41 樋口 瑠衣(仮)
樋口 瑠衣三十歳、三年前に信州不動産と契約し、ネオパレス長野の202号室に入居した。
本籍は山形県にあり、入居の際に保証人を務めたのはエブリデイ興業と言うちょっと名前だけでは何やってるのか分からない会社の代表者名義であるそうだ。
本人がどの様な容姿をしていて、どの様な日々を送って来たのかを調べるのは容易い作業であり、ネットで彼女の名前を検索してみたところ、フェイスブックが一発ヒット。スナックの店内でママさんたちと並んでいる姿や、笑顔で接客する姿、昼間にスウィーツやB級グルメを目の前にする画像が次々と表示され、ネガティブな発言をするコメントも無い事から、とりあえず樋口瑠衣は何かしらの身辺トラブルを抱える事無く長野で夜の商売をしていた事が伺えた。
彼女が何故殺されたのか、彼女を殺した犯人は誰なのか、それを調べるのは警察の領分であり、探偵がしゃしゃり出て行く世界ではない。
探偵藤巻博昭がクライアントから依頼されたのは、樋口瑠衣がネオパレス長野の自室で殺された後に、マンション内で頻発する幽霊目撃案件の調査。樋口瑠衣の幽霊は何を訴えているのか、どうすれば成仏してくれるのか調べて、他の入居者の平穏な生活を取り戻す事が要求されているのだ。
ーーマンション生活二日目の夜
ネオパレス長野の306号室はカーテンもかけていないまま、室内灯の明かりが大きな窓ガラスを伝って煌々と外に漏れている。
テレビや冷蔵庫、テーブルもガスコンロすらも無いガランとした室内にあるのは、着替えの入った大きなバッグと寝袋と、電気ヒーターと空の弁当が入れられたコンビニ袋のみ。
昼間は探偵事務所で通常の業務を行いながら、夜はこのネオパレス長野に『帰宅』して、心霊現象の調査を行う日々を始めた藤巻は、一切晩酌をする事無く、コーヒータイムに行きたいなあとささやかな願望を胸に抱きながら、スマホに表示された樋口瑠衣のフェイスブックのページをジイッと見詰めている。
茶髪のロングヘアーを陽の光で輝かせながら、満面の笑みでピースサインする樋口瑠衣。彼女のその画像を眺めながらも、藤巻の思考は地上の野ネズミを遥か高空から狙う鷹の眼のように、グイグイと先鋭化して行く。
ーー死者が幽霊となってこの世に現れるのは、様々な理由が考えられるーー
成仏出来ない苦しみを訴えている場合
殺害などの予期せぬ死に怒りを訴える場合
生前の恨みを引きずっている場合
そもそも自分が死んだ事に気付いていない場合
またこれらのようなネガティブな状況に限らず、この世に残した家族や恋人が心配だと言う理由も考えられ、多種多様としか言いようは無い。
そしてこの、樋口瑠衣のケースはどうだろうか?
信州不動産側から提供された個人情報では、家賃の引き落としは一度も滞った事が無く、水、電気、ガスなどの支払いもしっかりと行われていたので止まる事は一度も無かった。
また昨日の調査一日目夕方に、主婦たちに混ざり雪かきを行なったところ、その後に始まった井戸端会議のタイミングをチャンスと見て樋口瑠衣の話題を振って聞いてみると、マンション住民での一斉清掃や側溝掃除には欠かさず参加して、住民費も必ず支払っていた事が分かった。
フェイスブックを遡りながら見る限りでも、前向きで元気な書き込みしか見当たらない事から、彼女は夜の世界で働きながらもしっかりとした日々の生活を送れる女性であった事が伺える。
警察発表では、樋口瑠衣の死亡推定時間に宅急便の配送員を模した男が出入りした事が防犯カメラによって明らかになったのだが、いかんせん防犯カメラが古くて解像度が悪い事と、マンション周辺の防犯カメラの台数が少なかった事から、捜査は難航しているらしいと八田支店長が言っていた。
現世に怨恨や未練があって、殺された彼女は幽霊となって現れるのであろうが、今持っている情報だけでは幽霊騒動の解決には導く事が出来ず、切り口を変えようとした藤巻は、次にその現れ方について考察の羽を伸ばす。
信州不動産の八田支店長から渡されたクレーム処理レポート、この報告書には今のところ合計十一件の住民クレームが記載されている。
それらは日付順に綴じられてはいるが、何ら法則性が感じられないのは確か。発生した日付の奇数偶数もまちまちで、曜日にも関連性はまるで感じられない。
また、マンション内で発生した場所も一階だったり五階だったり、室内だったり階段やエレベーターなどこれまたまちまちで、発生時間すらも法則性は無い。
つまりは全てが乱数のようにバラバラで、まるでとりとめがないのだ。
“だが、そこに理由がある”
彼女も適当に幽霊やってる訳じゃない、目的があって現れているんだ、必ず理由はある。
だがそれが分からんと……突破口が見つからず煮詰まった藤巻はゴロンと寝そべり天井を見上げ、また起き上がりスマホを見詰める。
「……掴めん……一服するか」
八田支店長からは室内で喫煙しても良いとは言われているが、次の入居者のためにピカピカにしてある室内に、タバコの匂いがしてはマズイだろうと配慮した藤巻は、タバコ一式とポケット灰皿を手にベランダへと出て、粉雪がチラつく寒空の下でマルボロメンソールに火を点ける。
すうっと……苦くて辛くて強ハッカの透き通る冷たさが喉から肺に入り、再び口へと戻った煙は、厳寒の白い吐息と混ざりながら風に乗って消えて行く。
「ダメだな、今は悩む時じゃない」
タバコを吸って頭の中をリフレッシュした積もりであったのだが、思いの外妙案は浮かばなかったらしい。
「屋内で横になってるだけじゃ現れないかも知れないな。……丑三つ刻を狙って徘徊してみるか」
昨晩は部屋にいたまま一歩も外に出ず様子を伺ったが、結局は音沙汰無しのまま寝袋で熟睡してしまった藤巻。今日は先に仮眠を取っておいて、幽霊が出現しやすいとされる深夜二時頃の丑三つ刻を狙ってマンション内を巡回すると決めた。
タバコの火を消し、ブルブルと震えながら室内に戻り、家財道具が一切置いてない広くて寒々しい2LDK内で、常夜灯の豆粒の灯りだけを残して照明を消す。
スマホのアラームを深夜二時にセットした後に寝袋へと潜り、「遭遇するのも嫌だけど、しょうがねえよな」と小さく愚痴をこぼしつつ深夜に備えて目をつぶったのである。
ーー藤巻にもし霊感があれば、既に女の霊の存在に気づいて遭遇していたはずなのだが、一般人の藤巻が気付く事はなかった。
彼が寝ようとして屋内全ての照明を消した際に、玄関に女の影が立っていたのだが、玄関とリビングを挟む引き戸が閉められていた事もあり、気付かなかった彼を責める訳にもいかないのは確か。
だが、その場に女の幽霊はいた、樋口瑠衣とおぼしき真っ黒な影は瞳と白目だけをギラつかせて、扉の向こうで寝袋に入る藤巻をじっと見ていたのである。




