31 成田家 後編
深夜、ほとんどの家々が照明を落として眠りについた時間帯。車やバイクの音も聞こえない、鈴虫やマツムシなどの鳴き声だけが辺りに広がる凛とした闇夜の中で、木内浩太郎だけは目を覚ましたまま布団に横たわっている。
ここは成田家一階の和室で、江森美央と木内奈津子そして弟の浩太郎は、成田礼子の母から盛大なもてなしを受けた後も、やれ風呂に入れだのアイスクリームを食べろだの夜食はいるか? 焼きそば食べるか? と徹底的な歓迎を受け、腹一杯で幸福に満たされながら睡魔の誘いと闘い、浩太郎だけがとうとう「その時間」を迎えたのである。
和室に川の様に並べられた布団の中で、美央も奈津子も撃沈してしまった。食後長々と礼子を交えた女子トークで盛り上がり、その後入った風呂がジェットバス付きの豪華な風呂で、二人とも身体をゆるゆるにされたものだから、その緩みきった心と体で闇夜に潜んで幽霊を待つのも無理な話。
布団に横になって「目だけ開けてようね」と二人で誓い合って数十秒も経たずに、二人揃ってすうすうと可愛らしい寝息を立て始めてしまった。つまりは美央も奈津子もポンコツ具合が半端無く、全ては浩太郎の双肩にかかったのだ。
成田礼子は二階で母親と一緒に寝ている。賑やかな来客はあったものね、やはり主人のいない心細さが心の片隅に存在するのか、今日は二人で寝ると言って二階に上がって行った。
また、礼子も母親も深夜どうしてもトイレに行きたくなった際の緊急手段として、二人には浩太郎の携帯番号を教えてある。着信があれば暗がりの中での調査を即時中止して、一階の廊下や洗面所の灯りを浩太郎が点けて、一階に降りて再び二階に上がるのを待ってる手はずになっていたのだ。
準備は万端で普段から夜更かししている浩太郎は眠くない。また、意識している異性の家にお世話になっている事で、表面的には見せないがテンションはヤケに上がっている。
“出るなら出て来いよ幽霊”
照明を落とした和室、布団の中でうつ伏せになりながら、浩太郎はひたすらその時が来るのを待っていた。ーースマホで小説を執筆しながら。
浩太郎の顔面をスマホのブルーライトが白々と照らしてどれだけが過ぎたであろうか。
ーー王国と魔王軍との全面衝突となったフィリィ平原での戦いの際、ネクロマンサーに操られたゾンビ軍団が王国本陣前に突如出現して王国軍が壊滅的被害を被り、もはやこれまでかと王国軍の誰もが諦めかけた際、主人公の“常識のテツヤ”と仲間たちがその前に燦然と現れる。そしてこの世界でテツヤだけに許された神クラスチート技である“定義する言霊の魔法”を駆使して「常識的に考えて細胞が死んでるのに身体が動く訳無えだろう! 」と叫んだ結果、ゾンビ軍団の崩壊に成功し、逆転勝利の立役者となって女王様から求婚される辺りーー
真剣に書き続けたこの辺りで、突如廊下に異変が訪れた。
ギイッ
ギイッ
……ギイッ
木の軋む音にびくりと身体を震わせ、浩太郎は反射的に身体を捻って上半身を起こす。
“聞こえた!”
これが始まりのゴングなのかどうかは分からない。だが礼子から聞いていたラップ音がこれならば、幽霊がこの後に現れると言う流れに乗ったと言う事。
いよいよ始まったかと、冷や汗を背筋に垂らして全身総毛立ちながら身構えるも、浩太郎は自分に課された使命を思い出す。
ただラップ音が聞こえました、幽霊は話に聞いた通り現れましたでは子供のお使いと同等。この現象を先入観無く捉えて、探偵藤巻に報告しなければならないのである。出来るだけ詳細に見届けて藤巻に報告し対策を練る。これが勝利の方程式、、、今自分がここにいる理由なのだ。
ギイッ……ギイッ……
相変わらず浩太郎を誘い出すように聞こえて来る不気味な音。いつだったかテレビの心霊特集において、高い音域のラップ音は幽霊から歓迎されたり守護霊など好意的な霊が存在を示す証であり、低い音域のラップ音は地縛霊や浮遊霊などが悪意を示していると解説していた。
“好意は持たれていないのかラップ音は低い。ラップ音と表現するよりも、これは……まんま木のきしむ音じゃないか”
美央も奈津子もラップ音に全く反応しないまま幸せそうな顔で寝入っており、今から起こしたとしても寝ぼけて時遅しになる可能性が高く、つまりは味方がいないまま一人で調査をしなければならないのは必然。
恐怖で身体がガタガタと震えているものの、それでもと問題の洗面所に赴こうと、布団から起き上がる。
カタンカタン……カタンカタンと遥か遠くから聴こえて来るのは、終電が終わった後に稼働する第三セクター「しなの鉄道」の貨物列車。
JR長野駅から日本海に向かって物資を運ぶ、長野市北部団地に住む者にとっては毎晩恒例のありきたりな音であるのだが、今の浩太郎にとっては“自分以外にも起きている人がいる”事が実感出来る微かな慰め。
廊下に出ようと和室の引き戸に手を掛けるのだが、恐怖と緊張が背中に重くのし掛かって来ているのか思うように身体が動かない。常識からかけ離れた恐怖体験を身体が拒否し、廊下に出る事を躊躇し続けるのだが、浩太郎は意を決した。
“我が言葉に宿りし万物定義の力よ、我が言霊となりて世界を定義せよ……「俺には勇気がある、俺が勇者だ! 」”
自分が書いている小説の主人公を自分に照らし合わせ、厨二病を最大出力に勇気を振り絞ったのだ。
浩太郎は奮い起こした勇気に背中を押されてスルスルと引き戸を開けた。
真っ暗な廊下に一歩二歩踏み出す、冷えたフローリングの床がひんやりと足の裏を冷やし、身体の芯に冷たい血を循環し始める。ーー不安と恐怖が心を冷やし、身体も冷え始めるネガティブな環境だ。
廊下に異変は感じられない。成田礼子と母親の話では、階段を降りる際に階段を照らす照明を点灯し、廊下は常夜灯の微かな灯りのまま、洗面所の電気を点けると鏡に女の幽霊が映っているとの事で、浩太郎もそれを踏襲すべく、電灯は点けないままに廊下を渡り洗面所の前に。……壁にあるスイッチをパチリと入れて、洗面所の引き戸を恐る恐る開ける。
引き戸を閉めて洗面所を個室状態にする度胸はさすがに持ち合わせておらず、暖色系の洒落た灯りが煌々と照らす洗面所に対して、廊下側からゆっくりジワジワとしかめっ面だけを出して洗面所を覗く。
“何も……見えない”
浩太郎が覗き込む角度が悪い訳ではない。洗面所の鏡は廊下から洗面所に入った真正面にあり、廊下や壁に身体を隠したままの浩太郎の顔もバッチリ映っている。
ならば、鏡の真正面に立たなければ条件を満たさないのかと、しかめっ面から涙目の泣きそうな表情にシフトしつつ、へっぴり腰で鏡の前に足を進めそして立った。
木内浩太郎は鏡の前に立ち、女の幽霊が何処から現れるのかどんな姿で現れるのかなど、鏡に映る自分の姿を見詰めながら考える暇など一切無かった。鏡の前に立って即、腰が抜けそうな衝撃的な光景に我慢出来ず、まるで空でも飛ぶかの様に後方の廊下に向かって自らジャンプしてもんどりうったのだ。
成田礼子、そして彼女の母が話してくれた話は本当であり、浩太郎が鏡の前に立った際に、背後に女性の幽霊が現れたのである。
ーー天井から床に向かって立っているような天地逆の姿で現れたのは赤黒い顔色をした若い女性の幽霊。首を斜めに傾けたまま恨めしそうな顔付きで、今にも浩太郎に恨みの言葉でも投げかけて来そうな凶相で睨んでいたのであるーー




