20 藤巻探偵事務所
八月も終わりに近付く頃、関東圏のテレビ放送では相変わらず熱帯夜の話題がニュースで報道されているが、標高四百メートルを越える長野市に住む者たちに、そのニュースは身近な話題として捉えられてはいない。
日中はカラッと暑いが夜になった途端、上空で冷やされた空気が山の斜面をすべり台代わりに街をふわっと包む「お腹を壊す涼しい夜」。……この時期が訪れた以上、記録的真夏日と熱帯夜を連日報道する東京キー局には、なるほど首都は大変ですねえと、桜の開花ニュース程度の冷たい反応しか無くなるのである。
日曜日の笑点を見終わり、明日から仕事かとため息を吐いて鬱を満喫していた人々が、いよいよ眠りから覚めて仕事に赴く準備と覚悟を決めた時間帯。藤巻博昭は愛車のポンコツワーゲンゴルフを牛丼屋の駐車場へと停めて店内へと入って行く。
「いらっさまっせ」
定型文すら口にする気も無さそうな氷の様に冷たい店員の挨拶を無視してカウンター席に座った藤巻は、既に注文するものは決まっているかの様に、一切メニューには目もくれないまま店員に向かって「牛丼特盛りツユ抜きと味噌汁と玉子」を注文した。
周りのカウンター席やボックス席をチラリと見回すと、作業服を着た者やワイシャツ革靴姿の男性たちが、朝定食や玉子かけご飯を前に、納豆や生卵をシャカシャカとしゃかりきになってかき回している。
“よし! この時間帯に牛丼を頼んだのは俺だけだ”
あっという間に置かれた牛丼特盛りのツユ抜きと味噌汁を前に、得意満面の笑みを浮かべながら生卵を牛丼にかける準備を始めた。
ーー他人には理解出来ないこだわりがあるーー
誰もが一つや二つ、そう言うものを心に秘めて日々を生きているのであろうが、へそ曲がりで決して世の中に迎合しない藤巻は、まさに“面倒臭い”こだわりの塊である。
まず一つ目のこだわりと言えばこれ。『牛丼屋に行ったら牛丼を食う』
店の看板に掲げてあるものを食べると言う主旨の元、朝だろうが夜だろうが他のメニューは一切頼まずに牛丼だけを選んで食べると言う偏屈さ。だから藤巻の周囲で朝定食なんぞ頼んで食べてる者などいれば、可笑しくて可笑しくてしょうがないのである。
玉子かけご飯など自宅で米を炊けば食べれるだろう、健康に気を付けているなら朝定食など頼まず自炊すれば良いだろう……あの口元に浮かぶ笑みはそう言う笑み、勝利のスマイルなのだ。
そして二つ目のこだわりがこれ、『つゆだくは負け』
つゆがたっぷりかかった牛丼は箸でご飯をすくう事が全くもって困難であり、スプーンで食べざるを得ない。スプーンで食べる丼ものなど丼ものでは無いと言う観念から、まず論外。
更に大量のつゆが熱々のご飯の温度を下げる事から、溶き卵をかけてもドロドロのまま。フワトロではなく鼻水と公言するほどに生卵を嫌う藤巻には食べ物として認識されていないのである。
だからツユ抜きを頼み、白米の甘さを噛み締めながら、程よく熱の通った玉子が絡む牛丼をかき込む事が、牛丼屋に入った時の藤巻のこだわり。江森美央には既に語ってウンザリさせてある彼だけの正義であった。
まるで早食いバトルのように牛丼をかき込んで支払いを済ませて店外へ。乗り込んだポンコツのワーゲンゴルフは北長野駅方面へと向かう。
JR長野駅から新潟県上越市へと向かう信越線は近年第三セクターへと払い下げられ、「しなの鉄道」が管理する路線となっており、北長野駅とは長野駅始発の電車で一つ目に停車する駅である。
市街地に近く住宅地が広がる地域であり、平成の駅前再開発でアパートやマンションも並び立つその一角、駅前商業施設の立体駐車場の隣に、『藤巻探偵事務所』と看板が掲げられた、こじんまりとした事務所があった。
時刻は八時に差し掛かろうとする頃、事務所前の駐車場にワーゲンゴルフが停まると、車から降りた藤巻は一度真っ青な空を見上げ、今日も暑くなりそうだと苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて事務所へと入って行く。
「おはようございます! 」
おはようと言って入って来た藤巻に対し、誰よりも元気な声で挨拶したのは今年入社したばかりの新人、田辺 旭 二十四歳。高卒後は建設業界に身を置いていたのだが、幼い頃に夢見た探偵業を諦められず、今年になって転職した肉体派の若者だ。
そして田辺と重なる様に事務服を着た人工的黒髪の眼鏡美女である池田祥子が挨拶し、最後は短く刈った白髪頭の壮年男性、松田末松が渋くて低い声を事務所に轟かせた。
松田末松は現在六十一歳、長野県警長野中央警察署の生活安全部少年課を長らく務めた後に定年退職し、藤巻探偵事務所で第二の人生を始めた「元刑事」である。
元ヤン池田祥子のルートを通じて再就職したと言う噂もまことしやかに流れてはいるのだが、当の本人たちはそれについて言及する事は無く、松田末松がヤンチャな少年少女たちから「デカ松さん」と呼ばれ怖れられていた事すらも、雇用者である藤巻からして知らぬ存ぜぬを貫いていた。
「さて、今週の打ち合わせを始めましょうか」
週明け月曜日の朝、池田祥子が淹れてくれたインスタントコーヒーを全員ですすりながら、朝礼も兼ねた打ち合わせが始まる。
今年の春先から夏に向かって抱えていた案件のそのほとんどが終了したため、不倫・浮気調査は残すところ三件になっている事。そして気持ちが開放的になる夏も終わりに近付くため、出会いと別れの秋本番がやって来るまでは新規調査依頼の件数も飛び抜けて増えない事を予測していると説明しつつ、藤巻は一旦間を置きながら社員に向かってこう公言した。
「いよいよ、当社も盗聴Gメンを始めます。受け身型の受注システムを、この盗聴調査によって能動的な受注システムへとシフトしましょう」
先月の七月末、ボーナス支給の朝礼をした際に、新事業である盗聴調査を始めるとは宣言していたが、その機材がいよいよ整ったのか、藤巻は本日スタートを社員に伝えたのである。
「電気計測器スペクトラムアナライザーを購入しました、そして広帯域受信機も購入しました。これで市販の盗聴検知機を遥かに超える能力を、我が社は手にした事になるのです。VHF帯及びUHF帯全てを網羅し、その能力を極限まで活かして、長野から盗聴を撲滅します! 」
新たな事業を展開する事で希望に胸を膨らませているのか、それとも会社の経費で最新機器を購入したのだがそもそも機械装置マニアで最新機器を間近に見る事が幸せなのか……。
週明けの朝気だるそうに「おお〜」と義理で歓声を上げながら話を聞く社員たちを前に、最新機器の性能を語り尽くしたいのか、藤巻は終始ひどくご機嫌であった。




