33 探偵の限界点
美央と奈津子、そしてこ浩太郎の“即席心霊探偵団”は、土曜日の午前中に藤巻が成田家を訪問した事で解散した。
美央と奈津子は残りたくて未練タラタラであったが、浩太郎は藤巻に絶対的な信頼を寄せているのか、藤巻さんが必ず解決するからと礼子を励まし奈津子たちと帰宅の途についた。
藤巻は藤巻で午前中の内に一度帰宅して、有り合わせの食材で早めの昼食を取る ーーサッポロ一番みそラーメンにバターともやし炒めのトッピングプラス、レンジで温めた冷やご飯。藤巻こだわりのラーメンライスを平らげると、夕方まで無理矢理に仮眠を取り、夕方に眼を覚ました彼は一度熱いシャワーを浴びた後にパリッとした服に着替えて再び成田家を訪問した。
主人つまり成田礼子の父親が出張から帰宅したタイミングを狙って挨拶し、事の経緯を説明して父親が理解と納得してもらった上で、家のマスターキーを預かったのである。
成田家の三人はその足で実家に身を寄せるとの事で、家は自由に使って良いと言われたのだが、そこはそれ藤巻は調査業を営む探偵である。知人として心配し家に泊まった浩太郎たちとは違い、藤巻はあくまでも他人であり、調査を委託されたプロである。
心霊調査のギャラは受け取らないと頑なに固辞しつつも、自分の仕事にプライドを抱く以上、成田家の三人を通常の顧客として扱い、手は一切抜かない証拠にと“約束事”と言う境界線を敷いたのだ。
『調査時間は幽霊が出現するとされる、深夜零時から三時までの三時間とする』
『調査時間以外は家屋には鍵を掛けて一切入らない。そして調査で立ち入っても調査対象以外の部屋には立ち入らない』
『貴金属や通帳・印鑑の類いは全て持って家を出てもらう。室内の家具や家電のレイアウトは極力覚えるかリストアップしてもらい、帰宅時に必ず確認する』
『プライバシーの介在する寝室や娘の個室は、ドアと壁にまたがりテープを貼り、封印する』
『明日の朝八時に経過報告を入れるので、必ず電話に出て欲しい』
藤巻は先ずクライアントが安心して外出出来る事を最優先に考え、ガチガチのルールを自ら提示し、そこまでしなくてもと困惑する成田家の面々に笑顔を見せて理解を促したのだ。ーー面倒臭さいかも知れないが、これが探偵のやり方だよと
そして、いよいよ土曜日が日曜日に取って変わる時間帯。
来週の週末には秋祭りが盛大に行われるその一週間前と言う事もあって、浮かれた少年たちが我慢出来ずにパインパイン! と50ccバイクの軽いエンジン音を街中で轟かせた後に、パトカーの怒りにも似たサイレンが鳴り始めて馬鹿馬鹿しいイタチごっこが始まる頃、藤巻の白いポンコツワーゲンゴルフが成田家の駐車場でエンジンが止まった。
車の中から出て来た藤巻は、誰も見ていない孤独な調査であるはずなのにワイシャツにネクタイをカッチリと決めた姿で完全なる仕事モード。ーースーツの上着は羽織らず、ワイシャツの上にモスグリーンのトレンチコートを着ているのは『探偵』としての矜持。やはり器がビシッと決まっていれば気持ちも引き締まると言うもので、これから恐怖体験をせざるを得ない藤巻にとっては、必要不可欠な身だしなみなのかも知れなかった。
深い碧空の底に星々がチラチラと輝き、まるでコンピュータグラフィックで作り上げたかと勘違いする様な、雑味のない鮮やかな夜空の元で、幸いにも穏やかな月明かりは藤巻の味方となって足元を照らしてくれている。
ガチャリ……
借りた鍵を差し込んで回し、入り口の扉を開ける。
昼間はあれだけ賑やかだったのに、灯りが一つも点いていないその家は嘘のように静まり返っており、藤巻でなくとも不安感を掻き立てられてしまうのはしょうがないとしても、冷え冷えとした廊下が奥の暗闇に続くその光景は、まるで人を飲み込もうと待ち構える『死』そのものにも見え、玄関を上がろうとする藤巻を躊躇させる。
「怖え……帰りてえなあ……」
藤巻はもちろん、心霊体験に耐性のある霊能者ではないし、悪の秘密結社と闘う完全無欠のヒーローでもない。
心霊体験や心霊現象に悩む人々をほんの数回助けただけの身であり、それも特殊な能力で解決した訳でもなく、探偵としての職務上で考察を重ねた事が解決に帰結しただけの、至って普通の捻くれ者三十二歳である。
映画鑑賞が趣味となったのは中学時代からだろうか、自宅の近所に長野県有数のレンタル店が出店して来た事から、お小遣いが入ればその殆どをレンタルに費やし、「全米が泣いた」作品を無視しつつ全米に鼻で笑われそうなB級作品を片っ端から見て来た藤巻だが、SF、ホラー、サスペンス、アクションなどの様々なジャンルの中で、「ジョージ・A・ロメロ監督が好き」と公言する以上は、ホラー映画やオカルト映画は彼が一番のお気に入りジャンルであったと言える。
そしてホラー映画が好きだから血を好む性格だ、残虐ゲームが好きだから残虐行為を犯すのだと、世間一般のピントのズレた理論にはもちろん当てはまる事無く、現実と空想の境界線はしっかりと整えており、怖いものは怖いし、遭遇したくないものは極力迂回して遭遇せずにいられればと、至極まっとうな感性が備わっていた。
ーーそれゆえ真っ暗な成田家に上がり込んで、平気でいられるはずが無いのだーー
しかし、依頼されれば……請け負ってしまえば、逃げ出したいとも言ってはいられない。ーー暗闇に対して過剰に意識したのか、藤巻の足取りがピタリと止まって前に進むのを躊躇したとしてもだ。
屋内の電気を点けないまま階段を注意して昇り、階段の踊り場に腰を下ろす。成田家の家族や木内浩太郎から聞いた情報を元に、幽霊が出現しやすい環境を整えるため藤巻は二階で息を殺す。
“……タバコが吸いたい”
時折一階の台所から、冷蔵庫がぶううんと気まぐれな唸り声を上げ、その度に藤巻は身体をビクリと反応させて緊張を走らせる。そしてそれを和らげようと身体が自然にタバコを欲して来るのだが、他人の家で許可も取らずにタバコなど吸える訳がない。
“さすがにイライラして来た、外に出て一服するか”
しばらくじっと待ってはみたものの、何も変化が起きなかった事からしびれを切らし、家の外で休憩しようと藤巻が立ち上がった際に……まさにその瞬間に恐怖はやって来た。
ギィッ! っと、階段の下から一度、木のきしむ激しい音が鳴ったかと思うと、それを皮切りにギイ……ギイ……ギイと、浩太郎から報告があった通りリズムを刻む様な木の軋み音が聞こえて来たのだ。
“これがラップ音、つまりは始まったって事だな”
スティグマータ事件で呪いの幽霊とばったり鉢合わせしたり、盗聴事件で偶然軒下にいる被害者女性の幽霊と遭遇したのとは訳が違う。
「そこにあるもの」と言う、事前に分かっているものを見に行かなければならないと言う怖さは半端ではなく、その恐怖が藤巻をガチガチに縛り付けるのか、階段を降りる足取りは酷くゆっくりでおぼつかなく、背中を丸めて警戒感丸出しだ。
階段を降り切って一階にたどり着く頃にはラップ音はぴたりと消え、屋内には静けさが戻って来るのだが、空気の質が変わっている事に気付く。今まで成田家を訪問する度に感じていた“新築の家の匂い”がいつの間にか消え失せて、何故か仄かにカビ臭さが漂うような、古ぼけて忌々しい空気に辺りは支配されていたのである。
左に見えるは洗面所の引き戸、そして正面には玄関、更に右に見えるのは浩太郎と距離を測った女の幽霊が出現する柱……。
このまま正面を行って、靴を履いて玄関から逃げ出したい葛藤に頭を悩ませながらも、恐る恐るパチリと洗面所の照明を点けて引き戸を開け放つ。
そして藤巻は意を決して洗面所に足を踏み入れ、大きな鏡の前にへと立った。
“成田親子や浩太郎君から聞きそびれたが、この後何をきっかけにすると出て来るんだ? ”
振り向いたり、鏡から視線を逸らして再び鏡を見ると浮かび上がるのかなと、ほんの数秒ではあるが呆けたまま立ち尽くしていると、いつの間にか浮かび上がっていた。女の幽霊は言葉通りいつの間にか鏡に映っており、藤巻とばっちり視線が合っていたのだ。
「……おわっ!……」
思い切り仰け反るも、何とか踏ん張って体制を整える。そして弱みを見せてはいけないとばかりに、鏡に向かって睨みを効かし、その霊が何を訴えてこの家に出て来たのかつぶさに観察を始めるのだが、ここで藤巻は重大な事に気付く。成田家の家族や木内浩太郎からの証言とはまた違う種の光景を、垣間見たのである。
「……なるほど、こっち見んなってか」
藤巻が気付いた点とは、目撃証言の補完とも言える女の霊の詳細。
『天地が逆になった姿で現れ、首を傾げながら鏡の向こうから見詰めるも、怒りや恨みとは違う表情をしている』
先んじた目撃者たちからはそう聞いていたが、実際に自分で体験してみて、その何故? が見えたのだ。
「なるほど、あんた首吊って自殺したのか。最初に聞いたラップ音、あれは吊った後に自分の身体が揺れてロープが柱に食い込んできしむ音だな。そして首が傾げているのはロープが変な形で首に入ったから」
状況が掴めれば掴めたで、今度は不思議な事に藤巻の腹の底から怒りが込み上げて来る。この女の霊が哀れな姿を見ないでくれと訴えているとするならば、何でこの家にわざわざ出て来たんだ? 見られたくないのに姿を現わすとか、筋道が違うじゃねえかと。
ただ、訴えている事とやってる事が正反対だとしても、それにはそれなりの理由がある事は間違い無いーーつまりこの女の霊は、もっと大きな力に操られていると言う事なのだろうか。
恐る恐る振り返ると、もちろんそこに女の霊はいない。
振り戻って鏡を見ると、天地逆さに首を吊って揺れている女の霊が見える。
“……天地逆? 天地逆ってのがポイントかも知れない。この女性は首を吊った柱に取り込まれて、助けを求めているのだろうか?……”
改めて振り返り、藤巻は柱を凝視しながら幼い頃祖母に聞いた怖い話を思い出したーー【逆柱】で家を建てるな、呪われるぞと
もしかしたらこの柱は逆柱で、今もなお、どんどんと負の力を強めている。成田一家や浩太郎君にはぼんやり見えていたものが、俺にはっきり見えると言う理由は、呪いの力が増幅していると言う可能性も否めない。
「明日、田辺君に見て貰うか……この柱が逆柱なのかどうか」
女の霊の正体よりも、この女の霊を天地逆さにして吊っている柱に問題があると感じた藤巻。とりあえず現象は目の当たりにして把握したからと、この家を立ち去る決意をする。
そして洗面所の電気を消して玄関に赴き、柱に向かって一言「見てろよ、俺が解決してやる」とかっこ良く指差しながら捨て台詞を吐いて恐怖の館を後にした。
洗面所から立ち去ろうとする際、やはりそれでも心霊現象が怖かったのか、極力鏡を見ないようにと視線を逸らしつつ電気を消して家から出たのだが、藤巻は気付いていなかった。
ならば気付いていたらどう対処出来たのか? と問われれば、確かに対処などまるで出来ないと答えるしかない代物なのだが……
……藤巻が洗面所を立ち去る際、鏡に映った藤巻はそのまま微動だにせずに、藤巻自身を見詰めていたのである。そして藤巻が家を出る間際、柱に向かって捨て台詞を吐いた際に、鏡に映ったままの藤巻の首元に小さな亀裂がピシッと入ったのだ……
藤巻は自宅に向かって車を走らせている際に、ハンドル操作を無意識に誤ってガードレールに激突。愛車だったポンコツワーゲンゴルフは再起不能で、藤巻本人は全治二週間の鞭打ち症と診断され、頚椎固定用ギプスを装着する羽目に陥ってしまったのである。




