44 戦慄の言葉
石田恵一、三十五歳……それが今月半ばまでネオパレス長野の503号室に住んでいた者の名前である。
管理会社である信州不動産からの提供で個人情報資料を閲覧したところ、長野県でも有数の大企業で建設資材卸しから運輸会社、ホームセンター経営から全国規模のハンバーガーチェーン店FC店を運営する巨大グループ、「カラマツ産業グループ」の子会社である中古車販売店チェーンの営業課長を務めていおり、家賃の支払い状況や水道電気ガスの支払いも文句の入る隙間も無いほどの支払い状況だ。
自治会費などもしっかり支払われており、一斉清掃や側溝掃除にも率先して参加している事から、これ以上無いほどの上客であるのは間違いは無い。
また、マンションの自治会長にそれとなく聞いたところ、石田恵一は未だ独身だが、物腰が柔らかくて言動にも本人の人格を疑うものは無く、非常に好感度の高い人物であるとの言質を得た。
完璧……まさにパーフェクトの好青年なのだが、藤巻博昭は何かしらこの石田なる人物に違和感を抱くようになる。
樋口瑠衣殺人事件後に起きた幽霊騒動について、マンション住民側から信州不動産に対して寄せられたクレーム……つまり目撃情報の中でも、この石田恵一のクレームは騒動が起きた初期の段階に管理側へ報告されており、ケース3として報告書に綴られている。
何度も何度も報告書を読み返していた藤巻は、他の住人の目撃報告と石田の目撃報告との内容の差異に気付いたのである。ーーもちろんそれは、自分の実体験と照らし合わせても、明らかな差異を感じる内容であった。
『帰宅した際、部屋に長い髪の女の幽霊がいて襲い掛かって来た』
『就寝時に部屋の中に女の霊が現れて首を締めて来た』
ーーあの女の霊は、無言で見詰めてくるだけなのに、石田だけ襲われている? ーー
他の住人の報告書では『現れた』『見た』と言う文言で終わっているのに、この石田恵一の報告には幽霊に襲われた記述がある。
確かに遭遇した際の恐怖心が、体験を過剰な表現に変質させてしまうとしても、あの女の霊が攻撃的な反応を示したのは、後にも先にもこの石田恵一のケースのみなのだ。
ーー石田恵一が騒動に便乗して話を盛っている可能性もあるし、実際にあの女の霊が敵意を抱いて石田の前に現れた可能性もあるーー
いずれにしても石田の話が特異なケースである事に間違いはなく、昨晩現れた幽霊もそこに意味があると示しているのではと考えた藤巻は、やがて朝になり藤巻探偵事務所が通常業務を始めた頃、社員である「デカ松さん」こと松田末松に業務指示を出した。
「樋口瑠衣殺人事件に関して、同じマンションに住んでいた石田恵一が何かしら関係している可能性があるかもと、長野県警の知り合いにタレコミ入れておいてもらえますか? 」
松田はその足で直ぐに長野中央警察署へと赴き、古くから知己のある同僚と面会して、その旨を伝えたそうだ。
殺人事件は探偵の領分ではない
現代の探偵は単なる民間調査機関であり、他者を裁いたり被疑者の内偵調査を行うような警察権力など持ち合わせてはいない。
その刑事魂と正義感にスイッチが入ってしまったのか、石田恵一の独自調査を行わせてくれと松田が息巻き始めたのだが、警察の領分はタッチしてはいけないと、藤巻は松田に通常業務に戻るように指示した。
藤巻の読みが確かならば、樋口瑠衣殺人事件の被疑者は石田恵一だ。
事件が発覚した当時は「美人ホステス殺人事件」とタイトルを打ってマスコミがハエのようにマンション周辺に群がり、大量の警官もマンションに出入りしていた。
余計なインタビューや警察の事情聴取でボロを出さないように警戒していた石田は、何を口実にマンションから姿を消せば良いかと考えた際に閃いたのだ。ーー幽霊騒動に便乗しようと
そして管理会社の信州不動産に対して殺人事件発生後に幽霊を見た! 襲われた! どう言う事だ、謝罪しろ! こんなところに住んではいられないと騒ぎ、幽霊騒動の被害者を装って退居して行った。
そこでこの流れのキーマンとなるべき人物が、あの女の幽霊だ。
幽霊がキーマンと言うのもおかしな話ではあるのだが、あのクレーム報告書を逆転の発想で考えると、石田恵一以外の住人は誰一人襲われていない事になる。つまりは目撃しただけ、恐怖を感じて悲鳴を上げただけなのだ。
つまり恐怖のイメージが先行して一人歩きしていたが、あの女の霊は教えてくれていたのではないかと藤巻は考えたのだ。
ーー石田恵一が犯人ですよ、誰か私の話を聞いてくれる人はいませんか? と
もし藤巻の推理が的を得ているならば、石田恵一が樋口瑠衣殺しの被疑者として捕まるならば、もうあの女の霊は現れないはず……。
藤巻はクライアントである神田さちの元を訪れ、調査の進捗状況と結果、そして今後起こりうる展開を説明して一段落とした。
そしてその夜、藤巻は再びネオパレス長野にいる。
時間は日付けがちょうど変わった零時過ぎの事。街の明かりが厚い雪雲と白い雪に反射して、ことさら不夜城を気取っているかの様な、無駄に明るい長野市街地を見渡すマンション五階の踊り場で、タバコを悠々とふかす彼の姿がある。
何故信州不動産側から提供された三階の部屋ではなく、この五階に藤巻がいるのかには理由がある。何故なら、彼は彼のために現れるであろう者を待っていたからだ。
「……来たね……」
踊り場から通路を眺める藤巻は503号室の扉前に焦点を合わせており、あらかじめそこに何かが現れる事を予測している。そしてそれは、藤巻の思惑通りに現れたのだ。
「今日は報告に来た。あんたが教えてくれたその部屋の借り主だった男、石田恵一って名前なんだけど……」
503号室の扉前、藤巻が話し掛けたのは女の霊。身体の輪郭を黒い霧でボヤかしたような暗い姿で、白目と真っ黒な瞳で藤巻を凝視している。
「その石田恵一が樋口瑠衣殺人事件の犯人じゃないかって、警察に情報を流しといたよ。警察も内偵入れてたみたいだから、奴はいずれ捕まるはずだ」
女の霊が意図して行動していた事の内容を掴み、藤巻はそれに沿って行動した……。何とも奇妙なコンビネーションとなったが、幽霊を目の前に多少の怯えを見せながらも感慨深い表情の藤巻。これでこの話は終わりではないよと、柔らげに言葉を続ける。
「自分だって、生前は決して幸せとは言えない生活を送っていたのに、お節介焼きなんだね? 臼井圭子さん」
“……!? ……”
藤巻が名前を出した事、そしてその名前に心当たりがあるのか、女の眼が一瞬力強く見開いた。
「昼間、マンションオーナーに聞いたんだ。このマンションの歴史の中で過去に不審死を遂げた者はいるかって。そしたらあなたの名前が出たんだ」
マンションの住人たちは樋口瑠衣の幽霊が出たと言ってパニックを起こしていたが、樋口瑠衣ではないと核心した藤巻はその正体を探るべく、オーナーの神田さちに問うたのだ。
すると、二十二年前に自殺か事故死か分からない死亡事案が一件発生したと神田は答えてくれた。
亡くなったのは臼井圭子、当時二十九歳の会社事務員。
ネオパレス長野の506号室に母親と同居しており、難病認定されていた母親は寝たきりの状態であったそうだ。
他に身寄りもない圭子は母親の看病をしながら医療費と生活費を稼ぐ日々に明け暮れていたのだが、ある冬の夜、臼井圭子はネオパレス長野の五階通路から転落死した。
その週は圭子がインフルエンザに罹患した事で会社を休んでおり、インフルエンザ治療の新薬を処方されていた記録もある事から、新薬が体質に合わず意識混濁の状況で転落した可能性と、介護疲れによる自殺の可能性……この二本線で警察は捜査したのだが、結論は出ぬまま不審死で片付けられてしまう。
その後寝たきりの母親も施設に預けられたがそう長くはなく、臼井圭子とその母親は誰からも忘れられた存在になってしまったのだ。
「昔の事だから今となっては何とも言えないけど、マンションのオーナーさんがあんたとお袋さんの墓だけは覚えていてね、明日墓参りするそうだ。俺も昼間になったら線香を上げとく」
それまでは禍々しいほどの空気を放ちながら、身動きもせずにじっと藤巻の言葉に耳を傾けていたのだが、彼女の身に突然不思議な変化が現れ始めた。
身体を覆っていた黒い霧が突如晴れて、権化と言っても過言ではなかったその険しさが和らいだのである。
だが、どんなに妖しさが薄らいだとしても、未だこの世に未練を残す死者である事には変わりない。
つまりは生者である藤巻と打ち解ける訳もなく、彼女は彼女の救いを求めて漂わなければならないのだ。
それでも……
臼井圭子の霊は藤巻に思うところがあるのか、意外な行動に出た。ーー藤巻に向かって頭を深々と下げたのである。
「よせよ、感謝されるような事はしていない。……あんたも成仏出来れば良いな」
幽霊が怖くて怖くてどうしようもないクセに、何故か頭を下げられ照れる藤巻。へっぴり腰で膝をカクカク揺らしながらも頬をちょっとだけ赤らめて頭をぽりぽりとかく姿はひどく滑稽だ。
藤巻の言葉を別れの言葉と受け取ったのか、臼井圭子はもう一度軽く頭を下げて、そして口元に微かに微笑みをたたえながら、その場で消えた。
“私は……殺されました……”
と、それまでの融和ムードを一気に粉砕し、藤巻の心に焼きごてを押し当てたかの様な、一生忘れる事の出来ない戦慄の言葉を残しながら。




