40 神田さち
長野市と聞けば、先ずイメージするのは善光寺さんである。全宗派を受け入れてなお修験道も行う、懐が広い事で有名な善光寺は、北京オリンピックの際は長野市内で聖火リレーを行うにあたり、人権に配慮してスタート地点になる事を辞退した事でも有名だ。
その善光寺さんとJR長野駅を結ぶ大通りの東側一帯が繁華街となっているのだが、その繁華街の駅寄り……新旧の高級マンションが立ち並ぶセレブタウンの一つに、今藤巻博昭がいた。
『ネオパレス長野』
五階建て全三十室のそれは、マンション街の中でも比較的古い建物であり、昭和後半にいち早く長野市繁華街の住宅地内で建てられた後は高級マンションとして誇らしげに輝いていたのだが、それもバブル崩壊までの話。
バブル崩壊と共に始まった不況で入居者は激減し、マンションアパートとして賃貸業にシフトせざるを得ず、またバブル不況が終わった後の平成好景気で周囲にどんどんと高層マンションが建てられた事で、ネオパレス長野は「多少リッチなアパート」として、時代時代に入れ替わる入居者たちを見詰め続けて今に至る。
昨晩からの雪が未だに降り続く長野市内。除雪車も出動しない市街地の市道では、朝から住民たちが道に出て全身汗だくとなって市道の雪かきをする中、通勤の車に紛れて走っていた一台のポンコツワーゲンゴルフが、そのネオパレス長野の駐車場へと向きを変えて入って行った。
色褪せた白のポンコツワーゲンゴルフではあるが、それは藤巻博昭が昨年末に購入した中古車で、二代目ポンコツワーゲンゴルフである。国産車が嫌いと言う訳ではないのだが、気付けばすぐに国産車はフルモデルチェンジをしてしまうので、自分の財産としての車に価値を見出せないと毒吐き、外車に傾倒して行った過去がある。
藤巻がその古くて新しい車を駐車場で停めると、マンションの入り口から市道までのスロープをせっせと雪かきする中年女性たちの姿を目の当たりにし、一旦車から降りて挨拶しながら新参者だがどの場所に車を停めれば良いかと質問した。
すると夫を仕事に送り出した中年の主婦たちは、昨年末からどんどんと入居者が減ってるから、雪が積もってタイヤの跡がついていない場所ならどこでも良いと、笑顔で藤巻にそう言った。
「あの噂……知らないのかねえ? 」
嫌味ではなく、笑顔の藤巻を見て不憫に思ったのか、主婦たちはマンションに入って行く藤巻の後ろ姿を見てヒソヒソと話すのだが、藤巻の耳には届いていなかった。
藤巻探偵事務所の代表である藤巻博昭は、昨晩、弁護士で旧友の三輪秀一によって、長野市の中心部のとある住宅街にへと案内される。
三輪が運転する高級車は完全禁煙であるため、不機嫌はそのままに、連れ出された理由をただしたところ、先程コーヒータイムでは語れなかった詳細を教えてくれたのだが、その内容がまた藤巻を不機嫌にさせる類いのものであり、せっかくのほろ酔いは何処かに飛び散ってしまっていた。
ーーこれからとあるマンションのオーナー宅に行く。立ち退き交渉などで法律顧問を請け負っているのだが、今回その方から直接お前に会って緊急に調べてもらいたい事があると言って来た。何故そのオーナーがお前を知っているのかは俺も知らん。直接本人に聞いてみれば良いーー
以前、入居者に対して立ち退き交渉を行うにあたり、内偵調査は藤巻探偵事務所を使うと、オーナーと管理会社にはそう話した事は過去にあったのだが、まさか先方から直々に藤巻博昭本人を名指しで呼んで欲しいと言われるとは思わなかったと、話を持って来た三輪本人ですら意外さを隠しきれないと言った表情。
これはいよいよ胡散臭い話だな……と、オーナー宅の前に車を着けて降りた後に、家に上がる前にちょっと一服させろと時間を無理矢理作り、粉雪の降りしきる寒空の下でタバコをふかした藤巻。落ち着きを取り戻したのか幾分和らいだ顔で三輪に続いて家に上がった。
とあるマンションとは『ネオパレス長野』の事で、マンションのオーナーは『神田さち』と言う名の老婦人。この質素の中にも上品さと上等さが漂う日本家屋は、亡き夫の持ち家で資産もそのまま受け継いだそうだ。
本人は足が悪いからと、神田さちの娘夫婦が玄関で出迎えてくれた後に応接間へと通された三輪と藤巻であったが、応接間に入ると、ソファに腰を降ろした神田さち以外にもう一人いる事に気付く。
神田さちとテーブルを挟んで反対側に座るその壮年の男性も、藤巻の来訪を待っていたのである。
「あ、あなたは……八田支店長」
顔と名前、そして記憶が一致したのか、藤巻は神田への挨拶よりも先に、それを口にしてしまった。
そう、マンションオーナーと共に藤巻を待っていたのは、“あの”信州不動産長野支店の八田支店長。神田さちがオーナーを務めるこのマンションも、信州不動産が管理していたのである。
「藤巻さん、夜分にご足労いただきまことにありがとうございます」
藤巻の姿を見て立ち上がり丁寧に挨拶した八田は、こちらが当社で管理するマンションオーナーの、神田さち様ですと、これまた丁寧に丁寧に紹介する。
「足が悪いもので、座ったままで申し訳ありません、神田さちと申します。夜分遅くにお呼びだてして恐縮ですが、お話したい事がございまして……」
この時点で藤巻が抱く何かしらの“嫌な予感”その全ては、この八田支店長が元凶であると睨んでいた。
金持ち特有の嫌らしさもえげつなさも感じない、この品の良い老婦人は、所有するマンションのトラブルを解決したい一心で支店長にすがりついたところ、支店長がピッタリな人物がいると吹聴したのではないかと思っていたのだ。
だが、この神田さちの挨拶に続いて語られた内容は藤巻をぐうの音も出ないほどに納得させ、そしてビジネスチャンスだと微かに信じていた心もまた心霊かよと粉々に打ち砕く。
「“困った時は藤巻様を頼れ”、兄の正蔵からそう聞きました。たとえそれが幽霊のトラブルであったとしても、必ず藤巻様が解決してくれると」
ーー今、今あなたは幽霊って言いましたよね? 言っちゃいましたよね!?
嫌な予感は見事にビンゴであったのだが、それ以上に驚いたのは、彼女が口にした「兄の正蔵」と言うワード。
藤巻にしてみれば、正蔵なんてお堅い名前を持つ人物は彼の歴史上一人しか知らず、そしてその人物と会った際にどんなトラブルを解決したのか、それがまるで昨日のように脳裏に浮かんだのだ。
「なるほど、和田正蔵さんの御親族でしたか。過日は私の方こそ和田様にお世話になりました。それで、今日私が呼ばれた件について……」
あの犀西団地の地主であり、団地の安寧に日々尽力して来た老紳士ーー彼の姿と神田さちをオーバーラップした藤巻は、何とかしてやりたい気持ちが心の中に生まれ、いよいよ腹を決める。瞳に蒼い炎を輝かせながら、詳しい話を聞こうと前のめりになったのだ。
挨拶が終わり全員が席に着いた頃、神田さちに代わって、八田支店長がこの騒動の詳細を説明し始める。
ーー昨年末にネオパレス長野で殺人事件が発生した。被害者は独身の入居者で樋口瑠衣 (仮)三十歳で、犯人は未だに見つかっていない。オーナーの神田様とも話したが、様々な人の様々な人生の場所を提供して来た手前、起きてしまった事は起きた事として受け入れて、次の展開を考えなければならないのだが、今年に入って発生したトラブルで、マンションの入居者たちが混乱している。
「そのトラブルと言うのが、幽霊騒動なんですね? 」
藤巻の問い掛けに神田も八田も重苦しくうなづいた。
昔から心霊現象など無いと豪語して来た三輪は無言を貫いているが、顔の表情がカチンコチンに固まっており、信じられない信じられないと声にならない声がオーラのように吹き出しているが、それを傍目に見ながらお前は変わらないねえと苦笑しつつ、幽霊出現の具体的な話をしてくれと八田に促した。
「目撃情報は今のところ十一件で、このレポート用紙に詳細が全て記載されているのでご覧下さい。まだまだ目撃情報が増える可能性があり、予断を許さない状況である事は間違いありません」
八田から手渡された報告書をペラペラとめくりながら急ぎ目を通す。
藤巻が報告書に目を通している間、余計なお喋りを入れて邪魔をしてはいけないと、その場にいる誰もが口をつぐんでいるのだが、オーナーである神田さちが我慢出来なくなったのか、藤巻にこの件を是非とも受けて欲しいと今現在の窮状を訴え始めた。
「あのマンションは全戸三十室あります。その内一つは殺人事件のあった部屋で、長野県警から証拠保全命令が出ていて閉鎖しているのですが、今月に入って五世帯の入居者が退居して行きました。他にも退居希望の相談が来ている事を鑑みると、空室は今後も増加の一途を辿るでしょう……」
神田さちは今にも泣き出しそうな顔で藤巻に訴える。売り上げ云々ではなく、亡き夫の残した遺産が……“あの棟に点く灯りが全て幸せの灯りであって欲しい”と生前事あるごとに口にしていた夫の願いが、幽霊騒動で廃墟に変わってしまうのが苦しいのだ。
「退居者増加の全ての原因は、この目撃情報にあると思いますか? 」
感情的になっているオーナーの神田との会話をあえて避けつつ、藤巻は報告書を作成した八田に質問を振る。感情論が雑談に変質する事を嫌い、実務的な話を先に済まそうとしたのだ。
「殺人事件が発生さたのが昨年末、そして目撃情報とクレームが殺到し始めたのが年明け早々。それまで平穏無事な管理に終始していた事から、間違いはないと」
「なるほど、分かりました」
「娘夫婦や孫が調べてくれたのですが、あのマンションは既に、幽霊マンションだと噂が広まっています。えす……SASで拡散されてるそうなのです」
さちさん、それはイギリス陸軍空挺特殊部隊ですよとツッコミは入れずに、SNSでも情報が拡散されている事を静かに理解した藤巻。
マルボロメンソールを口にくわえたい衝動を抑え、責任を持ってこの案件に着手する事を了承した。
そして日が変わって本日、藤巻は新たな入居者を装ってネオパレス長野の敷居をまたぐ。
昨晩の時点で八田支店長から空室を利用して欲しいとの申し出があり、306号室のマスターキーを預かり、午前中には電気と水道が通る手はずとなっている。
藤巻対魔楼は、果たしてどのような決着を迎えるのであろうか




