25 あんた
八月も終わりに近付くと、都会では未だに都市型熱帯夜で寝付けられないほどに暑い夜も、長野では全く違う世界が広がっている。
日本海の高空で冷やされた風が善光寺平・長野盆地へサラサラと下りこみ、窓を開けて網戸のまま就寝すると身体は完全に冷え切ってしまう。
ここ長野市の南西側に位置する犀西団地も、盆地の西外縁を取り囲む山々が湿度の低い冷えた空気を里に送る中でひんやりと冷やされ、Tシャツの上に一枚羽織りたくなる夜が始まっていた。
深夜、日付けが変わって今日は土曜日
全くと言って良いほどに目を覚ましている住人たちがいない状況において、家屋やアパートの室内灯は全て消えて街灯の光だけが煌々と道を照らすだけの暗闇世界の中、周辺の農地や林地から秋の到来をいち早く察知した虫たちが、パートナーを求めて恋の歌をリンリンと合唱する音が聴こえて来る賑やかで静かなこの団地に、藤巻博昭は足を運んでいた。
藤巻は今週の火曜日の午後に、大地主である和田正蔵の元を訪ね、社員である松田と田辺そして信州不動産の八田支店長とも顔を合わせている。
それは大地主であり本調査のクライアントである和田の元に訪れた調査依頼契約締結についての概要説明と見積もり書の提出と言う、純粋な事務処理目的であり、まさかその時点で盗聴機の調査が始まっているとも終わったとも思っていなかった。
全ては決めた事に対して一直線に進む、和田正蔵の性格に起因するのだが、喜び勇んでやって来た藤巻は完全なる“拍子抜け”に陥る。
管理側の八田支店長と大地主の和田の了承の上で、調査員の松田・田辺の合計四人で問題の家屋に入り、容易く盗聴機を見つけてしまったのだ。
『二股電源タップ』ーー家屋に据え付けられたコンセントに差し込んで、電源一つに対して電気器具が二つ使えるごくありふれた物。これが充電式盗聴機であるならば、無人の家屋で電気契約が成されていなくても、稼働し続けるとするならうなづける。
六畳間が二室にキッチンとトイレ・風呂の簡素な借家でなおかつ無人で何一つ荷物が無ければ、この電源タップが一つだけ差し込まれている違和感は、よほどの鈍感者でも分かる構図であった。
松田は指紋を残さぬ様にハンカチで掴んでそれを取り除き、和田と八田支店長これが本当に盗聴機かどうか判断するには最終的に分解して中身を確認せざるを得ない事、そしてこの盗聴事案についての今後の処置を問うた。ーー「ブツを見つけて、これからどうするか」である。
それに対して和田の方針は簡潔であった。
「探偵さん、分解して確認してみてくれ。それと探偵さんたちが犯人を見つけてはくれないか? 」
この盗聴機を持って警察に赴き告発したとしても、実際の被害者ではない事で被害届けを提出する事が出来ずに、犯罪として成立しない可能性がある。
ーー管理側の信州不動産が不法侵入と盗聴機設置を訴えたとしてもだ。
「だから探偵さんに探って貰いたいんだ、一体誰が被害者で誰が悪党なのか。報酬は間違い無く払う」
つまりは、藤巻探偵事務所として請け負ったのは盗聴機の有無の確認ではなく、盗聴機が誰のプライバシーを暴こうとしたのか、それと誰がそのプライバシーを暴いて喜んだのか。そして和田も腰を抜かすほどに驚いて恐怖したあの“女性の声”が一体誰の声なのか、それを調査して欲しいと言うのだ。
調査料金の概要説明と改めての見積書提出を約束し、藤巻探偵事務所は本格的な調査へと突入した。
築五十年、昭和後半に建てられた平屋建て住宅は、様々な人々が一時の人生をそこで過ごした後に再び別天地を求めてここを後にしている。
過去の契約者・利用者は信州不動産側が揃えてあるので容易に情報を入手する事が出来たのだが、調査が始まってから水曜日、木曜日、金曜日と三日も経過したのに状況が見えて来ない。
ーー近年の入居者リストが、まるで現実と乖離していたのである。
この四年間の賃貸契約者はエイプリル・ジョイ、三十六歳女性。
長野市在住のフィリピン人、戸田マリーグレースを保証人として契約を締結していたのだが、入居者はエイプリル一人と申請しながら、とても賑やかな生活を送っていたようなのだ。
近隣住民からエイプリルについて話を聞くと、誰もが口を揃えて「そもそもエイプリル本人など挨拶にも来た事が無いから分からないし、たくさんいたから……」と質問に答える。
つまりエイプリル・ジョイが一人暮らしをする為に借りた家に、絶えず五、六人の女性が生活をしており、夜の仕事へとそこから通ったのである。
契約違反ではあるが、近隣住民とのトラブルが無かった為に表面化せず、管理者側の信州不動産はその実態を掴む事が出来ないままに契約解除に至るのだが、エイプリル・ジョイを探すアテが全く無く、保証人の戸田マリーグレースを頼っても、彼女は帰国したの一点張りで、同居していた若いフィリピン人女性たちについても知らぬ存ぜぬなのだ。
「夜の商売をしていた可能性が高い、そう言う組織に管理された女性たちなのではないか? 」
「組織から抜ける相談をしたり逃げ出したりしない様に、盗聴機で絶えず監視されてたのでは? 」
調査員の松田や田辺はハンカチで汗を拭いながら、そう藤巻に報告及び現時点での調査員としての見解を述べるのだが、何故だか藤巻はしっくり来ない顔付きで満足しない。
ーー盗聴電波で聞こえて来た声は果たして、本当にフィリピン人女性のものなのか? ーー
日本でなら稼げると言われて現地のブローカーに騙され、来日したらしたで組織の下で自由も与えられない生活を強いられて、夜の街でカタコトの日本語を使ってオッサンたちにお酌してご機嫌を取る……。確かに同情に値する悲惨な人生ではあるが、松田や田辺、そしてクライアントの和田氏が聞いた声とは、彼女たちの中の一人なのだろうか。
自分の身の回りにも、来日して中華料理屋での仕事を頑張っている女性がいるが、お世辞にも日本語が上手いとは言えない。
【カタコトの日本語……その違和感に気付かない松田や田辺じゃないだろう】
つまり、声の主はフィリピン人女性では無いのではと考え、そうであるならば何が考えられるのか自分の頭をクリアにする為に、藤巻は週末の深夜を利用して犀西団地を訪れたのである。
問題の家屋の前、ライトを消してアイドリングを続けるポンコツワーゲンゴルフ。近所迷惑にならぬようにFMラジオのボリュームは絞ってはあるが、懐かしの洋楽特集が放送されておりアースウィンド&ファイアーのヒット曲が次々に流れ、藤巻はハンドルを押さえる右手の人差し指でトントンとリズムを取りながら、先程自動販売機で買った缶コーヒーを不味そうにちびりちびり。
月明かりにぼんやりと照らされる家を見つめながら思案に明け暮れている。
エイプリル・ジョイなる人物が借りた以前は、マイホーム新築中の避難先として、夫婦と赤ん坊が三カ月の間賃貸していた。それ以前は夫婦、家族、老夫妻と遡るのだが……。
閃きも何も浮かばない中、頭をガシガシとかきむしりながらダッシュボードに手を伸ばし、マルボロメンソールとライターを取り出す。
そんなに我慢出来なきゃ肌身離さず持っていれば良いのにと指摘されそうだが、肌身離さず持たないのが本人が想うところのタバコとの距離なのだろう。
クシャクシャのソフトパックの中から一本取り出して口に咥える。そしてライターに手をかけた時に“何かしら”の異変に気付いて身体の動きをピタリと止めた。動きを止めてでも、周囲の音に注意深く聞き耳を立てる必然性が生まれたのだ。
“ドゥユリメンバッ……ザッ……ザザッ……”
カーステレオのラジオチューナーはFMラジオに合わせたまま。アースウィンド&ファイアーの代表曲である「セプテンバー」が流れ始めたばかりなのだが、何故か今になって雑音が混ざっている事に気付いた。
「……ちょっ」
タバコに火をつける事も忘れ、口からポロリとタバコを落としながら、始まった電波障害らしき現象を捉えようと、音量のツマミを上げた。
“……ザザザ……けて……助けて……ここから……出して……”
シャツの首元から背中に氷でも入れられたかのように全身に電気的な寒気が走り、鳥肌が頭のてっぺんから足の先までびっしりと立つ感覚に襲われる藤巻。
「勘弁してくれよ……」
慌てて車のサイドミラー、車内のバックミラーを確認し、そして勇気を振り絞りながら直に振り返り、車の中と言う「ある種の恐怖空間」に異常が無い事を確認して安心しつつ、このFM放送を電波ジャックした声に一定の結論を出した。
ーー外国人女性じゃない。そして因縁は今も家にいると。
もう充分だとでも言いたげに力強くラジオチューナーの電源を切り、車のエンジンを切りつつ、改めてマルボロメンソールを咥えながら車外に出た。
「あの家に、一体何が眠ってるって言うんだ……」
カチンと電子ライターでタバコに火を点け、はやる気持ちを抑えながら先ずは一服。
全力疾走もウェイトトレーニングもしていないのに、破裂するのではと心配してしまう程に高まった心臓の鼓動を抑え、恐怖一色に染まった暗黒の脳裏をクリアにさせる。
二度三度とマルボロメンソールの強烈なハッカの香りで肺と喉と鼻腔を冷やしながら、藤巻は改めて一歩二歩と家屋へ近付いた。
当たり前の話、その家は闇に包まれ人の気配などまるで無く、道路から庭を挟んで見える屋内は、障子やカーテンすらかけられておらず丸見えのがらんどう。
……助けてくれと主張されても、何から何をどうやって助けてやれば良いものか……
“その時、藤巻は目があった”この表現が一番適しているであろう。
思案に暮れていた藤巻はその家の窓から屋内を覗いていたのだが、何気なく視線をほんの少しだけ下に移動させる。
彼にしてみれば、心霊現象など信じておらず、心霊体験なんぞしなけりゃ一生しなくて良いと思うタイプであったのだが、ちょっとした異変に気付いてしまう注意深い性格が災いしたのか、それともタバコを吸ってリラックスしていたからこそなのか。
月明かりすらも届かない真っ暗な軒下に、白い両腕を前に出してうつ伏せになっている女性と、バッチリ目が合ってしまったのだ。
「……あ、あんたか……」
思い切り仰け反りながらそう呟くと、軒下の女は一切口を開かず一切まばたきをしないまま、そのまま後ろに「ずずず」と引き下がり闇の中へと姿を消した。




