63 藤巻の二面性 前編
盆休みも間近の八月第一週の週末。
いよいよ来週末から盆休みと言う名の、民族大移動的大型連休が始まる事から、日本全国が浮き足立ち始めているのに便乗し、たまには冷たいビールでも飲もうかと、藤巻博昭が代表を務める藤巻探偵社でも暑気払いが開催されたのだ。
場所は近所にある中華料理『黄龍』。昭和の時代から地元に愛される、地元に根差した中華料理屋で、昼間は安価な定食でサラリーマンの胃袋を満たし、夜は定番中華料理とこだわりの麺類で地元住民たちを幸せにして来た店である。
週末の夕方となれば、家族連れだけでなくこの店の料理をつまみに一杯やろうと集まる男性諸兄で賑やかこの上ないのだが、この日の奥座敷……四畳半の個室は予約客で貸し切り。藤巻探偵社のメンバー全員が「回る」テーブルを前に、それぞれが満面の笑みを浮かべつつ生ビールのジョッキを掲げ、社長の一声を待っていた。
「今年前半も好調のまま終わり、何とか気持ち良く折り返す事が出来ました。これもひとえに、社員の皆様の日々奮闘のおかげです」
経営者らしい事をするのがあまり好きではないのか、上がる口角を必死に抑えて照れを隠しながら、藤巻は口上のスピードをどんどんと早めて行く。
何故徐々に徐々にと早口になって行くのか? それはもちろん、肩苦しいのが嫌いだと言う理由もあるが、自分自身が早く飲みたいのだ。キンキンに冷やされたビールジョッキに注がれた、黄金色に輝く魔法の水を。
「この夏が過ぎると、一夏の恋からセンチメンタルな秋に移り、クリスマスがやって来る頃には間違いなく不倫の調査案件もガンガンと増えて、ジャンジャン働いて我々もウハウハで……楽しい正月を迎えられるようにみなさん頑張りましょう。それではカンパーイ! 」
カンパーイ!
割れない程度にと配慮を加え、テーブルを囲む者たちは互いのジョッキをガチャリと鳴らし、後はもう、自分の喉を痛めつけるようにゴクリゴクリと喉を鳴らす。
ぷはああっ!
ーーこの一杯のために生きてるなあーー
そう思う者も少なくない、晩酌での一杯目のビール。家で独りで飲むのも良いが、気心の知れた職場の同僚たちと肩を並べてやるのも格別だ。
「リンちゃん、そろそろお願い! 」
「あいよー! 」
畳の部屋から廊下へ顔を出して、藤巻が店員に声をかける。
かけた相手はもちろん、この店の中華系看板娘。彼女も藤巻を「ヒロくん」と呼ぶ仲であり、このやり取りが繰り広げられる度に池田祥子の額に血管が浮くのは、もはや恒例と言っても過言ではない。
回るテーブルの囲むメンバーは、経営者の藤巻博昭から時計回りに事務員の池田祥子、そして隣には「デカ松さん」こと長野県警を引退した松田末松と、その隣には建築業界から転職して来た田辺旭が座り、再び藤巻に戻る。
合わせて四人のささやかな会社ではあるが、少数精鋭である事は間違いなく、順調に利益を出し続ける事で、来期あたりに一人二人は社員が欲しいなと藤巻が言い出している勢いだ。
「おまたせしたですよー」
Tシャツ、ジーパンにエプロン姿のリンちゃんがどんどんと料理を運び始める。その頃には一杯目のビールを飲み干して追加を頼む瞬間でもある事から、一番忙しいタイミングだ。
まずは定番のプリプリの海老チリ、そして痺れが効いた四川風麻婆豆腐ともっちり肉の酢豚、鶏肉とカシューナッツの甘辛炒めや、じっくり煮込んだ豚の角煮を蒸かしたパンで挟んで食べる中華ハンバーガーも出て来た。
「とりあえず定番だけ頼んでおいたから、もし自分が食べたい物があったら注文してね」と藤巻が言っている間にも、テーブルはどんどんと回り、皿の上の料理はガンガンと減って行く。
ーーたかが会社の近所にある中華料理屋とあなどるなかれ、昭和の雰囲気を残す煤けた店はつまり、昭和の時代からグルメ戦争に生き残って来たと言う実力があるからこそなのだ
「すみませ〜ん、ライス大盛りください! 」
リンちゃんに向かってそう叫んだのは池田祥子。
これだけの料理が揃っていながら、そして物足りないなら一品料理を頼めば良いのに、何故此の期に及んでライスを頼むのか? それも大盛りで?
藤巻も松田も田辺も、ギョッとした顔で祥子を見るのだが、そんな彼らの心配など何処吹く風で、祥子は「こんなに美味しいのにご飯を食べないなんて人生損している」と、ビールをガンガン飲みながら料理をパクパク食べながらご飯をかき込むと言うタフネスぶりを発揮する。
可愛い孫のために働くと公言する松田は自分の老いた身体を労わるように酒を楽しみ、田辺は愛妻の手料理とはまた違う美味さに有頂天。このチャンスを逃してはいけないと胃袋の限界に挑戦中だ。
そして藤巻は紹興酒のお湯割りを頼み、一口食べては一口飲んでと……どの組み合わせがベストなのか自分で確かめ始めている。
やはり会社の飲み会と言う事でもあるのか、乾杯してからしばしの間は、それぞれの口から仕事にちなんだ話が出るものの、酒宴の席での仕事話は野暮な事ぐらい知っている。
田辺からは子育ての話、松田からは孫の話と長野県警時代の刑事のエピソードが。そして祥子からはどこのネットニュースから仕込んで来たのか、世間のお間抜けニュースで仲間たちの笑いを誘っていた。
“良い社員に恵まれたな”
不思議とこのメンツが集まると、藤巻は口元に穏やかな微笑みを浮かべながら押し黙る。
藤巻自身が場の空気を盛り上げようと、意識してペラペラと喋る必要が無くなるほどの安心感を得ていたのだと言えるのかも知れないし、決して話術に長けているとはいえない彼らの生の声が、藤巻の琴線を気持ち良く撫でているのかも知れない。
普段は経営者としての威厳を保ちながら接しているのだが、無礼講が大前提となるこの様な酒の席では、彼自身のハードルも下がるーーつまり藤巻博昭の真の姿とは、穏やかでありながらも口数の少ない「つまらない」人間とも言えたのだ。
「社長、ご馳走でした」
「ご馳走さまでした。また宜しくお願いします」
「社長、あざっした! 」
暑気払いもつつがなく終了し、会社の経費なのか藤巻のポケットマネーなのかは別として、お腹をさすりながら満足げに帰宅して行く職員たち。
北長野駅前と言う立地条件を活かして松田は電車、田辺はバスと、二次会は元々行わない誘わないと言う方針の元で帰って行く。
「ヒロく……ゲフンゲフン! 社長はこの後どうするんですか? 」
祥子が艶っぽい瞳を向けてくるも、長野駅前のショットバーに“独り”で行くとそこを強調し、駄々をこねそうになる寸前だった祥子を半ば強引にタクシーに乗せて帰宅させる。
もちろん、ショットバーに行くと言うのは方便で、藤巻は歩きたかったのかも知れない。不満そうな祥子もそれに勘付いていたのか、餃子の匂いをプンプンさせて食べ過ぎお腹ぽっこりでも今しかチャンスは無いと藤巻に襲いかかるのをギリギリで控え、最後はおとなしくタクシーに乗ったのだ。
ーー誰に話す義務も無いのだが、不思議とこういう場があると最後に藤巻はセンチメンタルになる。
高校卒業後の進路として陸上自衛隊を選んだ事、そしてそれに至る経緯を思い出しては、感傷的になって独りを好み、独りで歩くのである。
口数の多い藤巻
口数の少ない藤巻
どちらも本人に間違いないのだが、果たして彼の二面性はどういう経緯で形作られたのかーー?




