76.農園の街
湯に居る――
周囲はすべて水平線で、果たしてここが海の上なのかすら定かではない。パルテノン神殿の外側だけ真似たような建物に椿は居た。フロアの大半が湯船になっており、温い湯から薄い湯気が上がっている。
ここに居ると言うことは結局、死んでしまったのだろうか?
目の前には整った顔、またシェロブに膝枕をされているのかと思ったが、違う。この顔、なんとなく覚えがある。
そこに居たのは例の暫定女神だった。
女神は椿の頭が沈まぬよう、抱きかかえるように共に湯に浸かっている。膝枕ではなく、おっぱい枕だ。これはこれは…… シェロブにはできない芸当だ、流石は神と呼ばれるだけはある。
「しっ――」
その女神が口元に人差し指を当て、口を開きかけた椿を制した。その顔は優しく微笑んでいる。そのまま喋らなくてよいからと前置いて、椿に語りかけてきた。
「今、妹が貴女を癒やしている。
直ぐに良くなります」
へ? そう言えば、絵本に出てくる女神は姉妹だったっけ。何故いままで、思い出せなかったのだろう。
どんな人だろうと視線を巡らすも、その姿は見当たらない。
「貴女には、私達の魔法が※※ない
※※※、無理やり※※※※※仕方※ない※※」
椿の意識がハッキリするに従って、逆に女神の言葉があやふやになっていく。
何だ? 魔法がどう「ない」のだ? ついさっきまで、言葉が通じていたのに。
別に雑音が掛かったり、聞き取れない音に変わった訳ではない。単純に、知らない言葉に変わったのだ。片言の日本語を話す眼鏡芸の外国人タレントが、急に流暢な英語で喋りだした的な変化だ。
椿の表情で察したのか、女神は困ったように眉を寄せる。そのまま、子供に語り聞かすように、何かを話し続けた。時折、知っている単語が混ざる。それは異国の人たちが話すのを聞く中で、日本語に溶け込みカタカナとなった現地の単語に気付くようなものだ。
女神が使うのは、間違いなくこの世界の言葉なんだな、と改めて気付く。ロムトス語でも、ニジニ語でもない、第3の言葉か。それとも、ずっとずっと昔に、2国の文化が袂を分けた、そんな頃の古い言葉なのかもしれない。
女神は赤子をあやすように、ぽんぽんと椿の背中で調子を取る。温泉の効果もあって、心地よい。最後に、女神の優しい笑顔をまぶたの裏に残し、椿の意識は沈んでいった。
――再び、目を覚ます。
窓に揺れるカーテンが視界に入った。夏特有の、濃い緑の匂いを乗せた風が頬をくすぐる。現実味の薄い風呂ではなく、間違いなく生きている事を感じさせる刺激に包まれた部屋だ。
テラス窓の向こうには、延々と続く何かの畑と、それに沿ってポツポツと点在する家々が見えた。一言でド田舎と表現できるが、日本のものと違い山のない地平線までの景色は雄大で新鮮だ。
ふと、誰かが手を握っているのに気付いた。目だけで追った先に居たのは白侍女シェロブだ。
ずっと看病してくれたようだ。椿の胸元に突っ伏して寝てしまっている。彼女はベッドの脇に低いスツールを置いて腰掛けていた。床には毛足の長い絨毯が敷いてある。ここが日本なら、こんな夏場にと失神してしまうような部屋だ。けれども、この部屋は風がよく通り、過ごしやすい。
その色素の薄い髪を撫でてみる。
まるで良くできた人形のようだ。しかし、その髪はふわふわと温かく、生きているのだと主張してくる。
『交代しよう、食事にして。
シェロブ――』
部屋に入ってきたのは、覗き魔女のポーシャだった。
手に持った水差しを取り落したかと思ったら、駆け寄って飛びついてきた。
『お嬢さま! 良かった!
もう駄目かと思いました』
えー? そんなに酷かったんか。
ポーシャが騒がしくしたので、シェロブが目を覚ますし、色んな人が部屋に押しかけてくる。
話を聞く限り、椿が姿を消した様子はない。この街で、医者により手術を始めとした手当を受け、今に至るそうだ。やっぱり腹を開いたらしい。……下の毛は剃られたのだろうか? ふむ、魔法があるから必要ない?
なら、あの温泉は何だったんだ?
夢だったのか?
3日ほど眠り続けた椿は呼吸も浅く、いつ死んでもおかしくない容態だったそうだ。開いた腹から出たのは、豚頭の使っていた槍の柄、その破片だったようだ。
炎症のある腹を、よくも開いたものだ。異世界医学ではどのように感染症に対処したのだろうか。
『ポーションですよ。
飛びきり珍しいので、高価なんですが』
神都で得た助言に従い、シェロブが準備したらしい。
その目も眩む値段もやがて低く押さえられるかも、とはイリヤお爺ちゃんの言葉だそうな。ポーションの効果は異世界カビが担保している。原材料よりカビの確保が重要なのだ、つまり増やせば良い。貴重な葉をとっととすり潰してしまうより、極限までカビを増やしてからポーションにする手法が試されているようだ。流石、王立錬金術ギルドの仕事といったところ。
椿のガンベルト風ポーション鞄にも、その青いポーションが入っていた。錬金術の師をイリヤお爺ちゃんとするところの姉弟子カミラが、色とりどりのポーションを潜ませてくれていたものの内のひとつだった。もう2つ、3つがあったそうだが使ってしまったようだ。
いや、むしろ、ポーションがあったから手術に踏み切ったのだろう。
さて、人間はたった3日寝たきりになるだけでも筋力が衰えてしまう。少し鍛え直さないといけないな、地に足がついてない感じだ。歩くとふわふわする。
いつも絶やさなかった身体強化魔法は練らずにおく。代わりに、熊モードを鎧代わりに展開しておいた。なんせ、熊の力を得られるのは、身体強化魔法を併用したときだけだ。魔力を通さなければ、見えない着ぐるみに過ぎない。重さがないのでウェイトの効果が得られないのが残念だが、防弾チョッキ程度の安全が得られる。
まずは、衰えた体を鍛え直そうか。
椿が滞在しているのは、この街の領主の館だそうな。
まずは、数日を館内で過ごした。
運動も、素振りから始めていく。
そうやっている間にも、イケメン眼鏡のマーリンが予定を積み上げていく。ただし、それを消化するのは椿ではない、流石に病み上がりをこき使うことはしないようだ。あの眼鏡は、常に最短距離を選ぶ。椿が便利に使えたから、椿を選んでいたに過ぎない。あれが魔王なら、勇者の故郷にスライムなんぞ派遣しない。真っ先に本人が乗り込んでくるだろう。そんな性格をしている。
椿のリハビリ中は、その眼鏡がカザンと共に哨戒に出ていたらしい。急ぎ足で通り過ぎたニジニ大陸の東北部を、もう一度確認するそうだ。これまで霊穴は、海を望む立地にしかなかった、端っこを確認したくなるのは理解できる。
まあ、でも、あるなら南東じゃないかね? 山の霊穴から続く霊脈は南の斜面に傾いていたからな。首都の下を通っているかもしれない、そんな方向だった。
戻ってきた2人に、霊脈の話をするとカザンに怒られてしまった。早く言え、と。やー、だって、寝てたし?
そして、哨戒中は豚頭をただの1頭も見かけなかったらしい。ただ、犬頭を散見したと言う。単独の個体がちらほらと居たようだ。これは、まだ霊穴がありそうだよね。
そんな流れで、眼鏡は霊穴が南東にあると断定した。極めつけだったのは、犬頭が皆して南東に逃げた事だ。霊穴に、この惑星の傷を癒やす事ができる者を導こうとしているのか。
それが彼らの役目か?
いや、深読しすぎだろうか。霊穴の周りに例外なくあった集落、今度は犬頭のものなのかもね。単に、そこまで逃げようとしているだけだったり。
どちらにせよ、次の目的地は決まった。あとは椿の快復を待つのみ。
この街は標高が1500mを超える場所にあるそうだ。そりゃあ、夏でも過ごしやすい理由だ。
領主の館の周りはすべて畑で、自ら農具を担いで精力的に動き回る。そんなトップを据える街だ。働き者が、効率よく仕事をするものだから、生産効率は極めて良い。農業の学校まであり、遠くロムトスなどからも学徒が集うそうな。
しかも、コーヒーの産地である。ただ作物を作るだけに留まらず、加工も盛んだ。とにかく食事が美味い。ニジニ全体の台所を預かると言っても過言ではない。素晴らしい街ではないか。
おかげで、直ぐに神官スターシャを相手に乱取り出来るほどにまで快復した。
食事が美味いと、心も豊かになる。あの眼鏡すら、弟殿下と共に談笑しながら散歩するのを見かけるくらいだ。茜やオリガ嬢も自身の特訓と、程よい休暇を忘れない。皆が英気を養っている。
椿が、もう進軍を続けても大丈夫と判断できたのは2週間を費やした頃だ。
開腹手術をした人間がたった2週間でよくも元通りに快復したものだ。ポーションのおかげで傷自体は即座に治るのが大きかった。失った体力も、美味しい食事と美味しい空気、適度な運動でモリモリ戻ってきた。
カザンが組み手に付き合ってくれるし、茜は殿下にサーベルの扱いを習うし、オリガ嬢は嫌いな眼鏡と魔法の研究に勤しむ。これは文化祭の準備、はたまた巨大プロジェクトの準備か、浮足立って見える雰囲気の中にも各々から緊張感が漂う。誰もが、終わりを意識している。
魔王さんが居るという大陸まで、残る霊穴は1つだ。
異世界手術、電気メスならぬ魔力メスとかで切り開くのか?




