29 木内姉弟
「ははあん。美央のヤツ、また始めたな」
食後のまったりとした時間、木内奈津子は自分の部屋で勉強する気が起きないのか、机の上にノートパソコンを置いてそれを起動した。
ネットに接続してポータルサイトに飛ぶと、大好物の芸能ニュースをクリックしようとしたのだが、何を思ったか検索欄でいくつかのキーワードを入力し、表示結果のサイトを無作為に閲覧し始めた。
ーー同人誌販売サイト
奈津子自身にその趣味があるのかそれとも、別の理由があって閲覧するのかは定かではないのだが、何件ものサイトを経由したところで、初めて奈津子の手は止まり、前述のセリフが出たのである。
「くくく。……もうね、画風が全く美央のものなのよね。エエンヤって作者名はエンヤから取ったのかな? ええんか?エエンヤ! なんつって」
あいつバイトだけじゃ物足らずにまた小遣い稼ぎ始めたなと認識し、勉強遅れても絶対にノート貸すのやめようと呟きながら、イタズラっぽい笑みを口元に浮かべていると、階下のリビングから母親の「おかえり〜」と言う声が聞こえて来た。
公務員の父親も既に定時で帰宅しており、母と奈津子の三人で夕飯の食卓は既に囲んで済ましている。つまり今母が声をかけたのは奈津子の弟である浩太郎だ。
「帰宅部のくせに、今日はヤケに遅かったわね」
浩太郎も高二だし、そろそろやんごとなき理由があってもおかしくはないよね、にひひひ……とワザと下品に笑うのだが、自分が正真正銘の乙女である事は棚に上げていた。
さて、美央を慌てさせるネタも掴んだ事だし勉強するかと、パソコンの電源を切ってテーブルに乗せて、教材をカバンから上げていると、ドタバタと階下を歩く振動が伝わって来る。
何を騒々しく慌てているのかと思っていると、その足音は階下のリビングから階段を伝って奈津子の部屋の前へ。
「姉ちゃん、姉ちゃんちょっと! 」と、弟の浩太郎は無意識と言うか無配慮と言うか、無造作にいきなり、姉の部屋の扉をガチャリと開けたのだ。
「くうぉらあ浩太郎! ノックはどしたあっ! 」
般若の形相で怒鳴りながら奈津子が足元のバッグを蹴飛ばすと、勢いのついたバッグは見事浩太郎のみぞおちにヒット。浩太郎は「ぐはあ! 」と胃から悲鳴を上げながら前のめりとなって沈む。
「あんたに悪気が無いのは分かっとるが、何度言ってもノックしないなら、身体で覚えるしか無いなあ! 」
「ごめん、ごめんよ姉ちゃん……反省してる」
「これから勉強しようとしてたから問題無かったけど、私が着替えとかしてたらあんた! 真空竜巻旋風脚だからね! 」
「いやいや、むしろ着替えはノーサンキューだから」
「キーッ! 傷付いたぞ、姉ちゃん心が傷付いたぞ! 」
「だから慌ててたんだって、姉ちゃんごめんよう」
なあにやってんだか……階下のリビングでテーブルを挟んで談笑していた両親が苦笑する中、二階の大騒ぎは何とか収まるのだが、どうやら弟の浩太郎は奈津子に緊急の相談事があるようである。
浩太郎を部屋には入れずに入り口で正座させ、改めてその相談事とやらを聞き始めた。
「クラスの女子に成田礼子って名前の子がいるんだけど、先週ぐらいから様子がおかしくてさ。俺ちょっと心配だから彼女に聞いたんだよ」
「うは、恋バナと来たか! 浩太郎も大人になったなあ、姉ちゃん嬉しいよ」
「違えよ、そんなんじゃねえし! 彼女あっという間にやつれちゃって、自殺でもするんじゃないかってくらいに弱ってたんだ」
浩太郎の相談はどうやら、恋愛相談などの浮いた内容ではなく、クラスメイトを本気で心配している。ーーそれを感じた奈津子は茶化すのを一切やめて、ゆっくり話してごらんと浩太郎に促した。
浩太郎の話はこうだ。
高校入学時からずっとクラスメイトだった成田礼子の様子が先週激変した。それまでは成績優秀且つ性格が良くて、それでいて笑顔の絶えない女の子だったのだが、先週から一切笑わなくなるどころか、睡眠不足なのか目も虚ろで完全に塞ぎ込んでしまったのだそうだ。
心配した浩太郎が何かあったのか度々問いただすのだが、大丈夫だからと言ってその胸の内を明かしてくれはくれずに、本日貧血を起こしたのか授業中に椅子から転げ落ちて気絶してしまったのである。
保健室に運ばれた成田礼子は、母親が迎えに来るまで保健室のベッドで横になっていたのだが、日々衰弱していく彼女の姿に見かねた浩太郎が、彼女が帰宅した後にわざわざ見舞いに行ったそうなのだ。
そして浩太郎は彼女に問うた、一体何があったのか? 聞いた話は誰にも言わないし、君の力になりたいと説得したところ、彼女は泣きながらやっと重い口を開いてくれたのだ。ーーこの家に幽霊が出ると
「その幽霊の話は間違いないの? ある程度詳しい事は聞いたの? 」
「うん、どんな感じで出現するのかとか詳しく聞いた。それに成田の母さんも実際に見たらしくて、近所で噂にならないようにくれぐれも内緒にしてくれって言われた」
「本人だけじゃなくて、お母さんも目撃したなら信憑性の高い話かも知れない。嘘じゃなさそうね」
「親父さんも目撃してるから家族三人が全員幽霊を目撃してて、それでみんな眠れなくなってるそうなんだ」
なるほどねえと一瞬間を空ける奈津子。
その間は恐怖の心霊体験をして困っている家族に対して同情しているだけの時間では無かった。その話を持って自分の部屋に飛び込んで来た弟が、次の段階として自分に対してどんな依頼を言い出すのか、その内容が微かに見えてしまった事で迷っていたのである。
「……ねえ浩太郎。あんたそれで成田さんに約束したの? 自分が解決するって」
「姉ちゃん、霊能力なんか持って無いのに、軽々しく解決するなんて約束しないよ俺。だから奔走するって約束したんだ、心当たりがある人に相談してみるって」
ーーなるほど、それで私かーー
今年の春先、木内奈津子は超常現象によって命の危機に遭遇していた。知っている者たちの中では『スティグマータ事件』と呼ばれているのがそれで、見てはいけないものを見てしまった奈津子は、死のカウントダウンに脅える日々に恐怖していたのだが、その事件は見事に解決されて、奈津子は再び年相応の安穏とした日々を過ごせるようになった。
あと数日の命だと言って自室に閉じこもり、震えて脅える奈津子を気遣って支えたのは弟の木内浩太郎。つまり、浩太郎もスティグマータ事件が「どのように」解決されたのか知っているのだ。
「うむ、我が愚弟ながら立派ではある。多分この時間ならコーヒータイムにいると思うから、今から行くかい? 」
「姉ちゃん頼む! この通り! 」
奈津子に向かって土下座する浩太郎。その光景を見て微笑む奈津子は、外出着に着替えるから外で待ってろと指示を出し、弟の成長を喜びながらいそいそと着替えを始めた。
「……なるほどねえ……」
カウンター席からボックス席に移り、目の前の姉弟の話を聞いた藤巻は、それで俺に白羽の矢が刺さってんのねと、憮然とした顔つきでマンデリンコーヒーをすすっている。
閉店直前だった事もあり、コーヒーくらいならと良いよと、マスターの計らいで三人にコーヒーが出されたのだが、気持ちよく酔っていた藤巻も悲しいかな現実に引き戻されていた。
「藤巻さん、成田が心配なんです。相談に乗っていただけませんか? 」
浩太郎はまばたきもしていないのではと思えるほどに、瞳をギラギラと輝かせて眼力で押して来る。
姉の奈津子は弟は高校生ではありますが、彼なりに支払いは覚悟してますので言ってくださいと、やんわり藤巻の退路を遮断すらしている。
“たのむよ、心霊相談やめてよ”
泣きそうな顔でカウンター奥の美央を見る。助けを求めている訳ではないのだが、奈津子の親友である美央の反応も確かめてみたくなったのだ。
すると美央は、あくまでも第三者としての立場を自覚し、三人の話し合いに影響が出ないようにと超然とした表情を保っているのだが、目つきがちょっとだけ普段と違う。ーー何か両目が渦を巻くような、怪しい視線を藤巻に向けているのだ。
……受けろ、受けろ、その話受けろ、受けろ藤巻、YOUその話受けちゃえば良いJAN……
“怪しい念を送って来んじゃねえよ、笑っちまうだろ”
上着のポケットからマルボロメンソールを取り出し、タバコをくわえようとしたところで目の前の未成年二人の存在に配慮したのか、再びポケットにそれをしまう。そしてため息を軽く吐き出して二人に顔を向けた。
「報酬はいらない。それが商売として成立しちゃうと、次から次へと話が飛び込んで来そうで怖いからね」
「ふ、藤巻さん、それじゃあ! 」
「ああ、詳しい話を聞かせてくれ。内容によっては更に情報を集めてもらう事になるよ」
コップの水を吸い上げる鳥のオモチャのように、何度も何度も頭を下げる木内姉弟。
藤巻は頭を軽くぽりぽりとかきながら、やれやれと一人つぶやいた。ーー他称心霊探偵の出動である




