藤巻が誘惑に溺れそうになりながらも、圧倒的な命の危険を肌で感じても不思議ではない状況であったのだ。
だから彼は発奮した
何をやっても良い事がなく、何をやってもパッとせず、気付けば何も成し得ていない三十二歳、家庭も妻も彼女すらいない孤独な自分だが、それでも自ら死を選んではいけない。そして自分に助けを求めた人たちが待っていると奮い立つ。
今、このラーメン屋さんで一心不乱に食べ物をかき込んでいる姿は、藤巻の逆襲の第一歩なのだ。
ーーガッツリ食う、鬼のように食う! そして腹一杯になったらあの廃墟に向かい、全ての元凶を暴く! 俺なら出来る、俺なら出来る、レンジャー徽章を授与された時だって、極限状況を生き抜いたからだったはずだ! ーー
あっという間に完食し、会計を済ませて店の外へ。
セミの大合唱で静けさの欠片も無い賑やかな田舎、標高の高い長野……その真夏の太陽はまるで、藤巻を包む死の黒い霧を散らすように輝いているようにも見える。
プルルルル、プルルルル!
その時、藤巻のスマートフォンに着信が入る。ポケットから取り出すと画面には江森美央の表示があり、何故か藤巻は待ち兼ねていた人との会話のように慌てて通話をタップしてまくし立てた。
「美央ちゃん、忙しい時に何度も何度も電話して悪かった! 」
どうやら藤巻が美央に対して何度も着信を入れて電話の催促をしていたようで、コーヒータイムでバイト中の美央は、ランチタイムの忙しい時間を縫って藤巻にかけて来たようだ。
「深沢さんと仲間たちに伝えて貰いたいんだ。あれは三日おきの呪いじゃない、心が負けた人から自殺して行く呪いのようなもので、順番なんて関係ないんだ」
炎天下の暑さが身に染みるのか、通話しながらネクタイを緩めつつ、駐車場に向かう藤巻。戦い抜く覚悟が溢れているのかその歩幅は広く、一歩一歩がアスファルトの歩道に突き刺さりそうに力がこもっている。
「抵抗すれば抵抗するほど呪いの力もパワーアップするが、それでも徹底的に抵抗しろと伝えてくれ! 簡単に死にたいと思うなと言ってくれ、好きなものを食べて、好きな曲を聞いて、好きな人から好きだと告白される自分を思い描き、未来を夢見て我慢しろと伝えてくれ! 」
車のドアを開けてシートに座る。真夏の太陽に焼かれた車は車内の空気だけでなく、ハンドルやシフトレバーをも容赦なく焼き、触るだけでも火傷しそうに熱い。
だがそんな事お構い無しにエンジンをかけて窓を全開にし、がっちりとハンドルを握りあの廃墟へと藤巻は向かうのだが、車を発進させる前に美央との通話を終わらせた時の最後の言葉……
【今から俺が何とかして来るから、それを信じて待っていろ。それまでの我慢だと! 】
その勇ましい言葉は美央を通じて深沢美咲に伝えられるのであろうが、自分自身に言い聞かせていた部分もある。
ーー自分を信じなきゃーー
何を引きずっているのかまでは皆まで言わないが、果たして自分は正しかったのかどうかと言う、彼の人生において、そう言う局面に立たされたと言う事件でもあったのだ。




