18 弟子 江森美央
一晩限りの夏の饗宴も終わり、何事も無かったかの様に静かに始まった田舎の日曜日。朝の天気予報では本日も記録的真夏日を更新しつつ、夜もまた記録的熱帯夜を更新すると伝えている。
既に蝉はジンジンと至るところで自己主張を始め、隣家の網戸越しに高校野球甲子園大会のプレイボールのサイレンが聴こえて来る時間帯に、江森美央は自宅を離れて長野市の北部団地に来ていた。
県道荒瀬原線と東西バイパスが重なる交差点よりも三百メートルほど南側。
県道交差点から上り線の左を見つつ、全国チェーンの百円ショプ、全国チェーンの古本売買ストア、全国チェーンの釣具屋、全国チェーンの居酒屋と並んだ先に小さな交差点と橋がある。
県道の下をくぐる様に西から東の千曲川(信濃川)に流れる「浅川」が流れているのだが、その浅川を渡る短い短い橋のたもとに美央は立ち、土手にちょこんと置いてある小さな石仏を眺めていた。
標高の高い長野市において、雲一つ無い真夏の太陽光はまるで手に取る様に近く、写真にしか映らない光条や光芒をも周りにまとわせて輝き、空を正視出来ないほどに眩しい。
お洒落や化粧に敏感な年頃であるはずの美央は、日焼けの恐れなど御構い無しに、コーヒータイムの駐車場にスクーターを止めて、高校時代の体操服に麦藁帽子と言ういでたちでこの場に赴いていた。
彼女が何かの想いを抱きながら凝視しているのは石仏、つまりはお地蔵さん。
長年誰も手入れをして来なかったのか、台座が見えないほどに雑草が生い茂り、地蔵全体が苔むして表情すら分からないほど。
美央は土手を降り、地蔵の前で一度手を合わせ、持参して来たマジソンスクエアガーデンのペラペラしたバックの中から軍手を取り出して、地蔵の周りの雑草をむしり始めた。
ーー江森美央は、奈津子が遭遇した『白い影事件』について、昨晩の体験を持ってこの地蔵に原因があると判断した。池田祥子と愉快な後輩たちと一緒にローラー作戦を行なっていたら、「それ」に遭遇したのである。
探索チームは下り線と上り線の歩道、更に交差点を起点として北側方面と南側方面に四分割し、美央は祥子と二人組になって上り線の南側方面を探索した。
歩道に何かお供え物があるか、歩道を越えて民地に何か因縁を感じる物があるかと、懐中電灯で照らしながら歩いていると、美央たちはちょうど浅川のたもと、ちょうどこのお地蔵さんがある場所にたどり着いた時の事。
アスファルト道路の放射熱を遮る様に、浅川の上流から流れて来た涼しげな風が美央たちの頬を撫でると、それと時を同じくして、お地蔵さんの脇の暗闇に、ボウッと白い影が現れたのである。
「ひぃっ! 」
小さな悲鳴は祥子のもの。初めて見る怪異に動転して美央の腕に掴まるが、不思議な事に美央は感情を押し殺しているのか、それともこの心霊現象にたどり着いたチャンスを生かそうとしたのか、微動だにせずに白い影を凝視する。
「怒気を……感じますね」
暗闇に浮き上がる白い影は確かに奈津子が話した通り男性の顔をしていた。そして、つのだじろうが手掛けた心霊漫画「恐怖新聞」に登場する死神……ポルターガイストの様にユラユラと揺れながら漂い、美央たちに対してこれ以上無いほどの怨嗟の表情を向けている。
“……人間め! ……”
祥子がその声を聞いたかどうかは定かではないのだが、確かに美央には聞こえた。
だが不思議なのだーー美央にぶつかって来る声が「一色」ではないのだ。
昼間のうだる様な暑さがそのまま残る夜に、浅川の涼しげな風と共に、ヒリヒリとした悪意が肌に伝わって来る。背中にびっしょりと流した汗は、間違いなくこの凍り付くような張り詰めた空気による冷や汗だ。
“……おのれ人間!……”
“……ニンゲンめ! ……”
“……我が恨み晴らさでおくべきか! ……”
“……痛い、痛いよう!……”
まるで会議中に独り立たされた美央に対し、よってたかって罵声を浴びせる経営陣の様に、おどろおどろしい恨みの声は様々な方向から美央の耳に飛び込んで来る。
ーー何故私がそこまで言われなければならないのか? ーー
言い訳も許されず、訳がわからないまま一方的に罵られ続ける美央だが、彼女は彼女なりに気付いた事がある。あくまでも美央が肌で感じた範囲の事であり証拠も何も無いのだが、それでも美央の直感が脳裏に囁く。
ーー白い影は人間の霊ではないーー
何かこう……人間よりももっと小さな生き物で、人間に対して抱いた怒りも悲しみもぶつける事が叶わなかった存在たちの成れの果て。ーー美央にはそう感じられたのだ。
「ごめんなさい……ごめんね」
自分でも意図していなかったのに、ついつい口から言葉が出てしまった。相手の溜飲を下げようと図って意図した選んだ言葉ではない。ふと口から出てしまった自然で率直な言葉だ。それはまるで生まれてこのかた飼った事も無いペットに対し、頭を撫でながら自分の不備を詫びる様な感覚でだ。
「ねえ、美央ちゃん。……どうしたの? 何が起きているの? 」
美央にぶつかるこの無数の声が、一方の祥子には届いていないのか、美央の異変をただそうと掴んだ腕を揺らして慌てているのだが、美央は白い影いや、白い影となって姿を現した無数の小さな怒りとどう向き合うか真剣に考察を繰り返している。
この浅川は昭和の初め頃までは“暴れ川”だったと聞く。そうであるならば、この小さな意志たちは水難に遭って命を落としたのだろうか?
いや違う、人の手によって川が整備されたならば、川の危険な氾濫は減ったはずであり、人間が恨まれる事は無い。逆に感謝されてもおかしくはない。
ならば、別の要因があるはず。ーー県道を往来する人間に強い怒りをぶつけて来るならば、それはやはり交通事故で散った命なのかも。
そう感じた美央は再び声をかける、彼女なりに誠意を込めた精一杯の言葉を。
「……大した事は出来ないけど、あなたたちがいた事は忘れない。だからもう怒らないで」
暗闇にユラユラと漂っていた白い影の動きが止まる。憤怒だったり悲哀だったりと、表情を巧みに変えていたのだが、美央の言葉に反応したのである。
“……ニンゲンめ……”
声のトーンは落ちた、間違いなく落ちた。
美央を呪うべき存在ではないと悟ってなお、怒りのやり場に当惑するような、振り上げた拳をどう納めようかと思案する憮然とした声。
だがやがて、その白い影は敵意を収める。やるせなくはあるが一定の理解を示したかの様に、後ろ髪を引かれるような躊躇を見せつつ、白い影は散り散りにって草むらにある石仏の周囲へと移動し、霧散してしまったのである。
何事も無かったかのような熱帯夜が再び始まり、その場に呆然と立ち尽くす二人。
やがて異変を感じたロックンローラーたちが集まって来る事で、身近な場所で体験した不思議な時間は終わった。
昨晩に起きた怪現象を思い出しながら草むしりを続ける美央。
それが終わると今度は用意して来たペットボトルの水を地蔵にかけてやり、タワシでゴシゴシと擦って苔や汚れを落としてやる。
元々心霊体験や心霊現象など結論が出なくて当たり前の事。要因や原因が分かりそれを排除する事で今後同じ現象が起きなければ良い。
ただ、未だ要因も原因も突き詰めるところまでには至ってはいないが、それをする事で変化が訪れて欲しいと願う美央は、ピカピカに磨き上げた地蔵の前に先程買っておいた大福もちとコーヒー牛乳をお供えし、ゆっくり頭を垂れて手を合わせた。
「あっ、美央ちゃん来てたんだ。一足遅かったね」
自分が納得するだけの時間を費やして祈りを捧げ、感慨深げに立ち上がった時、橋のたもとから祥子の声がする。
見れば祥子も汚れても良い格好をしており、足元には愛犬のジャガーが美央を見詰めてピコピコ尻尾を振っていた。
「ジャガーの散歩がてらと思ったら、もう綺麗になってるね。美央ちゃんご苦労さま」
「いえいえ、じっとしてられなくて来ちゃいました」
「お供え物も用意したのね。それならお線香だけ上げさせて」
祥子も一式用意して来たらしいのだが、美央を尊重して線香だけ焚いて手を合わせる。
「ねえ美央ちゃん、このお地蔵さんが原因だと思う? 」
「いえ、お地蔵さんじゃないと思うのですが、無駄じゃないと思ってます」
全てを終わらせた帰り道、スクーターを置いたままのコーヒータイムに戻る途中、祥子は美央の考察をうかがう。昨日の今日で美央も多くは語らなかったのだが、ホッとした今ならと全てを語り出したのだ。
白い影の正体は、無数の動物霊の集合体ではないか? この県道荒瀬原線で人間の乗る車と衝突して命を絶ったキツネやタヌキ、野良猫や野良犬の霊が“人間憎し”で集合した存在なのではないか。
だから県道を往来する車やバイクに悪さをしていたのだが、いかんせん人間が持つドス黒い呪いまでの力を持つ事が出来ずに、死亡事故を引き起こすまでには至らなかったのではないだろうか。
そして、この道沿いにある唯一の「仏」にもすがろうとしたのだが、その仏自体も人間に忘れられており、仏の力を成せないまま動物たちの霊も彷徨い続けていた。
だからお地蔵さんをあらためて磨き上げて、行き場のない小さな魂たちの拠り所になれば、いずれは成仏して人間に危害を加える事は無くなるのではと考えた。
「美央ちゃん……大したものね。私なんか幽霊キタコレ! って騒いだ程度なのに」
「霊感なんて無いのですが、筋道を立てて考えたらこうなっただけですよ」
「さすがヒロくん……ゲフンゲフン! さすが藤巻探偵のお弟子さんですなあ」
「あっ、それ聞こうと思ってたんです! 何で私がそんな風に言われてるんですか? 」
美央に詰め寄られた祥子、はて? と一瞬呆けた後に、なるほどこの子は自覚が無かったのかとやんわり微笑む。
「奈津子ちゃんのお見舞いに行ったでしょ? それで幽霊の話を聞いたその日の内に社長のところに連絡したのよ。社長行き着けの店の関係者が事故に巻き込まれて入院したって」
「なるほど、だから事故地点をマッピングして……」
「ふふ、そういう事よ。幽霊の謎も話したら、俺の弟子がいるから助けてやってくれって」
人に認められると言う事は、嬉しいものである。
鋭い考察と多彩な視点で事象を丸裸にする藤巻の弟子と言われれば、美央も浮き足立つほどに嬉しいのだが、同時に浮いた足を引っ張り下ろす別の感情も生まれて来る。
“えっ、えっ? 私って将来……屁理屈ばっか言ってる大人になっちゃうの? ”ーーと、これがそうだ。
だが、彼女の当惑を察したのか「あはは! 弟子だからって、性格まで似る事は無いでしょうよ」と、豪快に笑い飛ばしバンバンと美央の背を叩く。
「美央ちゃん今日バイトじゃないんでしょ? じゃったらコーヒータイムで冷たいものでも飲んでこうよ! 」
「じゃあ」と「だったら」を混同するほどにご機嫌なのねと口元に苦笑を浮かべながら応じる美央。
パッツンパッツンのジャージ姿でエロティシズム全開の祥子が店に行けば、多分マスターは余計な心配をして言葉を選びながら「こ、コスプレ似合ってるね」とよそよそしいお世辞を言うのではないかと、今さらながらに心配していた。




