51 元ヤンと隠れ腐女子 前編
「ねえねえ、昨日のドラマ見た? 」
ビールジョッキ片手にご機嫌な表情の池田祥子は、唐突に美央に質問した。
ここは長野市北部にある巨大な団地群の中にある喫茶店「コーヒータイム」。
平日昼間の仕事を終わらせた者たちが家路について、一日の疲れを癒す時間帯に、祥子はこの喫茶店で苦味走った冷たい炭酸を喉に流し込んではご満悦の表情。足元には入店を許された愛犬のパグ……ジャガーが静かに寝息を立てている。
本来ならば、この時間帯を占有するのは常連の王様とも言うべき屁理屈探偵の藤巻博昭なのだが、何やら短期出張と言う理由で交代するように祥子が店にやって来たのだ。もちろんそれは藤巻お気に入りの店に対する義理と言う側面もあるかも知れないが、祥子は祥子でこの店でゆるやかな時間を過ごす事をひどく気に入っていたーーコーヒーは飲まずに、酒ばっかり注文するのだが
マスターは元々寡黙なダンディタイプの人柄で、藤巻との趣味話で盛り上がる以外は淡々と店の業務を続けている事から、必然的に祥子の話し相手のターゲットは美央に絞られるのだが、正直美央と祥子の会話もイマイチ噛み合ってはいない。
美央が隠れ腐女子のアマチュア同人漫画家である事がその理由の一端を担っているのだが、対する祥子がノーマルであるとも決して断言出来ない理由がある。池田祥子は見た目とは裏腹に、ドが付くほどのピュアな内面を持っており、つまり彼女は「ガチ乙女」なのだ。
例えば祥子が、ファッションの話、芸能人のゴシップの話題を美央に振るとする。
ファッション誌で春の特集や夏の水着の話題や、人気コスメの話題を美央に投げかけるのだが、美央からはぼんやりとした答えしか返って来ない。
また、ネットニュースやテレビのワイドショーで騒がれているアイドルの恋愛発覚や芸能人の不倫などの話題を美央に投げかけても、やはりぼんやりとした答えしか返って来ない。
もちろんそれは、美央が祥子との会話を拒絶している訳では無い。美央は料理スキル抜群で尚且つセクシーでスタイルも抜群だ。まあ……多分若い頃はヤンキーさんたちと仲が良かったのかな? と想像してしまう部分も多々あるが、そんな想像すら些細な事のように美央は祥子を尊敬している。
では何故祥子が話題を持ちかけても話が盛り上がらないかと言えば、幼少の頃からアニメにどっぷりと浸かり、思春期に至ったあたりで二次元の美少年に興味を示し、思春期が過ぎ去ると二次元の美少年と美少年があんな事こんな事をする世界に傾倒し、鑑賞に飽き足らず自分で創作していた江森美央が、料理やファッションやコスメや芸能人のゴシップに興味を示す延時間は、他者のそれに比べて圧倒的に少ないのだ。
多分、祥子もそれには気付いているのか、切り出す話題にあまり乗って来られない美央を「つまらん奴だ」と切り捨ててはいない。今どきの服装でおしゃれをしてはいるが、ちょっと趣味趣向のベクトルが一般女性と違う事を認識しつつ尊重し、共通の話題を模索している部分が垣間見える。ーーまるでそれは、藤巻博昭に近しい者に、悪党はいないと信じている者のごとく。
だから祥子はどんどんとハードルを下げて共通の話題を探して提示し続ける……昨日のドラマは見た? と
そしていつしか祥子の気遣いに気付いた美央は、逆に祥子がどんな話題を振って来るのかを考え、事前にリサーチする時間を作るようになる。
そして祥子の問い掛けに対して、美央はこう答えたのだ。ーー見ました、“この恋に僕は泣く”ですよね? まさかの最終回でしたね と
こうなればもう、話に花が咲くのは必然。
アラサー乙女と隠れ腐女子の会話は、とどまる事を知らずに店内へと響き渡る。
「見た? 見た? あのラストどう思う? 私ちょっとガチで腹立ったのよ」
「祥子さんもそう思いました? 最後の最後になって揺れ動く女心って何やねん! って感じでイラっと来ましたよ。結局は若いイケメンが好きなんか貴様はと」
「慶太のラストは苦しかったね、結局一人で田舎に帰るって」
「ですねえ、若いイケメン選んでおいてワザワザ慶太さんの見送りに駅に行くとか、私だったら一発ぐらいブン殴ってツバ吐きますけどね」
「あはは、美央ちゃんもなかなかに過激だね。確かに私も金属バットで……ゲフンゲフン」
昨日放送された恋愛ドラマの最終回で話が盛り上がる二人だが、不思議な事に美央も満面の笑みで祥子と盛り上がっている。恋愛ドラマなど全くもって美央の趣味ではないのだが、その会話を楽しむ前段階として、美央もそのドラマを楽しんで視聴していたのである。
尊敬する祥子との女子トーク……それもまた、美央の趣味の領域において新たに誕生した“趣味”なのかも知れない。
裂きイカなどの乾物をつまみに、生ビールをジョッキで楽しむ池田祥子。ピーナッツやピスタチオなどの豆類をつまみにバーボン水割りを飲む藤巻とは趣向は違うものの、酔って上機嫌になっても大騒ぎして他の客に迷惑をかけたり、辺り構わず人にからむ事が無く、当たり前のマナーではあるが、ご機嫌になりながらも上品にお酒をたしなんでいる。
しかしこの夜、池田祥子が劇的に豹変するトラブルがここで発生する。それはマスターや美央に対して彼女が牙を剥くようなトラブルではなく、お客が祥子一人だけになった時間帯に店に現れた若者たちに対してである。
「婚約者いるって分かっているのに、ちょっかい出して来た真吾は嫌い」
「イケメン無罪ってところですね。私は最後まで男を天秤にかけてた麻友が心の底から嫌いになりましたよ」
「やっぱり女は一途が良いよねえ〜」
「そうですねえ」
「それで美央ちゃん、ドミネーターって何なの? 」
「ふぎゃあ! 」
美央と祥子のかしましい会話もピークを迎えようとしていた頃、店のドアベルがカランコロンと鳴って客の来店を知らせる。
「いらっしゃいませ! 」
マスターが空いてる席にどうぞと誘い、若者たちはボックスシートへと腰を下ろす。
祥子との雑談に興じていた美央は慌てて人数分のグラスを用意して、氷とミネラルウォーターを入れてその若者たちの前に。
「ご注文が決まりましたら、お呼び下さい」と丁寧に若者たちそれぞれの前にグラスを置くと、何故か若者たちが色めき始めたではないか。
「あの……俺たち三人なんですが」
ドレッドヘアーが特徴的なその若者に指摘された美央は、あれ? あれ? 申し訳ありません失礼致しましたと言いながら、幾分不思議な表情そのままにグラスを一つ片付ける。
美央が非礼を詫びながらカウンターの奥に引き返そうとすると、ドレッドヘアーの隣に座ったヒップホップ風の若者が美央の表情を気にしたのか、お姉さんすいません、俺たち四人組だと思ったんですかと声をかけて来た。
「そちらの方と一緒に女性の方が並んで入店されたように見えたもので、重ねて失礼をお詫び致します」
美央はカウンターの前で再び頭を下げた。
ドレッドヘアーの若者とヒップホップ風の若者は、美央の話を聞いて何か心当たりがあるのか、顔色を真っ青にしながら互いに見つめ合う。
そして美央にそちらの方と言われたメガネの若者が、何を思ったか急に荒れ始めたのだ。
「お、女なんか連れてねえよ! 俺たちは三人だ! 」
「申し訳ございません」
「きゃ、客の人数も分からねえって、どう言う教育受けてんだよバカヤロー! 」
「申し訳ございません」
「だから田舎者は嫌いなんだ! 当たり前のような顔してピントずれててえ! 」
何がそんなに腹が立つのか、側から見る者にはその理由が全く理解出来ないまま、メガネの若者は美央に向かって吠え続けていたのだが、必死に頭を下げる美央とボックスシートに座ったまま吠え続けるその若者の直線上に、大人の女性が一人割って入った事で全ては解決する。
大人の女性……池田祥子が仁王立ちで若者たちを見下ろし、もうそれ完全な殺人光線でしょと周囲が評価するような苛烈な視線でメガネの若者を射殺し始めたのだ。
「おい、ケツの青い小僧。手前え公共の場で何イキってんだよコラ! さっきからこの娘も謝ってんだろが」
「な、な、何だよあんた、俺は客だぞ! 」
「私も客だバカタレが! お客様は神様かも知れねえが、だからって好き勝手吠えて良いルールなんて世の中無えんだよ! 他の神様に迷惑だから出てけ、手前がいると酒が不味くなる! 」
「……チッ……」
池田祥子の般若のような雰囲気に対抗出来ず、完全に静まり返るメガネの若者。ドレッドヘアーとヒップホップ風も祥子の格の違いを肌で感じているのか、全くメガネの若者を助けようとせずに沈黙していた。
「店を出て行くか、この場でこの娘に言い過ぎたと謝るか……どっちか選べ。ただ、納得出来なくて店を出るなら、もう店と客の関係は消失するから、お前とこの娘は五分五分の関係だ。この娘の代理として私がお前を半殺しにする、鼻骨骨折くらいで済むと思うんじゃねえぞ」
それまで神経質に怒鳴り散らしていたメガネの若者も、ここまで言われてしまえば頭に昇った血もみるみる下がる。下がるどころか祥子の恐ろしさに身体中の水分が凍り付くほどだ。
「……俺が言い過ぎました、すいませんでした」
メガネの若者は立ち上がり、美央に向かって頭を下げる。意外にも素直な若者のようだ。
仕事と言う環境下でクレイジーなクレーマーに吠えられ噛み付かれたのが始めてだったのか、ショックを隠し切れない美央は今にも大粒の涙が瞳から溢れそうになっていたのだが、若者の謝罪を受け入れた事で納得して、浮き足立つ自分を落ち着かせようと努めているようにも見える。
だが、祥子やマスターの心配をよそに当の本人はあっという間にショックから立ち直っており、実は噛み付かれる恐怖とは別の感情に支配されていた結果、彼女は「ぽわん」としていたのである。
ーー祥子さん、マジかっこいい! 何だか日本刀が似合いそう! ーー
改めて祥子やマスター、美央に対して三人組の若者たちは謝罪して、コーヒータイムのお客様でいる事を許されるのだが、この三人こそチームいけモンチャンネルの三人。
いけちゃんこ小池亮平と、モンちゃんこと土門竜司そして、撮影兼構成作家の吉川誠治の三人組であり、何やら悩み事を抱えた浮かない現状を打破するために、ちょっとお酒でも飲むかと来店したとの事。
お前ら素直で見所あるなと破顔する祥子と意気投合し、賑やかに酒を酌み交わしながらも衝撃の事実を語り出したのである。




