64 藤巻の二面性 後編
高校の近所にあるパン屋「紅玉堂」は、パンだけではなく色とりどりの菓子パンやカップラーメンやスナック類も販売しており、昼休みや夕方下校時の学生たちにとっては、溜まり場でもあり憩いの場でもある。
田んぼには黄金色の稲穂が風に揺れ、そろそろ稲刈りとともに秋祭りの季節がやって来た頃の事、真っ赤な夕日に空がオレンジ色に焼けて、長野市の西側を囲む山々との黒とオレンジのコントラストが見事に映える時間帯に、紅玉堂の前に立ってオレンジ色に照らされた一人の学生を呼ぶ声が聞こえる。
「……君、ヒロ君、ヒロ君! 」
遠くから手を振りながら駆けて来るのは、同じ高校で同じクラスの女子生徒で名前は水沢 智絵。一年生の頃のバレンタインデーをきっかけにお付き合いを始め、一年半も清い関係が続いている相手である。
「そんなに慌てなくても、俺はここにいるよ」
下校途中の生徒や、紅玉堂に出入りする生徒たちから受ける眩しい視線が藤巻をひどく落ち着かせなくするのだが、それ以上に自分を見つけた智絵の笑顔が眩しく見え、照れ隠しで大人の余裕を見せつけた。
藤巻渾身の「大人の余裕」であったのだが、智絵がたどり着いてすぐに自分の手を握りしめた事で、そんな余裕もあっという間にしぼんでしまい、主導権は完全に智絵に握られてしまった。
「さっ、帰ろ帰ろ」
「引退した元生徒会長に泣きつくなんて、今の執行部は人材不足なのかい? 」
「前任者から詳しく聞かないと、文化祭なんか回らないわよ。私たちの時代だって先輩に泣きついてたわ」
そうだっけ?
そうだったよ
時間をかけてゆっくり歩く二人の肩は擦れるか擦れないのかのぎりぎりを保ちながら、繋いだ手は指と指の隙間に相手の指が滑り込みがっちりと繋がれている。
下校中の生徒たちの注目を浴びながらも冷やかすような声や野次がかからないのは、二人が在校生から尊敬されている憧れのカップルであるからである。
体育祭、文化祭など全ての学校行事を大成功に終わらせた伝説の生徒会長と、常に彼女を支えた影の実力者と言われた生徒会副会長。生徒会役員に当選する前から学生たち公認の仲で、生徒会引退後も仲睦まじい二人の姿は、同級生や下級生たちのモデルパターンでもあったのだ。
「ヒロ君、今度の週末……映画見に行きたいなあ。何かお勧めある? 」
「今月はあんまり興味のある映画やってないなあ。月末にSAW2が上映開始になるけど」
「ひゃ! あれはダメ、私無理無理。だって痛そうだし怖いもん」
「まあソリッドホラーってジャンルで売り出してるからね。あの誰も結末の分からないどんでん返しに俺はハマってるよ」
「SAW2見に行くならヒロ君一人で行って来て。その代わり来月から始まるハリー・ポッターと炎のゴブレットは一緒に見に行きましょう」
「はいはい、分かりましたよ」
電車男のドラマが終わっちゃったねとか、今度野ブタをプロデュースが始まるねとか、どうせヒロ君はドラマなんか見ないからアニメのBLOOD+が気になってるんでしょ? と、終始智絵のペースで会話が続くのだが、藤巻はそれを嫌とは思わずに、智絵の言葉を耳に心地よく感じながら、少ない言葉数と相づちで返している。
平原綾香のジュピター、寝る前に聞くと心地良いよね。私まだリピートにして聞いてるよーー雑談に興じながら帰路につく二人は、そうこうしている内にいつもの公園にとたどり着く。ここを起点としてそれぞれの家路が別となる、日々最後の憩いの場所だ。
いつも通りブランコに腰掛けゆるゆると漕ぎ、無邪気に両足で空を蹴飛ばす智絵。
藤巻はブランコを囲むガードパイプに腰掛け、夕陽を浴びてオレンジ色に輝く智絵を眩しく見続けている。
「ヒロ君、お家の方はどうなったの? 大丈夫? 」
「勝手にしろってさ、家庭内村八分みたいなもんだ」
皮肉めいた言い方で毒付く藤巻。
と言うのも、昨年末から藤巻は家庭内で問題を抱えており、それが彼個人の進路にではなく「一族」に影響を及ぼす問題であったのだ。
藤巻家のルーツは、長野市から車で一時間ほど北東に行った奥信濃……「栄村」から始まった。
藤巻博昭の父はその藤巻家においては当代の弟である分家として、新天地長野市で居を構えながら会社員として生活して来たのだが、子供のいない本家当主と妻が昨年末に次々と病で倒れて亡くなってしまったのである。
本家が途絶えてしまえばそれを継ぐのは分家、そうして一族の血を守る風習がある以上、藤巻博昭の家族は栄村に戻り、古くからの豪農としてのステータスを守らなければならない。
藤巻博昭はその全てを拒否し、長野市にとどまる事を猛烈に主張し続けたのである。
「兄貴もバカだよ。会社員が嫌になったから農家やるって有頂天になってるけど、簡単に農家が務まるなら、深刻な人手不足だって社会問題にならないだろ」
「だいぶ喧嘩したみたいね。お父さんもお母さんもヒロ君の話は聞いてくれないの? 」
「本家の資産が楽に手に入るんだ、俺の言葉に耳を貸す者はいない。……まあ、つまり今の家は俺にくれてやるから後は勝手にしろって事さ」
栄村の本家は貰う、土地や資産も貰う。一緒に来ない博昭には長野市の家をくれてやるから好きにしろ。その代わりこのまま大学進学を希望するなら奨学金で行け。
両親や兄からそうあしらわれ、事実上勘当のような仕打ちを受けているのに、藤巻の瞳には敗北どころか動揺の色も浮かんではいない。何故なら藤巻は、今目の前にいる智絵を通じ、彼女の先に希望溢れる未来を思い描いていたからだ。
「俺は大丈夫。いつも通りの俺だし、これから先もいつも通りの俺だ。それよりも、俺は智絵の方が心配だよ」
ガードパイプから立ち上がり、智絵が乗っているブランコのチェーンを掴む。話しながら漕いでいたので、それほどの勢いは無く、止まったブランコから智絵は藤巻を見上げる。
「来週……このままなら二度目の不渡りが起きるってお父さんが。今必死に金策で走り回ってる」
水沢智絵の父親は昭和の頃から小さな工務店を経営していたのだが、バブル経済の崩壊と共に長野を席捲していた冬季オリンピック不況のダブルダメージを受け、苦境から抜け出せずにいたのだ。
「二度目の不渡り」の意味が分からない藤巻ではないし、オリンピック不況で長野がどう荒んでしまったか知らない藤巻でもない。
大抵の個人事業者や中小企業の経営者は、自宅や自分の資産を抵当に入れて、高飛車な銀行や信用金庫から命じられるままに連帯保証人を血まなこになって探し回る日々。
信用ローンやサラ金に運転資金の希望を見出すも、苛烈な取り立てと乱暴な金利に悲鳴を上げ、ゴールの見えない地獄のレースが続く限り家族にも安らぎはやって来ないのだ。
見上げていた顔を下げて表情を隠す智絵。
どんなに辛い事があっても笑顔で切り抜けられる女性だと信じていた藤巻は、今の今まで笑顔でいた彼女のそれは完全な作り笑いで、うつむく彼女こそが本当の姿なのだと知る。
自分にだけ見せる本当の姿
その姿を見た藤巻は、おもむろに彼女の手を取って立ち上がらせ、そのまま至近距離で彼女の瞳を見詰めた。
「智絵、結婚しよう。俺と結婚してくれ」
「ヒロ君? ちょ、ちょっと急に……どうしたのよ? 」
「理屈じゃなくて、俺は智絵との人生を真剣に考えてる。早いか遅いかの差だけでこの気持ちに変わりは無い」
「でも……でも私まだ高校生だし、これから先……」
「両親の許可があれば可能だよ。それに後半年も我慢すれば卒業だし、俺頑張って働くから」
「ダメだよヒロ君、教師になりたいって言っでたじゃない、国立目指すって」
「将来の夢が教師なんじゃないんだ。君と肩を並べて人生を歩くなら教師が良いなって話で、君のいない人生に夢も何もない」
今日一番饒舌になっている藤巻。
感激のあまり智絵は泣き出しており、その頬を伝う涙も鮮やかな夕陽に輝く事から、ますます藤巻の決意と覚悟を強固にさせる。
苗字が水沢から藤巻に変われば、つまり戸籍が変われば、取り立ての魔の手が及ぶ事も無いだろうし、親父さんの負担も減るだろうーー
「今すぐ返事をくれとは言わない、今日は帰って真剣に考えてくれ」
いきなりの申し出に動揺しながらも、感極まって涙をこぼしていても、智絵は喜んでくれていた。そして自分との結婚を前向きに考え始めていた。
後は智絵が一度落ち着いて考え、そして再び自分と会った時に「はい」と答えるだけなんだ。
藤巻はそう思っていた
だが、水沢智絵が藤巻の目の前で「はい」と答える事は無く、求婚以外の会話を重ねる事も無かったのである。
あくる日の昼休み、智絵が休んでいる事を気にしながらも担任教師に呼ばれた藤巻は職員室へと赴いた。すると担任教師がこう質問して来たのだーー水沢が無断で学校を休んでいる、自宅に連絡しても誰も出ない。藤巻、お前何か知ってるか? と
下校後に慌てて智絵の自宅へ駆け付けると、カーテンで閉ざされたままの人気の無い家がそこにあるだけで、隣の工務店も施錠されたまま無人になっていた。
当初は夜逃げしたのではと噂されたのだが、一週間ほど経過した際、とある山林の中で一台のワンボックスカーが発見される。
森林組合管理地で一般人の入山が禁じられている場所であり、作業員が注意しようと車に近付いた際に気付いたそうだ。
身動きしない三人の人影があり、車のドアなどの隙間に目張りのテープが張り巡らされ、練炭を炊いた跡。
そう、水沢智絵の父親は将来を悲観して妻と娘の智絵を連れて、一家心中したのである。
その第一報が入った前後……夜に担任教師から自宅にかかって来た電話に出た前後の記憶があまり無い。
第一報を耳にした途端、天地がぐるぐる回る感覚に襲われて、自室に戻る際に何度か腰が抜けて転倒したのは覚えているのだが、その時の自分の表情や何を思ったのかが思い出せない。
唯一藤巻が覚えているのは“泣かなかった”事。不思議と涙が溢れる事は無く、本当に絶望を胸に抱いた者は、泣き喚いて騒ぐのではなく、淡々と茫然自失になるのだなと感じた事である。
結婚してくれ、俺と一緒に生きてくれと彼女に願った。
それに対しての答えはイエスでもノーでも無く無言のままであり、その答えを聞くチャンスは永遠に失われた。
あの時、今すぐ答えてくれと迫ったら、彼女の末路は変わったであろうか?
結婚を迫る前に抱きしめたら、キスしたら、彼女は自分を選んでくれたのか?
俺の気持ちを知っていながら家族との死を選んだのは、俺ではまだ足りなかったのか? 子供だったからなのか?
常に答えの無い自問自答を繰り返しながら、藤巻博昭の青春は終わった。
国立大学に入る事も、将来教師になる夢も終わり、民間企業に就職する気にもならない藤巻は、忌まわしいこの地から逃げ出すように自衛隊に入隊したのであった。
夜も更け、走る車の台数も減って来た長野市北部の巨大団地群
長野市の北側を囲む山々が涼しげな空気を風に乗せるのでエアコンなど必要が無く、網戸で夜を過ごす家庭が多い事から、自宅に向かってゆっくりと歩く藤巻の耳には様々な暮らしの音が聞こえて来る。
プロ野球のナイターゲーム放送が聞こえる、父親がチャンネル争いに勝ったな
カレーのスパイシーな匂いが流れて来た、残業で遅く帰宅した旦那さんのために温め直してるのかな
エコーのかかった子供のはしゃぐ声、親とお風呂に入ってオモチャを浮かべているのかな
幼い兄妹の怒鳴り合う声、ああ、なるほど、アイスクリームの食べた食べてないか
フッと小さく笑いながら、マルボロメンソールを取り出して一本くわえて火を点ける。
ハッカを含んだ清涼感ともなう濃厚な煙が一旦肺に詰められ、そして口から出て行く。
ーー人の醜い姿を暴く仕事を選んだ俺を、彼女は果たして責めるだろうかーー
答えの無い疑問を抱く時、この疑問がラストとなって藤巻の自問自答の時間は終わりを告げるのだが、今日は珍しいきっかけで現実に引き戻される事となる。
普段ならば業務連絡以外で決して鳴る事の無いスマートフォンが、持ち主の藤巻に着信を知らせて来たのである。
“着信 江森美央”
何やら嫌な予感に襲われ、素直に応答をタッチ出来ないのだが、不審げな彼の表情の中で口元だけが微かに笑っている。
「饒舌でありながら寡黙」「社交的でありながら孤独」これら藤巻を表す矛盾に満ちた言葉は、たった一人心を許した人の生と死、そして家族との亀裂が影響している。つまりは彼の青春時代そのもの。
それでも彼が社会に完全に背を向けず再び長野の地に戻って来たのには、池田祥子の想いが働いたと言う理由もあるのだが、それはまた別の話。
今現在、藤巻博昭は三十二歳。
今の彼が社会と完全に途絶はしていないと言う理由の一つに、江森美央と言う女性の存在も確かに含まれていたのであった。




