61 プロローグ 「ポツンと一軒家」
盆休みを間近に控える季節にもなれば、長野市をぐるりと囲む山々にある山間地の集落では夜の空気がひんやりと冷えて心地良くなる。
窓を開けたまま網戸で寝ていると、朝方には身体の芯まで冷え切って風邪をひいてしまうほどに冷え込み、テレビから流れてくる都会の猛暑のニュースが嘘に思えてくる。
ヒートアイランド現象が頻発する長野市街とは対照的で、今でも自然の四季が残る場所……それが長野市の山間地であった。
その山間地の山と谷を縫うように続く細い県道を、二つ並んだ眩しい明かりが進んで行く。それは車のヘッドライトであり、今の時間は夜。
街灯もほとんど無く、すれ違う車の明かりも全く無い状況の中で、その車は闇を切り裂くようにスイスイと登り坂を駆け上がり、そして滑らかに下り坂を降りて行く。
軽トラックやくすんだ前時代の車が似合うような細い県道なのに、何故か場違いを感じさせるようなその車は高級SUV車で、ナンバープレートを見ると関東圏の車である。
ここは長野市の北西側に位置する山間地帯で、鬼女「紅葉伝説」でも有名な戸隠山がある地域。古くから修験道の聖地として知られており、戸隠流忍術発祥の地でもあり、戸隠神社を中心として古くから栄える自然と歴史の宝庫である。
参拝客や観光客で昼間は賑やかな戸隠地区なのだが、もちろん夜は非常に静かである。唯一キャンプ場では焚き火を囲んだキャンパーたちが心ゆくまで賑やかに談笑にふけるのだが、この高級SUV車のようにドライブに夢中になるような場所では無かった。
ーー何故この車はワザと明かりもともっていないような僻地に向かい、ひたすら森の奥へ奥へと車を走らせるのかーー
前列シートに若い男が二人、後列シートには若い女性が二人乗っており、断片的にではあるが、会話の中からその理由が見えて来た。
「どう? 近くまで来たの? 」
「カーナビだともうちょっとだよね」
「いくらグーグルマップとストリートビューで見てても、夜の風景はガラっと変わって分からないね」
「分からないって言うか、どこも真っ暗で怖いわ」
「あははは! 怖いに決まってるさ、だって人気の無い場所に行くんだから」
標高が高い場所へ進めば進むほど、薄曇りだった空がどんどんと下がって近付き、気付けばいつの間にか辺りに霧が立ち込める。ヘッドライトの光さえ遮断するほどの濃霧ではないのだが、風の流れが読める程度のふわりふわりとした霧の薄い固まりが風上から風下に向かって流れて行く。
「そろそろじゃないかな? この枝道に入って最後の集落も抜けたから……」
「あっ、カーナビの道が消えたよ! 」
「って事は、そろそろ砂利道になるはず。目的地は近いね」
車はその速度を徐々に徐々に落とし、見るからにその先に何があるのか分からないからと言った、警戒感丸出しの運転に変わる。そして同乗している他の者たちの軽快な会話はいつの間にかどこかに消え、無口になった静かな車内では、期待と不安が一緒くたになった複雑な表情の若者たちが、ヘッドライトが照らす世界を凝視している。
そう、この若者たちの目的とは『肝試し』
この関東圏のナンバープレートに乗る若者たちは、今テレビでそこそこの視聴率を取る番組コンテンツを模倣して、インターネットの地図を利用して山奥にポツンとある一軒家を探し出し、肝試しも兼ねて自分たちで探検に行こうとしているのである。
この車を運転するのは野口遼、東京の大学に通う学生であり今は夏休みの帰省中。そして父親の車を借りて運転をしている。
隣の助手席に座るのは溝口秀幸、長野のコンピュータ専門学校に通う生徒で、後列シートに座る女性は加奈井仁美と深沢美咲、二人とも星城女子大学の短期看護コースを学ぶ短大生である。
もともとこの四人は高校時代の同級生で、卒業後初めての夏休みに、みんなで再会を喜びながら、ドライブに行こうと言う流れになったのだ。
未舗装の砂利道はやがて、左右二本分のタイヤの跡しか無いような獣道に変わり、ヘッドライトで霧を浮かび上がらせるような遠目の効かない森の中をただただ進んで行く。
ーーどこかでUターン出来る場所があれば、そこで転回して帰りたいーー
腹の底に湧いて出て来たのは不安と心細さ。
別段、物の怪が現れた訳でもバックミラーに人影が映った訳でもなく、ただ光の無い暗黒の森と光を遮る霧が、何かしら身体中の体毛をザワザワと立たせるのだ。
「やっぱり帰ろう、私怖い」
加奈井仁美が前列側に身を乗り出し、今にも泣き出しそうな声で野口と溝口に懇願する。
仁美は大自然が織りなす暗闇に慣れていないのか、賑やかな雑談の輪から距離を置き、不安げな表情で黙り込んでいたのだが、とうとう我慢出来なくなったらしい。
「あはは、加奈井って昔から怖がりだったよな」
「確か文化祭の準備で遅くなった時、暗い廊下が怖くてトイレに行けなかったよな」
「古い事覚えてるとか失礼な男どもね。何か嫌な予感がするのよ、私さっきからなんだか怖くて」
「大丈夫よ仁美。ほら、もう森を抜けるよ」
美咲が前に向かって指を差す。
すると、黒い画用紙を切り抜いて作ったような、真っ黒な木々や枝の背景に奥行きが見えて来る。
もうすぐ森の出口。ネットを利用した画像地図では、この森を抜けると学校のグランドほどの開けた休耕田があり、そこに本日の目的地である一軒家がポツンと建っているのだ。
「うお! 見えた、見えて来たよ。あれが一軒家だ」
「うん? 電気が点いてないね……人は住んでないのかな? 」
ヘッドライトに照らし出されたのは、一階建ての平屋の家。こんな田舎の山奥なのに、土壁の塀で厳重に囲まれた歴史を感じさせる家屋であったのだが、、、
「ここは人住んでいないよ、廃屋だ」
溝口がそう呟いたのには理由がある
車が近付けば近付くほど、ヘッドライトに照らされば照らされるほどに、目的地の“ポツンと一軒家”がはっきりと見えて来たのだが、塀も壁も屋根もボロボロで、その家から人が去り無人になってから、長い年月を経ている事が垣間見れたのである。
「ここに来て廃墟探訪か。それも楽しそうだな」
無邪気に笑う野口ではあるが、まさかその遊び半分の廃墟探訪が本当の恐怖を呼び起こすとはつゆとも思ってなどおらず、今はまだ無邪気なイタズラ小僧を演じながら仁美や美咲を怖がらせるのに夢中になっていたのであった。




