21 松田末松と田辺旭
松田末松は憮然とした顔付きでハンドルを握り続け、田辺旭は車酔いに耐えながらスペクトラムアナライザーの波形画面を凝視している。
不倫・浮気調査のほとんどが片付いた九月の始め、空いた業務時間を利用して松田と田辺には新たな業務命令が下った。藤巻探偵事務所が新たに始めた盗聴パトロールである。
盗聴の心配を抱くクライアントが依頼を持ち込むケースもあるのだが、街中や市街地に氾濫する電波の中から盗聴電波を探り出し、盗聴されている可能性のある被害者へ撤去と警察への通報を提案する、受け身型業務からの脱却を図れる仕事なのだ。
機器の取り扱いレクチャーと、依頼者が現れた場合の書類作成方法のレクチャーを受け、満面の笑みを浮かべた藤巻から送り出された松田・田辺ペアであったが、意気揚々と市街地パトロールに出掛けたものの、一日もたたずに表情は一転する。
“とにかく平和なのだ”
平日の昼間は市街地で繰り広げられるであろう、企業を狙った諜報合戦。夕方から深夜は住宅地で垣間見るであろうプライバシー暴きやストーカーの盗聴行為。
一週間に渡って長野市のありとあらゆる場所をゴロゴロと車で回り、日々のルート設定や巡回の時間帯を計画していた以上に欲張ってパトロールしても、何の収穫も無かったのである。
「田辺君、今日は弁当持参かね? 」
「いえ、当分の間は用意しない事にしました」
「まだ暑いからねえ。車に置いてると悪くなるかもな」
盗聴Gメン業務を始めて一週間経過した月曜日、長野駅前と長野県庁周辺をパトロールしていた松田と田辺の親子以上に歳の離れた探偵コンビは、長野の繁華街で昼食タイムを迎える事になり、松田は田辺に昼食の提案を持ちかける。
「どうかね? たまには“いむらや”で焼きそばでも食べるか」
「うわっ、いむらや懐かしいっすね。是非行きましょう」
二人が暖簾をくぐったのは「いむらや」と言う名の中華料理屋、安価でボリュームのある中華料理を提供し、古くから市民や学生たちから愛されて来た店である。
『あんかけ焼きそば』がイチオシメニューで、お菓子のようなパリパリ麺に甘めのあんをかけて提供されるのだが、まずボリュームが凄くて圧倒される満足の量。
そして全国的に五目あんかけ揚げ焼きそばと言えば、イカやエビなどの「五目」があんに入っているのだが、安価なシーフードが手に入らなかった昭和中期の長野では、代替品としてチャーシューと錦糸卵がトッピングされている。それを各テーブルにボトルで用意された真っ黄色の酢カラシをダバダバとかけていただくのである。
普段なら愛妻弁当を用意する田辺も、普段はコンビニおにぎり二個で済ます松田も、今日ばかりは景気付けにと、いむらやの焼きそば大盛りを腹に納め、午後への活力とした。
午後は予定を変更して未開拓ルートへ。焼きそばを食べながら二人で打ち合わせし直した結果、何ら異変の無かったエリアを再び周回するよりも、西長野方面の準山間地エリアにも団地が点在している事に着目したのである。
「俺が運転するから、田辺君は機械を頼むよ」
警察上がりながら、まるで威圧感を表に出さず、丁寧な言葉遣いと穏やかな表情で田辺に接する松田。本来ならば悠々自適な老後を妻と過ごそうと思っていたのだが、娘の子供つまり孫が産まれた事で人生の方針を転換。稼いだ金は全て孫につぎ込む決意を持って、藤巻探偵事務所の門をくぐっていた。
メカが苦手だとは決して言わないものの、刑事特有の嗅覚の鋭さを活かして睨みを利かす松田。モニターを見ながら大盛りを食べなければ良かったと後悔している田辺を後部座席に、国道19号線沿いにある団地の入り口へとハンドルを切った。
国道19号線とは、長野市中心街にある長野県庁の南から、長野市の南西側に伸びて、長野県の中部にある松本市に繋がる国道である。
車の利便性が良いと言う理由で長野市郊外に向かって団地が点在しており、松田と田辺はそこを狙おうと、アパート六棟と平家の借家がズラリと並ぶ団地内の道路で徐行を始めてモニターに注視する。
アパート一号棟前を通過……電波状況異常無し
アパート二号棟前を通過……電波状況異常無し
二号棟の裏に回り、四号棟を通過……電波状況異常無し
アパート三号棟前を通過……電波状況異常無し
車を切り返して三号棟の裏に回り、五号棟と六号棟の前を通過しようとした時だった。いきなり田辺が叫び、松田は驚いて天井に頭をぶつける勢いで身体を震わせる。
「松田さん、反応ある! あります! ワイヤレスマイクの周波帯だから間違いなく盗聴です! 」
「来たか! このままアパートの前を通過するよ。異変があったら教えて」
松田は車のアクセルを更に緩め、二人を乗せたワンボックス車は徒歩で追い抜けるまでに減速する。
「松田さん、電波切れました。このアパートが邪魔してるんじゃないですかね? 」
「そうか、ならば切り返してアパートの裏に回ろう」
アパート六棟の裏に広がるのは、三つの市道に沿って建てられた平家の戸建てがズラリと並んでいる。
田辺はハンディタイプのアンテナを持ち、盗聴電波の方向を探りながら、松田に進め・止まれ・ちょいバック・隣の路線へと目まぐるしく指示を出す。
自分の娘よりも歳下の若造に指示を出されても、仕事上の役割分担だと割り切って承知しているのか、松田は嫌な顔を一切見せずに「了解」「了解した」と田辺に素直に従っている。
“……ザッ……ザザッ……けて……”
「声が入ったね! 」
「この通りのどれかです! 」
“……たす……ここから……私……して……”
盗聴電波が発信されている場所がいよいよ近くなって来たのか、雑音に紛れて明確な声も入って来る。これは間違いなく女性の声だ。
“……助けて……ここから私を出して……”
ここで松田は違和感に包まれる。
盗聴とは、その人の私生活を勝手に暴こうとする行為であり、盗聴器の前で生活する人々には、盗聴器の存在は気付かれていないはず。
【なのに何故、この女性は盗聴器に向かって助けを求めて来るのか? 】
だが、田辺がこの家ですと松田目の前で指差し、車を止めてその平家の玄関にたどり着くと、二人は驚愕しながら背中にどっぷりと冷たい汗をかく。
理解不能の恐怖が二人を包み、盗聴電波の発信先を突き詰めたから、だからどうすれば良いのかと言う考えが一切真っ白になって脳裏から飛んでしまったからだ。
『入居者募集中』
玄関のドアにはこの文言と不動産屋の連絡先が書かれたプレートが貼り付けられており、中は無人だったのである。




