14 池田祥子
八月の第一週、お盆休みまであと僅かに迫ったこの時期に気持ちが緩むのはしょうがないとして、周りを全て山に囲まれた善光寺盆地に住む長野市民には、気持ちが緩みながら更に浮き足立つイベントが待っている。
『長野びんずる』がそれで、長野市のランドマークとも言える善光寺に祀られており、病気や怪我を直す「おびんずるさん」ーー釈迦の弟子で十六羅漢の筆頭「賓頭盧・びんずる」に感謝を捧げる祭りであり、地元企業や一般参加者がひたすら長野市中心街の大通りを踊りながら汗だくになって練り歩く、晩秋のえびす講大煙火大会と並んだ長野市民の一大イベントである。
その長野びんずるがいよいよ明日の八月第一土曜日に開催される……その前日の金曜夜。いわゆる花の金曜日の夜に、ここ長野市北部の巨体団地の一角にある喫茶店『コーヒータイム』では、唯一の客である成人女性のキリリとした声が響いている。
「あの社長にはもったいないくらいのお店よね。私が常連さんになっちゃおうかしら? 」
普段ならカウンターを挟んでマスターと真正面に向き合う特等席には、キング・オブ・常連の探偵、藤巻博昭が座り、バーボンの水割り片手に「カオストッピング牛丼の罪」や「カレーは飲み物と言ったら負け」などなど様々な難癖を付けては自論を展開させて、マスターやアルバイトの江森美央を時に笑わせ時にウンザリさせていたのだが、今日は違う。
世間一般的な夕飯時が終わって客のいない店内に、マスターお気に入りのジャズミュージックだけが時を刻む中、カランコロンとドアベルを鳴らして入店して来たのは、藤巻ではなくマスターや美央が顔と名前に心当たりのある女性。
ーーそう、藤巻探偵事務所の事務員を務め、先月にコーヒータイムで行った一夜限りのビアガーデン祭りを手伝ってくれた影の立役者、池田祥子その人であったのだ。
「こんばんは、今日はお客さんで来ましたよ」
そう言いながら笑顔で扉をくぐって来た池田祥子を、マスターも美央も最初は誰だか分からず一瞬ポカンとしたのには理由があった。
ビヤガーデン祭りの際は事務服にエプロン姿、そして長い黒髪を後ろにまとめた「出来る女」を醸し出し、その姿はマスターや美央の記憶に強烈に焼き付けられていたのだが、今日店にやって来た祥子は帰宅後のプライベートを利用して来店したのか、全くの普段着であったからだーーそれも強烈な個性の部屋着で。
元々茶髪……いや金髪に染めてたのを黒髪に戻したでしょ? と思えるような人工的な黒髪を、風呂上がりなのか若干濡れたまま肩甲骨の下まで無造作に垂らし、ハイビスカス柄のピンク色のジャージを履いて、同じ柄の薄手のヨットパーカーをTシャツの上から羽織る、なんともヤンチャな姿。
また近所から徒歩でやって来たのか金メッキが幾分剥がれたクロックスを素足で履いており、店の扉のガラス部分には、外から飼い犬らしき「パグ」が寂しそうに店内を見詰めていたのだ。
「あっ、あっ! 池田さんですね、その節は大変お世話になりました」
化粧を落とした肌が艶々の眼鏡美女だが、部屋着のまま犬の散歩中に店に寄ったヤンチャさんが、実は藤巻探偵事務所の「あの」事務員さんだったと、ようやくマスターと美央の脳内で一致すると、ただならぬ緊張感に包まれていた店内は一気にほぐれて行ったのである。
マスターの優しい配慮で、外の電灯に括り付けられていたパグの「ジャガー」も店内に入れてもらい、マスターと美央そして生ビール中ジョッキを楽しむ祥子と、三人による歓談が始まったのだが、前述のあのセリフは祥子の心からのセリフ。彼女も完全にコーヒータイムを気に入ったようだ。
「大歓迎です、毎日のように来てくださいよ」
過去に問題がありそうなこの才女を、美央は一目惚れと言っても過言ではないほどに気に入っていた。
ヤンチャな過去が想像され、この人武勇伝たくさん持ってるんだろうなあと言うワクワク感、そしてそれとは百八十度違う凛々しい今。……宝塚歌劇団の男役を見るような畏敬の念を抱いたのである。
「でも……社長が来ない日だけにしておくね。あの人のお気に入りの場所だから、奪っちゃったら可哀想」
祥子の話によれば、藤巻は今日から日曜日まで、草津温泉に出張しているとの事。
探偵が仕事で出張と言えば十中八九調査対象の追跡である。業務の詳細は話せないが不倫旅行を追跡しており、別に藤巻のチームが温泉に入って一息ついたり豪華な料理に舌鼓を打つ訳ではなく、ワンボックスの車内でパンをかじりながら、ただひたすらシャッターチャンスを狙うだけの苦痛な旅なのだそうだ。
「以前から藤巻さんが来店されてたのはご存知でした? 」
「ううん、知らなかったのよ。夜間の追跡調査を行う日は別として、八時五時の通常勤務が終わった日の夜も家にいなくて……どこ行ってるのか不思議だったわ」
「えっ? 夜いないって、池田さんはチェック入れてたんですか? 」
「祥子で良いわよ、祥子って呼んで。……ジャガーの散歩の時にね、散歩の途中で家の前通るのよ」
「あ、あはは……なるほどそうだったんですか」
「あ、あはは……そうよ、たまたま通っちゃうのよ」
何か、池田祥子が抱える巨大な闇を垣間見た気がして、緊急避難的に話題を変える必然性を感じた美央。
明日の「びんずる祭り」は友人の奈津子を連れて観覧するが、祥子はどうするのかと問う。すると祥子は後輩たちが勝手連(自由参加者チーム)で踊るが自分は参加せずに家でゴロゴロするとの答え。
次に仕事中の藤巻博昭はどんな人物なのかと問うと、たまにタバコを吸ってぼけっとしているが、仕事はチャキチャキこなす方だよと、性格はご存知の通りだと思うと答えた。
そこから何とか……前回上手く有耶無耶にされてしまった思春期の藤巻について聞き出そうとした時、いきなり電子音が店内に鳴り響く。
その音の根源は美央のスマートフォンであり、持ち主に着信を知らせて来たのだが、冷たい床に心地良く寝そべっていたジャガーがその音に驚いたのか、飛び起きながら「わふ!」「わふ! 」と唸り始めた。
「いやはや、驚かしてすみません」
元々友達が少なく、かかって来ても自宅の家族か奈津子だけと言う美央のスマートフォン。美央の両親に配慮したのか、マスターはアルバイト中でもサイレント設定にしなくて良いと、通話を認めていた。
美央が恐縮しながらポケットからスマートフォンを取り出すと、何故か奈津子の携帯番号ではなく奈津子の自宅番号からの着信。珍しいなと思いつつ業務用冷蔵庫の影に移って通話すると、彼女の顔から一瞬にして笑顔が消える。顔面蒼白と言うやつだ。
焦点も定まっていないのか、宙を泳ぐような視線にさすがのマスターも心配し、「どうかしたの? 」と声を掛けると、美央はガタガタと身体を震わせながらマスターたちにこう告げたのだ。
「奈津子のお母さんからで、奈津子が……事故に遭って病院に運ばれたって……」




