56 徐々に現れる異変
梅雨前線と日本列島の太平洋側を北東する台風が合体させた巨大な雨雲が、今朝がたから大粒の雨をこの長野にも降らし、夕方の時間が来てもその勢いはなかなか衰えそうもない。
我先にと帰宅ラッシュに飛び込む無数の乗用車も忙しそうにワイパーが左右に動き、運転手のイライラを代弁しているかのようである。
繁華街の歩道を行く人々も、傘を差して雨をしのぎつつ道路から飛ばされて来るタイヤの水しぶきも避けてしのぎ、早く梅雨が明けて夏が来ないものかと無言で耐えていた。
木内浩太郎もこの帰宅者たちの列にあり、学校からバスで帰って来た彼は、素直に帰宅する積りなど毛頭無いのか、最短帰宅ルートを外れて繁華街のとある方向へ足を向けていた。
“本日発売のライトノベル”ーー浩太郎の狙いはこれ
首を長くして待っていたシリーズものの、最新作が刊行されたのである。
『女王陛下の第三艦隊』
地球、火星、木星にまで生存圏を広げた未来を舞台にしたハードとソフトが混在するハイブリッドSF小説で、コアなSFファンと初級者に近いSF小説ファンのどちらも惹きつけて離さない魅力を持ったライトノベルジャンルで刊行され続けるシリーズ作品。
ハード部分においては太陽系を通じた惑星の公転位置関係を正確に記した上でストーリー展開し、無重力・無重量世界においての人類の生活を緻密に描写し、宇宙船や兵器に関しての設定もコアなSFファンが指摘出来ないほどに完成度が高く、まるで我々人類が進むであろう未来の姿だと錯覚してしまうほど。
またソフト部分においては、ドラマティックな人間模様を心理描写の細かな動きまで表現し、女王陛下の第三艦隊は人間ドラマだと公言するファンも少なくはない。
木星の衛星エウロパを囲むコロニー群が起こした独立戦争に巻き込まれ、飛び火を受けて事故死したガニメデ前王に代わり、若くして女王の冠を戴いた主人公の苦悩と内惑星系連合宇宙艦隊の第三艦隊司令官とのロマンスは、男性女性ファンに関係無く圧倒的な支持を受け、同人作家たちも血まなこになって二次創作を繰り返していた。
木内浩太郎も中学生の頃にこの作品に劇的な影響を受け、アマチュアネット小説家として自分でも作品を書き始めたのだが、全くアクセスは伸びず反応も皆無に近く、頭を抱えながら苦悩しつつ異世界転生物語だの何ちゃら令嬢に手を付けようとする自分を諌めるのだが、近未来超能力バトル小説を途中で断筆した彼は、とうとう異世界転生物語に筆をとってしまった。
読者に媚びを売った訳ではないし、ランキング不正操作やジャンル不正もしていない。俺は純粋に異世界転生物語が書きたかったし、俺が思い描いた世界を読者に見て貰いたいだけだと自分で自分に言い聞かせているのだが、彼の作品の更新ペースが遅く遅筆がちになる原因に、学業が忙しくてと言う一番ありがちな理由は内包されていないようである。
ただ、この『女王陛下の第三艦隊』を脳裏に浮かべると意欲が湧いて来る。創作意欲と言う名のパワーが身体にみなぎり、自分は一体何を表現したかったのかと言う原点が剥き出しになり、脳裏に堆積したゴミ山の中から小さなダイヤモンドの粒が一個輝き出す。
この作品も大好きで大好きでしょうがないのだが、この作品に惹かれた自分自身が好きな事を思い出すのだ。
繁華街のメインストリートにある小さな書店にたどり着く。自宅から一番近い本屋であり、子供の頃から利用している馴染みの書店で、店番のおばあちゃんとは馴染みの間柄である事から、いかがわしい本を購入するには相当な覚悟が必要で試した事は一度も無いのだが、コミックス新刊お取り置きや小説の注文が気楽に出来る、浩太郎お抱えの書店でもある。
店の軒下で傘を閉じて軽く降る……雫を落として店内の本に雫が落ちない配慮だが、浩太郎はふと顔を上げて辺りを見回した。
誰かに声をかけられた訳では無く、車の衝突事故の盛大な衝突音が聞こえて来た訳でも無い。
それが何故なのか自分でも説明が出来ない類いの反応だったのだが、浩太郎は何かに気付いたかのように顔を上げて、何かを探すように辺りを見回したのだ。
上り車線下り車線ともに、信号待ちの車列がジリジリと前進しながらチャカチャカとブレーキランプを光らせている
書店前の歩道は様々な色の傘が無秩序に往来し、反対側の歩道も全く同じカラフルな光景が垣間見える
「……うん? 」
声にならない声で口から疑問形を吐き出す。
雨から逃げるように動き続ける光景の中で、浩太郎と同じく立ち止まった存在を見つけたのだ。
車道を挟んだ反対側の歩道に、立ち止まったまま浩太郎を見詰める女性の姿が見える。浩太郎が疑問を抱いたのはその女性が傘を差していない事にである。
この冷たい雨の中、傘も差さずに立ち尽くしているその女性、見れば中年女性のようにも見え、当たり前の話浩太郎とは全く面識の無い女性だ。
この視点の定まらなくなる様なカラフルな視界の中で、何故自分を見詰めているのか……不思議に思うも答えなど出る訳が無い。
ーー実は視力が良くなくて、こっちを見ているように見えるだけかな?
自分が何の目的をもって帰宅ルートを迂回したのかを思い出し、再び視点を下げて傘をくるくると丸め始めた。
さあ店に入ろうと、背後に振り向いて自動ドアのセンサー下に足を運ぼうとした時だ。思わぬ障害物に浩太郎は足を止め、そしてアゴが外れそうな勢いで驚く。
何故かそこに、今の今まで反対側の歩道で立ち尽くしていた中年女性が立っているのだ。
「ひっ……ひいっ! 」
上ずった声で悲鳴を上げ、反射的に腰を引く。
一見して普通の中年女性……もっと言えば痩せ気味でやつれた感を醸し出しているこの女性を目前に見る浩太郎は、理屈ではなく肌で察知したのだーーこの人、何かヤバイと
赤の他人同士のはずなのに、あからさまに浩太郎を視線を固定させたその中年女性は、何か釈然としない怒りに満ち満ちているのか、爪が食い込むのではと思えるほどに両の拳を握りしめながら、浩太郎の鼓膜にではなく、脳に直接振動を与えるような音色の声で、浩太郎に向かって吠え始めた。
(何で、何で私なの! 長い間アイツに蹴られて殴られてハサミや包丁で背中まで刺されて、苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、我慢出来なくなってアイツを一度刺しただけなのに、何でアイツが天国で首吊った私が地獄なのよ! )
「な、な、何だよ? 何の事だよ? 」
(アイツに人生めちゃくちゃにされて、それでも我慢して生きて来たのに、私が地獄行きっておかしいでしょ? 何で、何で、何で! )
「知らねえよ、俺、あんたなんか知らねえよ」
(悔しい! 悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい……ぐやぢいっ! )
理性的に会話が出来る相手ではないようで、ひたすらがなり立てられる浩太郎は、あまりの恐怖に後ろにへたり込む。そこは既に書店の軒下の庇護から外れて雨にその身を濡らし始めたのだ。
「とにかく知らない、知らないよ! 」
尻もちをついてまま下着までびっしょりに濡れた浩太郎は、その不快感すらも打ち消すようなパニックに包まれており、心当たりが全く無い強みを自然と利用したのか、この中年女性に立ち向かうように吠え出した。
「俺には関係ない! 知るかそんな事! 」
その困惑と怒りの混ざった叫びが功を奏したのか、その中年女性は言い足りない不満顔もそのままに、浩太郎の目の前からふわっと消えた。
……はっと我に返る
傘を差した通行人たちが浩太郎を避けるように彼の背中側を迂回し、何の騒ぎかと書店のおばあちゃんが奥から出て来るのがガラス越しに見えた。
ーーとりあえず今日は家に帰ろうーー
びしょ濡れになった浩太郎は、慌てて立ち上がると傘も差さずにその場から駆け出し、やがてカラフルな傘の花畑へと姿を消した。




