32 探偵登場
明けて土曜日の朝、木内浩太郎はどんよりしていた。
昨晩成田家の贅沢なジャグジーバスでゆるゆるとなり、朝までぐっすりと寝た美央と奈津子は肌ツヤも良く、成田礼子の母親が用意してくれたご飯を美味い美味いと言いながらもりもり食べまくって、ご飯のおかわりまで要求する中、浩太郎だけは食欲が無いのかなかなかに箸が進まない。
炊きたてツヤツヤのご飯と、春先に採って瓶詰めにしておいた根曲がり竹と鯖缶を使った竹の子汁に、カリカリ目玉焼きにジューシィなベーコン、きんぴらゴボウに味付け海苔に漬け物数種類と、これ以上無いほどの豪華な朝食を前にしても、何か心ここにあらずで食べようとしないのだ。
「悪かったよ浩太郎。でもいつのまにか寝ちゃってたんだからしょうがないじゃない」
「違えよ、俺怒ってないし……」
この手の会話は、責められる側が「起こしてくれれば良かったのに」と逆切れするのが普通なのだが、さすがに美央も奈津子もその辺の常識は持ち合わせているのか逆切れせずに、バツが悪そうに謝りながらも話題を逸らそうと、必要以上に「朝食が美味い美味い」を連呼している。
浩太郎が思い詰めるように考えていたのは昨晩の出来事について。ーー深夜鏡に映った女の霊に恐怖して姉たちが寝る和室に逃げ帰ったのだが、何かが浩太郎の中で引っかかっており、その引っかかりが自分でも分からずに、まるでスッキリしていないのである。
成田礼子や礼子の母親から聞いていた話は間違いなかった。まず低い音質のラップ音が聞こえてその後にあの……思い出したくもない女の幽霊が鏡に映ったのだが、礼子や母が語っていた「今にも憑いて来そうな恨めしい表情」とは何かが違うと感じていたのだ。
だが、浩太郎が抱くその感想も、あくまでも彼自身の主観であり真偽のほどは不明。だがそこに違和感を抱いて釈然としていなかったのだ。
“恨んでるとか、呪い殺してやるとかじゃなかった。何だろう? もっとこう……表情が……”
いずれにしても調査は出来た、成田家の人々の目撃談が嘘ではない事は証明され、そして可能な限り調べられる事は調べられた。
“そうだな。今自分の中で悩んで結論を出しても意味が無い、何故なら俺は結論を出す役じゃないからだ”
後は主役の到着を待つ……。
恐怖体験をしてしまった自分を心配そうに見詰める成田礼子のその優しさに溢れる気遣いに感謝しつつ、お腹をさすりながら、もう食えねえようと壁にもたれかかるだらし無い姉とその親友を (ポンコツフレンズだな)と苦笑しつつ、九時に成田宅を訪れる予定の“主役”を、冷め始めてしまった朝ごはんに口をつけてのんびり待つ事にした。
「おはようございます、藤巻と申します」
やがて約束の時間より五分遅れて成田家のドアチャイムが鳴り、新たな訪問客が現れた。名前は藤巻博昭、藤巻探偵事務所の経営者にて凄腕の探偵だ。
礼子の母親が「あなたが心霊探偵さんですね、お待ちしてました! 」と破顔で出迎えると、作ったような笑顔の節々がピクピクと痙攣する藤巻は何処と無く涙目。頼む! 普通の探偵だと言ってやってくれと美央に助けを求めるのだが、美央や隣の奈津子はまばたきすらしない様な能面の表情で我関せずを貫いたまま、鼻の頭をピクピクと痙攣させて笑いを堪えながら藤巻が弱るのを楽しんでいる。
「藤巻さん、お待ちしてました! 」
藤巻が救われたのは浩太郎が大歓迎で迎えてくれた事だろうか。早く報告したいと和室へ引っ張り上げて、昨晩自分の身に起きた心霊体験をありのままに語って報告した。
「なるほどねえ。お母さんと娘さん、そして浩太郎君の目撃証言は一致してる、、、か」
口裏を合わせる必要も無い以上、これらの証言の信ぴょう性は限りなく高いと判断し、その証言の共通点を主軸として全体像を探る。ーーそこで必要になって来るのは第三者として目撃体験をした木内浩太郎の証言。〈恐怖がそこにある〉事を受け入れて尚、見届けた者の情報だ。
その浩太郎の目撃報告は精度が高く、恐怖に支配されずに良く見届けたと藤巻がうなるほどのものを見せる。
「ラップ音は低く、木がきしむ様な音でした。その回数は少なくとも十回以上で、リズムを取っているようにも聞こえました」
浩太郎が言うには、そのラップ音はギィギィギィと小気味良く弾けるリズムではなく、ギイ……ギイ……ギイと、ひどく落ち着いた間を作った等間隔のラップ音だったと言うのだ。
「鏡に映った幽霊は髪の長い若い女性で、天地が逆になってました」
「天地が逆って事は、天井からぶら下がっていたのかい? 」
「いえ、、、髪の毛が逆立ってはいなかったので、ぶら下がっていたと言うよりも、逆さに見えたとしか言いようが無くて」
「なるほどね、分かった。それでその女性の表情や仕草など、分かる限りで教えてくれないか? 」
心霊体験なんて初めての事だったので、パニックを起こしていてあまり覚えておらず……自分の感じた事で良ければと前置きし、浩太郎は語り出す。
「天地逆だったのではっきりとは言えませんが、その幽霊は俺を睨んでいなかったように感じました」
「睨んでいなかった? 幽霊は怒ってないと? 」
「百パーセント言い切れないですが、むしろ首を傾げながら悲しい顔をしていたような……」
「分かった。美央ちゃん、浩太郎君、ちょっと悪いけど実験に付き合ってくれ」
藤巻は立ち上がり和室の外にスタスタと歩いて行く。呼ばれた美央と浩太郎も何の実験だと不思議がりながらそれに続き、続いて奈津子と礼子も廊下に出た。
「浩太郎君、君が昨晩に幽霊を目撃した場所に立ってくれるかな? 」
浩太郎が洗面所の鏡の前に立って位置に付いたと申し出ると、藤巻は浩太郎の後ろに美央を立たせて、天地逆ではないが鏡に映った際の大きさを確認したいと、ずりずりと美央を後ろへ下がらせたのだ。
「まだちょっと……あっ! それぐらいの距離だと思います」
鏡に映る美央を見ていた浩太郎が、美央に止まれと指示した場所は壁際。廊下を挟んで洗面所の反対側にある壁あたりが、つまり幽霊が出現したポイントであると判明したのである。
「場所としてはここかあ」
上に下にと、藤巻がしげしげと見詰めるのは太い立派な柱。洋風の家にマッチするようにと手が加えられたのか、柱の表面に塗料が塗られており、アンティーク調のお洒落な柱に仕上がっている。
「奥さんちょっと良いですか? 」
藤巻は台所で洗い物をしていた礼子の母を呼び、折り入って話があると切り出した。
「今日、こちらにお伺いするにあたり、事前に入手出来る情報は集めておきました」
ーー堀田工務店 (仮)が新たに造成・分譲したこの区画は全部で八世帯分。造成工事中には労働災害は一切無く、造成前には休耕田だったこの土地も、何ら因縁めいたものはありませんでしたーー
「つまり藤巻さんが言いたいのは、この新築間もない家に……問題があると? 」
「まだ確信が持てないので仮定を真実に置き換える訳にはいかないのですが、恐らくはこの家に問題があると思います」
……夫婦で長年苦労して、やっと手に入れたマイホームなのに……
がっくりと肩を落としてうなだれ、これからどうすれば良いのかと途方に暮れる礼子の母。だが、諦めるのはまだ早いですよとでも言いたげに口角の上がった藤巻は、礼子の母にある提案を提示する。
「問題があるとは言いましたが、原因が分かったとは言っていません。どうでしょう? 自分の目で確認させていただきたく、今晩調査のために私を泊めさせていただけませんか? 」
「今日の夜から夫の実家に身を寄せようかと考えていまして、藤巻さんお一人になってしまいますが、それで宜しければ……」
藤巻と礼子の母の会話を聞いていた美央たちは「藤巻さん、泊まるんですか!? 」と、何やら自分たちにも声が掛かるのではないかとワクワク顔で身を乗り出すのだが、それに気付いた藤巻は梅干しを食べながら渋茶でそれを胃に流し込むかのような、それはそれは渋い顔をしながらそれを拒否する。
「ぶっぶ〜! 駄目です、育ち盛りのお子様は早く寝ないといけないのです。お家に帰ってお休みください」
たとえ“うわぁ、この顔ブン殴りてえ! ”と言う思いを心の片隅に抱いてしまったとしても、役に立たなかったのは純然たる事実。
美央と奈津子は荒い鼻息をしまい、しょんぼりと意気消沈しながら帰宅を約束した。




