03 田辺神父
◆長野北カトリック教会
長野市の北部に位置する小高い丘にそびえる星城女子大学から南に下り坂を降り、しなの鉄道三才駅に向かう途中の団地の道路沿いにその教会はある。
一目ではそれが教会だと判別のつかないような、小さな会社の事務所のようなこじんまりとした佇まいなのだが、昭和の頃から地域の信徒の心の支えになって来た地元では由緒ある教会である。
日本のような狭い土地でもと、何とか作り上げた身廊の中央を祭壇へと向かうと、田辺神父が若い男女のカップルと楽しそうに談笑に耽っている。どうやらこの若いカップルは地元の信者で、この教会で婚姻の式を挙げたいのだと神父から式の詳細を聞いているようだ。
もっと言えば、白髪がちらほらと見える田辺にとってみれば、長らくこの地で布教している間にどんどんと成長したこの二人が結ばれる事を喜んでいるのか、昔話を織り交ぜながら終始ご機嫌であった。
時間を忘れたかのように長らく三人が談笑に耽っていると、ギイと渋い音を立てながら教会出入り口の扉が開く。
今日は午前中に礼拝を終えて、午後はこの後信者の老人が入院している市民病院に赴き病を癒す儀式を行う予定。
この若いカップルからは予め連絡を受けていたが、はて、、、誰か訪問して来る予定はあったかな?
田辺は若い二人にまた改めて話をしましょうと会話を切り上げ、入り口に立ったまま入って来ない女性に視線を送る。
その女性はカップルが出て行った後も入って来ようとはせずに酷く躊躇しており、彼女の抱える悩みが気軽に口に出来るものではない事を田辺は悟り、敷居は高くありませんよと優しく声をかけた。
「お嬢さん、先ずは座って落ち着きませんか? 」
祭壇に向かって左右に並ぶ椅子を指して、田辺は身廊の真ん中で女性に促す。女性は恐縮しがちに頭を下げて教会内へと入り、田辺に招かれるままに椅子へと座った。
「神父の田辺と申します、よろしくお嬢さん。何やら深刻そうな顔をしてますが、悩み事ですか? 」
「突然お邪魔して申し訳ありません、星城女子大学に今年から通っている、輪島依子と申します」
私……クリスチャンではないのですが、神父様に相談したい事がと依子は切り出すのだが、遠慮がちに言葉を選ぶ彼女に田辺は朗らかな笑顔で答える。
「信者か否かは関係ありませんよ。あなたは道に迷ってここを訪れ、そして私と巡り合った。それ以上に何が必要でしょう? 」
笑顔でありながらも田辺の瞳は真剣そのもの。まさに迷える者を導こうと依子に接して来ている。
その誠意ある対応に警戒感が薄れたのか、依子は思いの丈の全てを田辺にぶつけた。
「クリスチャンの友人に、それは“奇跡の顕現”だから、教会に行って相談しろと言われまして……」
依子は「あれ」が始まった時から五日経った今の状況まで、堰を切ったように事細かに田辺に語り出す。
深夜就寝中に突然目が覚めて、謎の影を見てしまった事。そしてそれが毎晩就寝中に起きる事。影の正体は未だ分からず、遭遇が終わるたびに自分の身体に出血が確認出来る事。
影が帰り際に「見たな」と小さく一言声をかけて来るのだが、だからと言って何かしら見てしまった罰が身の上に起こる訳でも無い事。
それはスティグマータの可能性もあると、同じ講義を受けているクリスチャンから教会を訪ねる事を勧められこの教会の門をくぐったのだと、嘘偽り無く洗いざらい説明したのである。
「諏訪の実家では、普段は仏壇に向かい祖父と祖母の為にお線香を上げ、朝晩や年末年始には神棚に向かって家内安全を願っています。ベタベタの日本人家庭に育った私に、そんな奇跡ってあり得るのでしょうか? 」
田辺は驚いていた。
依子の話を超然とした態度で聞きつつ、アドバイス出来るようにと咀嚼を繰り返していたのだが、まさか彼女の口から“スティグマータ”などと言う言葉が出て来るとは……。それこそ平静を保ってはいるものの、心の中では腰を抜かさんばかりに動揺していた。
「奇跡と言うものは、既定路線から外れた予想外の出来事だから奇跡と呼ぶのではないでしょうか? だから貴方が奇異に感じたとしても、あり得る事なのかも知れません。ただ……」
「ただ……何でしょう? 」
「貴方がお話ししてくれた内容について、私もいささか疑問を抱いた点がありまして」
「何でもおっしゃってください」
田辺が抱いた疑問とはこうだ。
謎の影を目撃した貴方本人は、その現象自体に恐怖を覚えたのか? それとも特殊な体験をしたと言う結果が貴方の理性に恐怖を湧かせているのか?
現象自体に恐怖を覚えるのであれば、もしかしたらそれは奇跡ではないのかも知れないし、体験後に怖かったと改めて認識しているならば、その体験は自分の中で自動的に恐怖のジャンルに分類されているだけで、もしかしたら本当に奇跡かも知れない。
「つまり、信じられない体験をした事が重要なのではなく、その体験を通じて何かしら貴方に対してのメッセージがある、あった。……それを読み解く事が大事なのではないでしょうか? 」
田辺のこの言葉は依子の停滞した気持ちを晴らすきっかけとなる。
今の今まで霊感体質などとはまるで無縁な世界で生きて来たが、その平々凡々たる生活を打ち壊してでも依子に伝えたい……何かしら超常的な世界からメッセージがあるのではと考えたのだ。
「神父様、もしもまた影が現れるのなら、今度は恐れてばかりいないで問いかけてみます。私に何を求めているのかと」
「そうですね、恐れと言う感情に縛られたままでは、瞳を曇らせてしまう可能性もあります。立ち向かってみるのも宜しいかも知れません」
依子は立ち上がり深々と田辺にお辞儀をする。田辺もお導きがあらん事をと挨拶し、依子は足取り軽く教会を後にした。
静まり返った教会の身廊、出入り口の扉を見詰める田辺の表情は、依子を見送った際の柔らかく優しい笑顔から、いささかの曇った表情へと変質していた。
彼女の口から出た“スティグマータ”と言う言葉が、田辺の身体を重くしているのである。
歴史を紐解けば、聖人となった信者の中にスティグマータの現象が現れた例はいくらでもある。
1900年代初頭、カプチン・フランシスコ修道会の聖ピオ神父の身体に聖痕が現れ、死後2000年代になってローマ教皇のヨハネ・パウロ二世から聖人と認められた事が、最近では有名なケースではあるが、実際に現象が起きていたのは百年前の事で、話を伝え聞くだけである。
世界中でスティグマータ出現の話題はたくさん出るものの、多くは思い込みの延長線上にあったり、隠れて自傷行為を行っておいてスティグマータを主張する者もいた。
田辺神父にしてみれば、“スティグマータが出現した! ” “奇跡の顕現だ!” と世界に発信する事は容易く、そして自身の教区で起きた奇跡であるから、ひどく名誉な事ではある。
だが、その確証を持てずにいたのはやはり、教会を訪ねて来た輪島依子なる人物が信者ではなかった事と、彼女の「為人」……人物像や性格・嗜好が分からなかった為である。
もちろん、迷える者だった依子には、心からのアドバイスをしたし、真剣に彼女の言葉に耳を傾けた。つまりは、田辺自身がスティグマータの現象自体に多少なりとも懐疑的であったのだ。
……輪島依子さんか、彼女は次にどんな質問や解答を持ってここを訪れるだろうか……
いずれにせよ、全ては彼女がまた来てからだと、田辺は外出の準備を始める。もちろん、入院中の信者の元に赴いて祈祷してやるためである。
だが、輪島依子がこの長野北カトリック教会を訪れる事は二度と無かった。
次の日の話になるが、星城女子大学の学生寮“柊館”の前から、サイレンを鳴らさずに赤色灯だけ回転させる救急車が去って行く。
輪島依子は部屋で冷たくなっており、死亡確認の上救急車で静かに搬送されて行ったのだ。