19 損して損する人
〜良かれと思って〜
ヨカーレット・スハンソン
上半身裸の美少年同士が目をキラキラさせながら見つめ合う、誰がどう見ても背徳感がたっぷりと込められたイラストの表紙に添えられた作品のタイトル。
そのタイトルの横に小さく作者の名前としてペン入れされたのがその名前なのだが、どうやら海外の人気女性シンガーの名前をもじった作者名をやめて、海外の人気女優シリーズをもじり、極力奈津子にバレないように作品販売を行う腹積もりらしい。
八月第一週の日曜日深夜。
また明日から仕事だよと嘆く社会人は、怨嗟の声を上げながら早々に寝床についたのだが、夏休みを満喫する大学生の美央は、まだ寝るのがもったいないとばかりに机に向かい、勉強すると見せかけてマンガの原稿用紙を広げて画材を置いた。
「ふひひひ。さてと、今日も始めますか」
ノートパソコンの電源を入れて動画サイトのページを開き、「アニソンOP神曲メドレー」をBGM代わりに流しつつ、ココアのホット牛乳割りをちびりちびり。いざ小腹が空いた時のためにととっておいたカップ焼きそばも準備万端であとはページを進めるだけーーなのだが、何故か今日は筆が進まない。
奈津子も無事退院してギプスがかゆいと訴えつつ自宅で王様気分を満喫しているのを確認したし、お地蔵さんもピカピカにしてお供え物を捧げてお祈りした事から人間への悪意も和らぐはず。更に同人マンガ製作にあたっては作者名を変えた事で奈津子が探し出す事も難しいはず。
今の江森美央には抱える不安要素は全く、二次創作ではなくオリジナルの新作にどんどんと筆がスピードアップして行くはずなのだが……何故だか今日は進まない。
下書きは出来ているので、後はペン入れをして、ベタ塗りとトーン貼りなど、やるべき事は明確に見えているのだが、全くペン入れをする気が起きないのだ。
作業しようと思って道具一式を広げ、そして気分が乗らずに手を付けられない現状。スランプに陥った事など星の数ほど経験しているので、それ自体はごくありふれた生活の一部なのかも知れないが、今までのスランプと全く違う事を美央は早々に自覚していた。
ーー不思議な事に全くイライラしないのだーー
椅子に思いっきりもたれて天井を眺めても
ベッドに横たわってぼんやりパソコンの動画を眺めても
レディースコミックをペラペラめくりながらスナック菓子をポリポリ食べても
当たり前の話作業は全く進まないのだが、それに対して全く負の感情は芽生えては来ずに、まったりとした時間だけが過ぎているのである。
その理由はただ一つ、藤巻博昭の過去を垣間見た事。
お地蔵さんを復活させた後に、コーヒータイムで池田祥子と冷たいドリンク飲んでいた時に、それまではどんなに問われても固く口を閉ざしていた祥子が、美央に語ってくれたのだ。ーー少年時代の藤巻博昭を
「私ね、昔から世の中には三種類の人間がいると思って生きて来た」
こう切り出した池田祥子は、自分のポリシーを絡ませながら藤巻博昭に関して一番古く、そして一番鮮烈だった彼の思い出話しを語り出した。
「一つは楽して損する人。調子こいたり適当な事言って切り抜けたり、ゴマスリやってその場を切り抜けた積もりでも、信用や人望をどんどん失って行って、結果誰からも相手にされないタイプの事ね」
ーーそして損して楽する人。誰もが遊んでいる時に努力し、そしてその努力を持って自分の花を咲かせるタイプ。そして最後の三種類目のタイプが一番重要なんだけど、楽して楽する事なんか世の中絶対に有り得ないのにその逆はあり得る……つまり『損して損する人』、それが藤巻博昭なのよね。
これを枕言葉に、祥子は彼のエピソードを語り出す。
それは祥子と藤巻が地元の中学に通っている時の事。祥子は中二で藤巻が中一だった秋の出来事だ。
ーー藤巻のクラスに転校生がやって来た。東京からやって来たその少女は、田舎の少年少女から熱い目で注目されたそうなのだが、ほどなくして誰からも相手にされなくなったそうだ。
シングルマザー家庭で夜の商売をしていると言う噂もまことしやかに流れ始め、都会を知る人間・都会派の人間として憧れを持って彼女に近付いていた生徒たちが、彼女を「不遇な環境下にある美少女」「ホステスの娘」と見始めて、好奇心や陰口の話題のネタにされてしまったのである。
彼女の家庭環境についての話など、口数が少なくて暗い雰囲気を持つ彼女自身は当たり前の話クラスの生徒たちに語る事は無い。教師側がリークしたのではと今では疑っているが、もはやそれを確認する事も出来ない。
ーー自分たちの好奇心を満足させてくれない。みんなでもっと楽しく陰口を叩くなら、もっと激しく踊ってもらわなければ困る。
その結果、転校生の少女は一ヶ月も経たない内に、クラスの生徒たちからイジメを受けるようになった。
そして元々藤巻博昭はヤンキーでも不良でもない。だからといって成績優秀者でもなく、スポーツマンでもない帰宅専門の謎多き生徒である。
教室でも休み時間に友人たちと談笑する訳でもなく、ハードカバーや文庫本を読んで過ごす、どちらかと言えば「暗い」と分類される生徒であった。
ただ不思議なのは、クラスの生徒たちが藤巻博昭をイジメの対象にしなかった事。何かしら彼の持つ雰囲気がそうしたのか、藤巻がイジメに遭っているとは一度も中学校の中で広まらないほどに、つまりは透明な存在であったのだ。
いよいよ紅葉も終わり、収穫を終えた田んぼに霜柱がびっしりと生えて白い絨毯が出来上がる頃、中学校に大事件が起きる。ーー転校生の少女と藤巻博昭を巻き込んだ大事件だ。
その日もいつもの様に、転校生の少女はイジメられていた。
授業中や休み時間に背後から紙くずを投げられたり、ワザと本人に聞こえる様に彼女の名前を出しながらクスクスと談笑したり、彼女がトイレに入るとワザと扉を蹴飛ばして笑うなど、おおよそ人とは思えない非道の数々が朝から行われていたのだが、昼休みの時間にそれは起きた。
本日は給食ではなく持参弁当の日なのだが、誰とも席を合わさずに無人島の様に孤立した机で独り弁当を食べる少女に向かい、その弁当が臭いだの汚いだのとクラスの女子生徒たちが下卑た笑みを浮かべて騒ぎ始めたのである。
弁当を隠すかの様に腕で覆い、急いで食べる少女。チラリと見える弁当には、ご飯と卵焼きとほうれん草の煮浸しが入っているように見えるが、女手一つで少女を育てる母親が、短い時間で精一杯で用意したものに間違いない。
だがそこまで想像の羽を伸ばす事の出来ない生徒たちはワザと鼻をつまんだり、苦々しい顔をして臭いぞ! と叫んだり、少女の名前を口にしながらギャハハと笑ってみたりと……少女にとってそのクラスはまさに、地獄のような様相を呈していた。
ドガァンッ! とその時、窓際の後ろの方で巨大な衝撃音が轟き、驚いた生徒たちが身体をすくませながら振り返ると、何とそこには藤巻博昭が立ち上がって自分の机を無造作に蹴っ飛ばした光景が広がっているではないか。
「臭いだの何だのと……お前らアレだな、ウジ虫だな。いつまでも恥ずかしい事やってんじゃねえよ」
後々池田祥子が本人に確認したところ、その日の藤巻の弁当は、昨日の晩御飯に出たカツレツの残りを使った卵とじのカツ丼だったのだそうだ。ご機嫌な昼のひと時をイジメで空気を悪くされたので、一気に頭に血が昇ったらしい。
静まり返る教室の中、藤巻に噛み付く者が席を立つ。池田祥子の子分を気取る、アウトサイダーを気取る男子生徒だ。
「お前ウゼェよ、何正義のヒーロー面してんだよ、アアン! 」
「俺がそう見えるって事は、それだけお前が穢れてる証拠だよ」
藤巻の返しが癇に障ったのか、顔を真っ赤にして藤巻に掴みかかる男子生徒。普段から「このクラスを締めてる顔役」を気取っている以上、尻尾を巻いて逃げる訳にはいかないのだ。
「俺の前で二度と生意気な態度を取らせないようにしてやる! 」
藤巻の学生服の襟首を掴み、右の拳で腹をドスンと一発殴り、藤巻はその痛みと苦しみで背中を丸める。ここまではこのプチヤンキー生徒の描いたシナリオ通りだった、その証拠にイジメに参加していた生徒たちもヤンヤヤンヤと背中に歓声を浴びせる。
後々池田祥子が本人に確認したところ、ちょうどみぞおちに拳が入り、藤巻は結構苦しかったのだそうだ。だかそれ以上に胃の中に収まったご機嫌なカツ丼弁当が逆流しそうな勢いになり、せっかくのカツ丼が勿体無い! 次にやられる前に敵を沈黙させなければならない! と、藤巻の闘争モードにスイッチが入ったそうなのだ。
このプチヤンキーがもう一発藤巻の腹に拳を叩き込もうとして掴んでいる襟首を持ち上げると、藤巻と目が合ってギョッとする。藤巻の目には敗北の色が浮かんで怯えるどころか、今にもこのプチヤンキーを嚙み殺そうとする、狂犬の目付きであったのだ。
ゴチン!
……一発で勝負は決まった。体制を整えた藤巻は渾身の頭突きをプチヤンキーの顔面に炸裂させ、プチヤンキーは鼻と口からダラダラと血を滴らせながら、盛大に床へと沈んだのである。
プチヤンキー気絶後にクラスは騒然となり、呼ばれて飛んで来た担任教師が沈静化を図る中、プチヤンキーは保健室に運ばれた後に救急搬送された。鼻骨骨折と上顎亀裂骨折そして前歯二本欠損の大怪我だったそうだ。
「先に手を出したのはプチヤンキー、応戦した藤巻は過剰防衛」
単なるケンカとして場を収めようとした担任教師は、藤巻の思わぬ逆襲に遭う。この狂犬は教師に向かって牙を向けたのだ。ーープチヤンキー撃沈など伝説にもならない些細な話、藤巻が伝説になったのはここからだ。
「転校生が前からイジメられてたの、アンタだって知ってただろ! 授業中に紙くず投げ付けられたの見てアンタも笑ってたよなあ! 俺がコイツらにさっき止めろと言ったんだ、その逆恨みで殴られたからやり返しただけだ。ケンカだと? 寝ぼけた事言ってんじゃねえぞ、このクソババア! 脳みそ腐ってんのか! 」
鼻白む担任教師、だが周りの生徒の目もあるので藤巻に屈する訳にもいかない。生徒指導室に移動しなさいと悲鳴を上げ続ける。
やがてプチヤンキーを保健室に担いで運んだ体育教師も戻って来て、その巨躯を持って藤巻を無理矢理にでも連れ出そうとするが、藤巻はこの中年女性の担任教師に対し、罵声を浴びせる事を一切やめようとしない。
「アンタ、この子が休んだ日にホッとしたとかくだらない冗談飛ばしてたよな! 哀れな母子家庭だから余計に気を使うとかぬかしてたよな! 」
「やめなさい、そこまでにしなさい藤巻君! 」
「世の中勝者と敗者がいて、イジメの被害者にはイジメられる理由があるって言ってたよな! 無えよそんなもん! 頭にウジでも湧いてんのか! 」
今度は屈強な体育教師が藤巻の襟首を掴み、強引に教室から引っ張り出そうとする。さすがにマッチョマンと力比べをするだけの能力は藤巻には無い。
地面に倒れそのまま床を引っ張られながらも、藤巻は担任教師を睨み、指差しながら
「アンタの臭い理屈で言えば、殺人の被害者には殺される理由があるって事だよな、ふざけんなよ! いいか、お前の車ボッコボコにしてやる! 車をボコボコにされる側にもされる原因があるんだよな! な! 覚悟しとけよ! 」
と、床から廊下をズルズル引きずられて、藤巻は消えて行った。
この藤巻が起こした騒動で感じ入るところがあったのか、転校生の少女はイジメの苦悩を自分の中だけに留める事をやめて母親に相談。母親は学校に解決を求めて奔走するも、年が明けた三学期の終わりにまた引っ越して行った。
そして担任教師は事件後すぐに病気療養の名目で休職、副担任が担任に昇格し、二度とクラスに戻って来る事はなかった。
ーーその後、藤巻博昭は再び平々凡々と我が道を過ごすのだが、ここで池田祥子の話は終わるーー
土地の名士である池田家の一人娘で、ヤンチャに目覚めて中学時代から名前を轟かした祥子。
子分であるプチヤンキーの落とし前をつけようとして藤巻に決闘を申し込んだ事、そしてその結果祥子が藤巻を認め、本人は全く気付いていないが彼の後見人として、周囲の生徒に対して藤巻にイジメやちょっかいを出す事を禁じた事などは、一切美央には話していない。
平々凡々を装いながら、イジメの被害者を心配していた……そんな藤巻伝説の片鱗を語れれば、それで良かったのだ。
そして、池田祥子は締めくくりに言う
「楽して損する人、損して楽する人、損して損する人……藤巻博昭は多分、法よりも狭く、社会常識よりも厳しい自分のルールを持っている。だから損して損する人、私はそう思ったの。そう言う人は世の中貴重だから、誰かが守ってあげないとね」
峰不二子のような色気漂うウインクを黒眼鏡越しに放った祥子。誰かが守ってあげないとねと言う言葉は果たして、自分自身に言い聞かせた言葉なのか、それとも美央に向かって放った言葉なのか、その答えは未だに出ていない。
「……損して損する人かぁ……」
いつの間にかノートパソコンから流れていたアニソンメドレーも終わり、動画はアニソンED神曲メドレーにチャンネルが変わり、オープニング曲とはうって変わった静かで落ち着いた曲が流れ始めている。
ーーお地蔵さんも磨いたし、祥子さんからは興味深い昔話を聞かせて貰った。更に奈津子も元気に退院したから、それだけで今日は満足して「欲」が無くなっちゃったのかな?
もう寝るか……と、奈津子と一緒にびんずる祭りに行けなかった分、どこか二人で浴衣を着て出掛けられる場所はないかと思案しながら、眠りに着く用意を始めた美央であった。
◆ 元ヤン事務員の心霊事件簿 ローラー作戦編 --終わり




